34 特別な名前
「明日、洗礼を受ける手はずを整えてきた」と、父上が言われる。
「洗礼って、自分達のですか」
「もちろん、そうだが」と、いぶかしげに聞かれる。
父上の常識としては、生まれたら洗礼を受ける。何一つ疑うことのない、自明のことなのだろう。しかし、こちらとしては、明日、洗礼を受けてきて下さいと言われても、あわてるしかない。
「こちらの教会は、何教ですか」
「何教って、精霊教会しかないが」
今更、何を言うのだという表情だが、こちらは転生してきたばかりで、この世界の常識に疎い。
「その精霊教会では、どの神を信仰されているのですか」
「どの神というのはないわね」と、母上が言われる。
「私は美の女神ヴィーナス様を」と、フレデグント姉さんがうっとりした表情で言われる。
「僕は、太陽神アポロン様」と、ベルンが、やや甲高い声を上げる。
「俺は、戦いの神マルス様だ」と、エーベルが宣言する。
「というように、信仰する神は様々だ」
「オーディン神やトール神を信仰する人はおられないのですか」と、ローマ神話の神ばかりが出てくるので聞いてみる。
「儂は、オーディン大神を敬っている」と、父上が言われる。
「それで、ブリュンヒルデなのですか」
「うむ、おこがましいと思ったがつけさせてもらった」
「他の名前とは系統が違うようですものね」
「おう、それさ」と、父上が前のめりになる。
「普通、神様や、その家族の名前はつけないわな」
「ええ、そうですよね。私も、ブリュンヒルデという名前を聞いて、いいのかしらと思いました」と、母上が疑問を呈する。
大学の教授に、ヒロヒトという名前の人がいた。字は違うが、昭和天皇と同じ名前で、凄いなと思ったことがある。本人も、親がつけたから仕方がないとのことであったが、明治時代には、天皇の名と同じ漢字をつけてはいけないという布告が出されている。
このため、改名した人もいるようだが、当時の旧日本海軍の駆逐艦で月の名前をつけたものの中に、睦月がないのもその影響である。明治天皇の名が睦仁だったからである。その後、布告は取り消されたらしく、駆逐艦睦月も誕生するのだが、天皇の名を無闇に使ってはいけないという意識は残っていた。もっとも、今は、Wikipediaに令和天皇という項目が堂々と立項されていて、それだと、死んだか、譲位したことになると思うのだが、今の天皇の名を知っている人も少ないような気がする。
もっとも、イギリスでジョージという名前が増えたのは、ジョージ一世が即位したからである。ドイツ生まれで、英語を解さない国王だが、二世、三世と代を重ねるにつれ、馴染みを増したのか、徐々にジョージという名前の人が増えていったのである。アメリカ独立戦争の英雄ジョージ・ワシントンは、その一人である。彼は、千七百三十二年、ジョージ二世治世下のイギリスのヴァージニア植民地で生まれたのである。
そして、ジョージ一世即位前のイギリスでは、ドラゴンを退治した聖ゲオルギウスに由来するこの名は、人口に膾炙したものではなかったのである。したがって、彼が即位しなかったら、アメリカの初代大統領の名はジョージではなかっただろうし、ジョージア州も別の名前であり、コカ・コーラのコーヒー飲料の名も変わっていたはずなのである。
また、カソリック圏を中心にマリアという名は男女を問わず人気であり、クリスチャンというようにキリスト教徒を意味する名も多いが、キリストという名の人は知らない。調べるとギリシャにはクリストスというキリストを意味する名の人は一定数いるようだが、神の名をつける人は少ない。たとえば、アポロというファースト・ネームに持つ人物を調べたところでは、早い例でも二十世紀の初頭であった。
「夢告があったのだ」
「夢告って、神様が父上の夢に現れたのですか」
「そうだ。次の子達は、未来を変えると」
「未来を変えるですか」
「それならば、特別な名をつけようと思った」
「それが、ブリュンヒルデなのですね」
「いや、レオンハルトだ」
「自分の名前のほうですか」
「そうだ、レオンはライオンのことだ」
「獅子の心ですね」
「そうだが、ライオンは動物の王とされる」
「はい、自分達の世界でも同じです」
もっとも、ヨーロッパにライオンはいない。そして、交通と通信が未発達のこの時代、ライオンを見たことのある人はほとんどいない。ただ、「聖書」に登場するので、ライオンという名前には馴染みがあった。したがって、それを見たいという要望に応えて、移動動物園なるものがはやり、それを見に多くの人が訪ねたという。
このため、この時代のライオンの絵の中には割と本物と似たものもある。しかし、大抵の絵にあるたてがみすら無視するものもあり、本来の姿を知らないもののほうが多かったということになる。これは、カメレオンが地上のライオンを意味しており、ライオンの一種と考えられていたということでも分かると思う。
「そうか、それで未来を変えるのなら、率いる者、王者たる者の意味でつけたのだ」
「何だか、名前負けしているようですが」
「しかし、問題は女の子の名前だった」
「私の場合は」と、フレデグント姉さんが聞く。
「曾祖母の名前を貰いました」
「だから、ヒルデには、私の祖母の名前を与えるはずだったのよ」と、母上が言われる。
「ところが、特別な女性の名前など思いつかなくて、どうしようかと思っていたら、ブリュンヒルデという名前を思いついた」
「突然ですか」
「突然だ。降ってきたと言ってもよい」
「はあ」
「それで、オーディン大神にお尋ねした」
「どうやってですか」
「そりゃ、心の中でに決まっているではないか」
「はい」という言葉を疑問形で言おうとしてひっこめた。
周囲の家族が熱心に聴いていたからである。
「すると、是という返答があったのだ」
「おお」という歓声が聞こえたような気がした。
この家族だけかもしれないが、この国の人達は純朴である。




