表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/301

1 魂魄

 右手に、ほの青い光の球が見える。光といっても蛍のように(はかな)く薄っすらとしたものである。そのうちに、そういう光の塊が、いくつも周囲に漂うようになってきた。ピンポン玉ほどの大きさで、それぞれに色がついている。遠目には、色とりどりの金平糖(こんぺいとう)をぶちまけたようである。それがどんどんと増えてくる。もっと小さな(あか)りのようなものも飛んでいる。

 触ろうと、手を伸ばそうとして気がついた。手がない。足元を見ると、足もない。耳も、鼻も、口もない。頭もない。ということは、自分も周囲と同じピンポン玉になって、薄っすらと光っているのだろうか。そういえば、自分の周囲がほのかに明るい。だとすれば、これは噂に聞く人魂(ひとだま)なのであろう。つまり、自分は死んだということになる。驚きはしなかった。そういえば、爆発を全身で受けたはずなのに、痛みがない。

 生きてもいないのに、見えているのはなぜだろう。周囲を漂う人魂を見ても、目などついていない。目を閉じようとしても閉じられないので、自分にもないのであろう。もしかすると、見えているのではなく、感じているだけなのかもしれない。そう思って、何か聞こえないか、匂いはしないか、感じるものはないかと探ってみた。しかし、何も聞こえないし、匂いもない。ただ、中空に浮かんでいるのが何とか分かる程度で、体にあたるものもなく、意識だけが薄ぼんやりした光の膜に覆われているようである。

 そういえば、中国では、人が死ぬと、(こん)(はく)に分かれて彷徨(さまよ)うとされている。魂は浮遊する気である。魄は沈む気である。魂は、浮遊しているうちに別の魄に出遭い、新しい肉体を得るという。中国版輪廻転生である。

 それはともかくとして、自分は死んだのだと分かって落ち着いた。学校を出て、就職をしたが、うまくいかずに退職、それから十年以上、家から一歩も出ずに引き籠っていた。ともかく、誰かに会うのが怖かったが、やり直せるのなら幸いだ。


 もともとは、魂魄の説明として、次の文章があった。しかし、くどかったので削除した。このエピソードが短いのはそのためである。


 魂は、云と鬼で構成された漢字である。()は、死者の霊である。日本では(おに)という最強の怪物という意味になっているが、中国では単なる幽霊である。キョンシーという中国版のゾンビがいるが、あれが鬼である。

 だから、鬼門は中国発祥の言葉であるが、反対の南西を意味する語が人門であるように、死者の出入りする方角という意味である。人門に生まれ、鬼門に死すわけである。しかも、中国では、妖怪変化や魑魅魍魎の出入りは鬼門ではない。天門、すなわち、北西である。江戸時代初期の「一寸法師」の版本に、鬼が何もかも振り捨てて、「極楽浄土の乾の、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり」とあるが、この乾(北西)が天門である。したがって、比叡山延暦寺や東叡山寛永寺が、平安京と江戸城の鬼門封じのためにあるというのは、前者に関しては間違いである。

 云は雲の下の部分である。このことから分かるように、軽い。このため、体から離れると浮く。古代日本では、中国か半島からの影響だと思うが、人が死ぬというのは、魂が口から抜け出ることと考え、たくさんの鈴をつけた杖を振り回し、その音で魂を呼び戻そうとした。そして、その呪具を鈴木と呼んだ。

 今でも、神楽鈴、巫女鈴と称して、柄のついた鈴がたくさんついた神具が置いてある神社がある。もっとも、神を招き寄せるためのものと称されているが、恐らくはこれが鈴木である。

 そして、この鈴木を苗字にしたのが、熊野神社の神官である。この一族は、熊野信仰を各地に伝え、信者になった者に自らの苗字を与えた。鈴で始まる苗字、鈴本とか、鈴山という苗字がそれほど目立たないのに、鈴木姓が非常に多いのはそのせいである。また、関東に比較的多いのも、そちらに熊野信仰を伝える人が多かったからである。

 一方、魄は、白に鬼である。白は、団栗(どんぐり)だという説もあるが、頭蓋骨がもとだといわれる。何も、そのようなもので代表させなくても、白いものなら、米でも、雪でも、雲でも、乳でも、何でもよいと思うが、道は生首を振り回して威嚇しながら行軍することだし、臣は目に刺青を入れた人である。他にもいろいろ漢字の由来には恐ろしいものがあるので、頭蓋骨程度なら可愛いものかもしれないが、これが選ばれたのは、何らかの霊性があったからであろう。

 実際、伯は何らかの霊性を持つ人を表したようで、(かしら)とか(おさ)という意味を持つ。したがって、伯父・伯母と、叔父・叔母の違いは、親の兄・姉か、弟・妹かの違いである。もちろん、伯のつくほうが年上である。 

 そして、落ちぶれることを落魄というように、魄は落ちる。重いからである。頭蓋骨なら当然である。

 南西諸島のほうでは最近まで残っていたようだが、アジア各地に洗骨という習慣がある。遺骨を取り出して、文字通り、洗うのであるが、骨が汚いままでは、神の前に出られないので、そのようなことをするそうである。長男の嫁がやらされるらしいが、精神的にも、衛生的にも気の毒なので、(すた)れていくのも当然である。

 それはともかくとして、神の前にというのは、再生のためであろう。だとすれば、骨に再生のための要素があるということなので、魄は、骨に宿ると考えられたのであろう。そう考えると、風葬とか、鳥葬という風習の意味も分かる。自然の中で、綺麗な骨になって、神にまみえるのである。

 上代日本でも、人が死ぬと河原等に放置された。これも一種の風葬であろう。吉野ヶ里とか、三内丸山とかは土葬だが、少なくとも平安時代にはそうなっている。芥川龍之介の「羅生門」でも、門の上は死体捨て場だったが、あれは「方丈記」を引用しているので、鎌倉時代初期の話である。つまり、中世でも風葬が行われていたのである。

 もちろん、仏教の伝来により火葬という風習もできた。しかし、薪を大量に使うので、皇族や上位の貴族しかできなかった。したがって、土葬が多くなるのだが、明治まで葬儀は、夜中に隠れておこなうものであった。これは、死体を捨てにいっていた時代の名残か、実際に捨てに行っていたからではないかと思う。

 おそらく、人が死ぬと魂が抜け、魄は体に残って骨となり、神の前につれていかる。そこで、漂っている魂と出遭って、新しい命が生まれると考えられたのであろう。中国流の輪廻転生である。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ