5.内通者
深夜、日付が変わる頃――、
レイシールズ城の東側、大手門付近に人の姿はなく、闇と静寂が辺りを包んでいた。
そこへ、何者かが周囲をうかがうようにしてやってきた。
城門に近付き、かんぬきに手をかけようとしたその時――、
「こんな時間に城を出て行こうとする奴は、誰だ」
突然の誰何の声に、人影はハッと動きを止めた。
カチッと石を打ち合わせる音と同時に、闇の中で火花が飛ぶ。しばらくして、2本の篝火に炎が赤々と燃え上がった。
ソニアとジェイド、そしてスネイカーが明かりの中に立っていた。大手門の付近に身を隠し、不審者が来るのを待ち伏せていたのである。
スネイカーの指示によることは言うまでもない。
「あなたは第5小隊第3班のニーナですね」
ジェイドが不審者の顔を見て言った。
「勝手に城を出ようとしたことに対し、何か言い訳があるなら聞かせてみろ」
ソニアがドスの効いた声で問い詰めた。
「え、ええっと……」
ニーナと呼ばれた女性兵士は、必死に言葉をしぼり出す。「その……申し訳ありません。死ぬのが怖くなったので、戦いが始まる前に逃げ出そうとしました」
「ならば、なぜ大手門から逃げようとした! こっちは共和国軍がいる方角だぞ!」
ソニアが怒鳴りつけた。
「裏切り者には、もうこの国に居場所はないからでしょう。あなたは共和国軍に内通していますね。スネイカー様はお見通しです」
ジェイドの追及の声は静かだが、はっきりと怒りを含んでいた。
「内通者がいることはわかっていた」
スネイカーも暗い声で続けた。「従騎士のカイル君が死ぬ前に教えてくれたよ。共和国軍は森に伏兵を配置し、サー・レックスたちが来るのを待ち受けていたそうだ。サー・レックスたちが模擬戦を行う日時と場所を、事前に知っていなければできないことだ。城内の者が共和国軍に情報を流していたんだ」
「その内通者が、なぜ今夜逃げ出すとわかったんですか?」
ニーナは震える声で問いかけてきた。
「俺がみんなに、共和国軍は明朝以降に攻めてくると言ったからだ。ならば逃げるチャンスは今夜しかない。共和国軍に攻囲されてしまったら、外に出られなくなる」
「共和国軍が明日の朝――いえ、もう今日ですね――攻めてくるというのは、嘘だったんですか?」
「嘘ではないが、言う必要はないことだった。明日の朝まで敵襲がないとなれば、兵士たちが気を抜いてしまうからな。
敵が今夜にも夜襲を仕掛けてくる可能性を捨てるわけにはいかない。現在城壁の上では、ソニアが絶対に信頼できると保証した兵士たちが見張りをしているよ。
まあ俺の予想では、敵は攻撃する前にまず降伏勧告をしてくるだろうな。常識的な司令官ならそうする」
(降伏を受け入れた後、女性兵士たちがどんな扱いを受けるかはわからないけど)
「将校殿は、そこまで読んでいたのですね」
「俺が怖れていたのは、防衛戦の最中に味方に城門を開けられることだ。だから戦いが始まる前に、なんとしても内通者をあぶりだす必要があった」
戦史をふりかえれば、味方の裏切りによって城が落ちた例は多い。
「私はまんまと将校殿にはめられたわけですか」
ニーナは自分が内通者であることを、もう否定しなかった。
「きっと君は、当初の予定では逃げるつもりはなかっただろう。指揮官不在では戦いにならないから、レイシールズ城は無血で開城されるはずだった。そうなれば他の兵士たちはともかく、君だけは共和国軍に保護してもらえる」
「でも、あなたにとって想定外のことが起きました。スネイカー様が将校として、この城に配属されていたことです」
ジェイドは剣の柄に手をかけた。「スネイカー様はみんなの前で防衛戦を行うことを宣言しました。それを聞いたあなたはあせったでしょう。戦いにはならないと、たかをくくっていたんですから。戦闘になれば当然戦死する可能性があります。もともと戦意がなかったあなたは、逃げるしかないと考えた」
「ええ、その通りです、副兵士長」
ニーナが認めたのを見て、ソニアは激高した。
「なぜだニーナ? なぜ国を裏切った? おまえのせいで1500人以上の味方が殺されたんだぞ!」
「裏切るもなにも、私は初めからこの国がどうなろうと知ったことじゃありません」
ニーナは居直ったように言った。「私が共和国軍に情報を流したのは、お金のためです。お金をくれるなら、サーペンス王国だろうとペルテ共和国だろうと、どっちでもいいです。誰だってそうでしょう? 愛国心のために戦おうとする兵士長の方が異常なんです」
「てめえ……」
「まあ王なんかがいない共和国の方が、はるかに幸せに暮らせるでしょうね。もうあなたたちは終わりですよ。共和国軍は圧倒的な戦力な上に、この城の詳細な情報も持ってるんですから。女の兵士だけで守れるはずがありません」
「この城の内部情報までもらしたのか」
ソニアは剣を抜いた。「断じて許すわけにはいかねえな」
「私だって、むざむざ殺されるつもりはありません」
ニーナも剣を抜いた。
「3対1で勝てるとでも思ってんのか?」
「やってみなければわかりません――よっ!」
ニーナは肩にかけていた雑嚢をソニアの顔面に向かって投げつけると同時に、スネイカーに斬りかかってきた。
(やはり俺がねらいか)
この場ではスネイカーだけが、まだ剣を抜いていない。不意をつけば倒せると思ったのだろう。あわよくば人質にとり、この城を脱出しようと考えているのかもしれない。
スネイカーはあわてなかった。
素早く地面を蹴ってこちらから距離を詰め、ニーナが剣を振り下ろそうとするタイミングで、その右手首をつかんだ。
「なっ!?」
「腕だけで斬ろうとするな。体重の乗らない斬撃では、相手の骨を断つことはできない」
そう言うと同時に足を払った。ニーナは手首をつかまれたまま、地面に横倒しになった。剣も取り落とし、痛そうにうめいている。
「両足がそろっているから簡単に倒されるんだ。それと、大事な武器を簡単に手放すな」
(この城の女性兵士の戦闘技術は、この程度なのか)
スネイカーはそのことで不安になった。
ソニアとジェイドについては、その構えを見ればかなり使えることがわかる。だが一般兵士の戦闘力がこれでは、白兵戦は厳しいかもしれない。
「ニーナは真面目に訓練をしてなかったんでしょう。他の兵士はもう少しマシなはずです」
ソニアはスネイカーの内心を読み取ったのか、弁解するように言った。
「それにしてもスネイカー様は強いですね。騎士と比べても引けを取らないのでは?」
ジェイドの言葉に、スネイカーは首を振った。
「それはない。戦うことが趣味の騎士と比べれば、俺の剣技など子どもみたいなものだ」
「そうでしょうか?」
「武術など、いくらでも上には上がいるからな。それでも自分より強い相手と戦わねばならないこともある。そんな時はまともに斬り合ってはだめだ。剣は『斬る』よりも、『突く』方が有効だ。防具や骨で守られた人体に致命傷を与えるには、斬るのではなく突くべきだ。そうでないと内臓まで刃が届かない。ソニア、これから兵士たちに剣術の訓練を施す時は、突きを中心に行うぞ」
(まるで殺人鬼のようなセリフだな)
自分の言葉がいやになるが、殺さなければこちらが殺される。それが戦闘だ。
「はっ、承知しました!」
ソニアはスネイカーの言葉に感心したのか、力強く返事をした。
ニーナはそんなやり取りを、倒れたままじっと聞いている。もはや抵抗は無駄だと悟ったようだ。
スネイカーは剣を抜いた。
(俺に……殺せるのか?)
偉そうなことを言ってはみたが、人を殺すのは初めてである。手が震えるのを抑えることができない。
「あたしがやります。兵士長として部下の裏切りには責任がありますから」
ソニアが一歩前に出てそう進言したが、スネイカーは「いや、俺がやる」と言って譲らなかった。
自らの手で内通者を処刑するつもりだった。
もちろん殺人などしたくない。だが戦いが始まれば、スネイカーは兵士たちに殺人をさせなければならないのだ。
自分には殺す覚悟がないのに、兵士に同じことを命令できない。
それに裏切り者には容赦しないという姿勢を、兵士たちに示しておくことは重要だ。
スネイカーが自ら裏切り者を処刑すれば、その話はソニアとジェイドの口を通じて兵士たちに伝わるだろう。
それで兵士たちがスネイカーを怖れてくれれば、規律は保たれる。戦時における指揮官は、愛されるよりも怖れられたほうがよい。
「将校殿、さっさと殺してください。私の夫は戦死し、息子も病気で死にました。私の帰りを待つ者は、もうどこにもいませんから」
ニーナは上体を起こし、投げやりな口調で言った。「ああ、なんでこんな国に生まれてきたんだろう」
その悲痛な言葉に、ソニアとジェイドも押し黙った。
ニーナは確かにサーペンス王国を裏切った。しかし国の方も、彼女に何一つ与えていないのだ。
彼女がペルテ共和国に生まれていれば、夫が戦死したとしても兵士になることはなかっただろう。
共和国では、戦死者の遺族には遺族年金が支給されるからだ。サーペンス王国とは違い、社会保障の概念が存在するのである。
民衆にとって、ペルテ共和国の方がはるかに住みやすい国であることは間違いない。
しかしどんな事情があったとしても、裏切り者は殺さねばならない。
(この俺が、1人の人間の人生をここで終わらせるのか)
吐き気がこみあげてきた。
考えるべきではないと思いつつも、彼女のこれまでの人生を想像してしまう。
ニーナが生まれた時、彼女の母親は娘を腕に抱いて、これ以上ない幸福感に包まれていたはずだ。
その隣では父親が、娘の輝かしい未来について空想しただろう。まさか将来裏切り者として処刑されるとは、夢にも思わなかったに違いない。
ニーナの家は裕福な家庭ではなかったかもしれないが、日々の暮らしの中では楽しいこともたくさんあったはずだ。
たまにある祝祭日にはご馳走を食べ、歌い踊っていたかもしれない。
好きな男と話をするときは、心が浮き立ったかもしれない。
戦死した夫とは、どんな経緯があって結婚したのだろうか。
息子が生まれた時には、どれほど幸せな気持ちになっただろうか。
そんな彼女は、もう二度と笑ったり泣いたりできなくなる。
(1人の兵士の死にこんなに心を痛めるなんて、やはり俺は軍人には向いてないのかもしれない)
だからこそ今後の戦いのためにも、殺しを経験しておく必要がある。
スネイカーは両手でしっかりと柄を持ち、剣を振り上げた。
「ニーナ、君の名前は覚えておこう」
その首筋をねらって素早く剣を振り下ろした。驚くほど手応えがなかった。
「お見事です。苦しむ間もなかったでしょう」
ソニアの賛辞を聞いて、自分が一線を越えたことを悟った。
手の震えは、いつの間にか収まっていた。