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未来が可能性であるならば過去も可能的である


 「未来は変えられる」

 

 アニメやゲームで主人公がよく言うセリフ。

 バック・トゥ・ザ・フューチャーはよく見たことはないけど一度くらいは言ってると思う。


 何事にも因果はあるけどそこには上振れや下振れがあって僕ら人間の選択が選び取る未来を変えているという考え方。

 

 でもよく考えてみると物事がドミノ倒しのような因果関係で動いているのなら未来は変えられるというのはおかしなことじゃなかろうか。

 因果というのはドミノ倒しのように次へ次へと流れていくと同時に、ドミノ倒しのように決してルートが変わるものじゃない。事前に用意されたドミノがただただ倒れていくだけで右に突然ドミノたちが並びなおしたりするわけじゃない。


 もし因果関係というのが不確実性を挟まない絶対的なものであるのならばビッグバンが起こった時にはもう結末は決まっていることじゃないか。

 私たちがどれだけ藻掻こうとも未来は変えられない。


 ……まぁ、それは極論だけど。


 そうやって未来は変えられないと考えて努力を怠る免罪符にはならない。

 これを真に受けても意味はないのだ。ドミノ倒しの一本道だとしても次へと進むのは私たち自身なのだから。


 今回話したいのはそんなことじゃない。


 未来が変えられるのなら過去も選べるんじゃないか。

 

 並行世界論はよく木の枝のように例えられている。未来だけは幾つも選べるかのよう。

 じゃあ過去も無数にあるとしたら。


 現在というのは過去と未来の一本線が幾つも交わってできた点のようなもの。

 だから現在から逆算してあり得る過去を幾つも選び取ることが出来るのではないかという説を立ててみた。


 そもそもこれを考えたのは小説を書いているときだった。

 いやこの世界の始まりと終わりを考えているときだった。

 いやどっちも考えてるときだった。


 色々な仮説が立てられた。

 創作においてはビッグバン以外の宇宙の始まりや世界の始まりなんてざらにある。

 神話なんて特に顕著だ。


 ギリシャ神話、インド神話、日本神話、ハワイ・ポリネシア神話、中国神話。


 それら全部が違う考え方をしている。

 世界は混沌から生まれたのか、ミルクが混ぜられて生まれたのか。


 ファンタジー作品では様々な神話を取り入れた作品があるが、それらには神話のエッセンスを淹れた分だけの矛盾が生まれてしまう。それは創世期はどのように訪れたのかという矛盾だ。

 創世はたった一つの始点だ。

 始点は始まりがゆえに一つしかない。

 従来の考え方では鶏が先か卵が先か、どちらか一つしか選べないのだ。


 だから、過去の重複がこの創世期の矛盾を解決する糸口となった。

 鶏も卵も同時に存在したのだ。


 過去は現在と言う一点において結ばれている。

 そして未来もまた現在とい一点から放射状に広がる可能性の世界である。


 それが未来の可能性と過去の可能性。

 でも、これは未来が変えられる前提でのフィクションでのことだ。


 未来が変わるように不確かであれば、過去もまた因果の結びつきが緩くなった部分は不確かになる。


 右足出して左足出してを繰り返していけば確かに歩くという動作になる。

 そして歩行を終えた時最後に出した足とは逆の方の足がその一歩手前に出した足だ。

 

 しかし生まれて初めて歩いた時に出した足を今から計算することは記録でもない限り不可能に近しい。つまり記録媒体がなければ現実から過去に向かって時が伸びるほどに過去はあやふやになっていく。そこに並行世界の挟まる余地が生まれるのではないか。


 創世神話が幾つもある理由は今から数億年前で、誰も記録するものが居なくなったからである。

 誰も記録し続けることが出来なくなった過去たちが一つの現在で結びつくことでデータの消滅を免れ、神話時代という複数世界のデータがコリジョンしたあいまいな状態を迎えることが出来る。


 確かに全ての創世神話はことがなされた。

 そして時代が遠く離れていくにつれてそのデータたちが因果の記録によって存在が証明できなくなると、他の似たような過去のデータと交わって一つの現在現実を作り出した。


 というのが私の提唱する未来の可能性と神話の可能性だ。


 今いる私たちの世界もただビッグバンという因果によって偶然他の可能性よりも保証された過去の上に成り立つだけの世界で、一歩間違えれば他の世界の過去と混同されてそのバグの結果魔術が使えるようになるほど秩序が乱れてしまうくらいにはあやふやな世界なのかもしれない。


 と、こんな「僕の考えた最強の世界論」を脳内で論じているうちに休日が終わっていたのだ。

 なんと不毛なことかと思ったが、それを不毛のまま嘆いていてもしょうがない。

 ということで僕の考察結果を一本のエッセイに纏めて投稿した次第である。


 過去を変えたいと思っているうちは過去は変えられないのだろう。

 なぜならばそう思う我々こそがその過去を記録する媒体なのだから。

 だからきっと数千年たって私やあなたの消し去りたい過去を誰もが忘れた時はきっとなくなったり、別の世界の話で埋め合わされていたりするのかもしれない。


 まぁ、そもそもこの世界自体が記録媒体としての役割を為しているからこの説はありえなくなってしまうのだけど。


 もし過去を変えたいのならこの世界のどこかにある記録する仕組みから記録を消さねばいけないだろうな。


 それこそ、都市伝説にもでてくるようなアカシック・レコードが焚書されない限りは過去の重複もきっとありえないのだろう。


 全て僕の頭の中だけの世界での話だな。

 僕の頭の中の世界は簡単に忘れられてしまうから。

 

 

 




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― 新着の感想 ―
[良い点] 江戸銀(エディ)様 この手の話大好きです。 そう、過去にも不確実さがあります。(キッパリ) 物理法則には、本来、時間対称性があるのだから、 未来が不確実なら、過去も不確実でなければ、…
[一言] "産まれた"から始まるフラクタルな図系のことかな? とか思いました。 平行世界とは違うと思いました 人は選択をしてフラクタルを進んでいく 死んだらそこで終わる その選択を選んだところまで戻…
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