8 朋香さん
「今、お父さんと代わるから」と宣言するや否や、電話機をこちらに突きつける。
受話器から、「えっ、そんな急に」という声が聞こえる。久しぶりに聞く、朋香さんの声である。この人も、慌てることがあるんだと思ったら落ち着いた。
「お電話代わりました。重行です」と言うと、ほんの少しの静寂の後に朋香さんの声が聞こえた。
「お久しぶりです」というので、「迷惑をかけましたが、天音さんのお陰で何とかなりそうです」と答える。
しかし、この状況をどう説明しようかと思う。
「会いに行ってもいいですか」と、朋香さんのほうから提案がある。
「それは構わないのですが、入れるか…」と言った途端に、開けてあった引き戸の向こう、掃き出し窓の向こうを蝙蝠らしいものが飛んでいって、闇の中に消えた。
「いや、ぜひ、お願いします」と言う。
蝙蝠が入れるのなら、人間だって入れるはずだ。
「分かりました。着いたら電話します」
「では、こちらの電話のほうに」
「表示されているこの番号ですね」
「そうです」
「では」と言ってから、天音さんが腕を伸ばしているのに気がつく。
「天音さんと代わります」とだけ言って、受話器を渡す。
「お母さん、スマホの充電器と着替え、それにタオルを持ってきて」と注文を付けると、そのまま切ってしまう。
何だか、嵐みたいな電話だったなと思って、風呂へ行き、天音さんが入れるように準備をする。
天音さんは、台所で何かしている。何だかいい匂いがしているので、覗いてみると、チャーハンを炒めている。冷凍ものらしいが、案外、手際が良い。
廊下へ出て周囲を見渡して問題がないか確かめる。玄関にスリッパを置く。なんだか、落ち着かなくて、スリッパの角度を何度も確かめる。
しばらくすると、電話が鳴った。
「そのまま入ってきてください」と言って、表へ出る。
エントランスの闇の中から朋香さんが現れる。思わず手を広げる。朋香さんが飛び込んでくる。
「お帰りなさい」と、懐かしい声がする。
「ただいま」と、温もりの中で、噛みしめるように言う。
一分ぐらい、そうしていたと思う。
後ろで、遠慮がちな咳払いがする。
「ご飯、冷めるよ」と、天音さんが言う。
「えっ、ありがとう」と、朋香さんが言う。
「早かったわね」
「飛び出すなり、タクシーを捕まえたから」
「えっ、もったいない」
「ツー・メーターだったから、千円しないわよ」
「それで、充電器と着替えは」
しかし、朋香さんが持っているのは財布と携帯だけである。
「では、と言われた瞬間に飛び出したから、そんなの知らない。そんなに必要なら自転車で取ってきたら」
「それが、朋香さん」と言って、門の方向に歩く。
「出られないのです」
手足を動かしているのに前へ進んでいかない自分を見て、「ふざけているわけではないですよね」と、朋香さんが確かめるように呟いた。
「はい、天音さんも出られません」
「えっ」と、天音さんが口に手をやる。
そして、自分も試してみて、それが事実であることを確認する。
「二人とも生きているのですか」
「それも微妙です」
「どういうことでしょうか」
「説明が難しいのですが…」
「中に入ったら」と、驚きから戻ってきた天音さんが声をかける。
「邪魔者はお風呂に入っていますんで」
「そうさせてもらってよろしいでしょうか」
「もちろん、どうぞ」と玄関の扉を開ける。




