2 天音さん
「もしかして、小井天音さんですか」と、同じベッドに並んで寝ているブリュンヒルデと呼ばれる赤ん坊に声を掛ける。
両親は部屋を出て行き、アリエルとパル、それと自分達だけになっている。日本だと、赤ん坊だけにすることは珍しいだろうが、西洋では普通のことである。
「そうです、お父さんですか」と、小井天音さんが念話を寄越す。
いきなり、お父さんですかと聞かれて驚く。こんな展開は聞いていないぞ。
「そうです、お母さんは小井朋香さんですか」
「そうです、母も会いたがっていました」
「お元気でしょうか」と、一番、気になっていたことを聞く。
いろいろな答えを想像して、鼓動が高まる。
「会いたがっていました」って、なぜ、過去形なのだ。
身が強張るのが分かる。
「ええ、元気すぎるぐらいですわ」
「それは…よかった」
全身から力が抜ける。
しばしの沈黙の後に、「お二人には迷惑をかけました」と謝る。
「でも、お父さんも苦しんだでしょう」
「実は、あなたが小井さんだというのを知ったのは最近なのです」
「えっ」と言ったきり、天音さんが黙る。
これまでの経緯を話す。そして、電子メールに小井天音と名前が記されていたのを知ったのは、つい最近であることを話す。そして、そこから、もしかして、この人は自分の子ではないかと思うようになったことを正直に話した。
「そうだったのですね」と、天音さんはしばらく沈黙してから、自分自身と母親のことを語りだした。
やはり、朋香さんは、父親に引き取られてから妊娠に気づいたそうである。しかし、父親に出産を反対されたので、自分で母子寮を探して育てたそうである。そういえば、朋香さんを引き取ったのも随分経ってからで、補償金が目当てだったのじゃないのかと祖父が言っていた。
四年前、自分の家の前を通ると、庭に祖父がいた。そして、祖父は、連れている子を一目見て、自分の曾孫だと見抜いた。亡くなった連れ合いとそっくりだったからである。そして、同居と、養育費を提示したそうだが、朋香さんは断ったそうだ。
あなたは、この子の血のつながった曾祖父かもしれないが、同居とか、養育費とかを言えるのは、重行さんだけだという理由だったそうだ。しかし、重行さんには、このことを言わないでほしい。直接、本人がどう考えるか聞きたいし、別れてから妊娠をしたのが分かったのだから、逃げられても当然だと思うと、祖父と、天音さんの前で言い切ったそうである。
その気っぷのよさに、祖父は感動した。自分が引きこもっているので、曾孫どころか、結婚もあり得ないだろう。だから、生野の家も孫の代で終わるだろうと思っていたのに、曾孫が登場したので、何とかしたいと思ったというのもあるだろう。しかし、それよりも、初曾孫が登場したことに有頂天になったのだろう。
それから、知り合いの弁護士と相談して、通いの家政婦として朋香さんを雇うことにした。そして、その稼ぎでアパートメント・ハウスを借りてもらい、天音さんを育てる足しにしてもらうことになった。
ただ、それ以上の金を受け取ることを朋香さんは拒否した。仕事は午前中だけ、それだったら、余りたくさん貰うのは気が引けるということであった。このため、間に派遣会社を入れることになり、そちらから給料をもらうことでまとまり、アパートメント・ハウスも会社の入っているビルディングにある寮となった。
このため、朋香さんは派遣会社の社員として働くことになったが、一週間のすべてを使うことは労働条約上不可能であった。また、午後から別の介護の仕事をすることになったので、午後も来てほしい場合は臨時の者が行くことになった。
小学生だった天音さんは、祖父に懐き、休みの日は、朋香さんと一緒に家にも来た。したがって、わずか一年弱で祖父が死んだことは、天音さんにとっても大きな衝撃だったようである。ただ、生前の祖父の希望により、朋香さんは、仕事をそのまま続けることになり、天音さんも、高校生になると同時に同じ派遣会社に登録した。休みの時に朋香さんの代わりに通うためだったが、実際には、その時には、朋香さんも来ていたそうだ。
「実は、私だけというのは、ほとんどありませんでしたから、かなり緊張しました。もし、午後も来ていると知らずに降りて来られたら、どうしようかなと思っていました」
「朋香さんも、あなたも、直接、自分に会おうとは思わなかったのですか」
「私は、考えました。しかし、母は最初からそれはしないと決めていたようです」
「どうしてでしょうか」
「重行さんは、重行さん自身の戦いをしており、それを邪魔することはできないと言っていました」
あなたは、あなた自身で闘っており、自分で解決できるまで、他人が口を挟むことではないということだろう。
「ですから、私達にできることは待つことだけだと」
「ありがとう…ございます」
娘に使う言葉ではないかもしれないが、どうしても感謝の気持ちを伝えたかった。なので、「ありがとう」だけでは済まないような気がしたのだ。多分、他人からは何てもどかしいと思われるかもしれない。しかし、その対応は、引き籠もりの人間にとって、とてもありがたい対応である。もし可能なら、手を差し伸べたいところだったが、赤ん坊の体ではそれもかなわない。




