歌姫アリーチェ=カスタニーニの嘘つきな下僕
広い舞台を人々が取り囲んでいる。
舞台の上では男優が、恋を失った悲しみを、低く響く声で観衆に訴えかけている。
声は徐々に大きくなり、震え、やがて頭を抱えて膝をつき
絶望の末に彼は舞台に倒れた。
見つめる観衆の前に、舞台の奥から主役の女が現れる。
深紅のドレスに身を包んだその女は
白い肩をむき出しにし、滑らかに腕を広げ赤い唇を動かした。
風が吹いたのだと思い、人々は思わずそれぞれの帽子や髪を抑えた。
風ではなかった
声
初めは刃のように、やがて落ち着いた春の空気に変わって会場を包む。
観客はぽかんと口を開けたまま、天上の声に聞き入っている。
女は倒れた男に歩み寄り膝をつくとふわりと腕を動かした。
細くよく通る声が、彼女の悲しみを表していた。
枯れて色褪せた薔薇を男の唇に当て
それを離し、顔を見つめて屈みこみ、男に口づけた。
死んだと思われていた男が体を起こす。
女を抱き上げ、喜びを感じさせる歌を歌う。
男の声に重なった煌めく宝石のような声に人々は震えた。
クライマックスを迎えた舞台を、観衆は歓声を上げながら見守っている。
「三章の『悲嘆の宴』、一番の見せ場なのによくも外してくれたわね。そもそも最近は声にいつもの伸びも深みもない。お酒の飲みすぎよ、ダンテ」
ネクタイを緩め衣装の裾を出し綺麗に割れた腹をかいていた男優は、はいはい、と軽く言った。
男優らしく整った、だがどこか甘く崩れた顔立ちの男である。
「女王様は今日もいいお声でしたよ。至らない相方ですいませんねえ」
「わかっているならなんとかしてちょうだい。音がずれるほど気持ちの悪いことはないわ」
「ずれてた?」
「あれがわからない人間なら、舞台に立つべきではないわ」
「おお恐い。そもそも俺は男優には向いてないんだ」
「じゃあなんなら向いてるのよ」
「それが分からないから、仕方なく今日も麗しい女王の下僕になって愛を歌ってるのさ」
パチンとダンテが服を脱ぎながらウインクした。
アリーチェは肩を上げ、ため息を吐いた。
「下僕なら下僕の役をちゃんとやってちょうだい。女王の輿を揺らすのはやめてもらえるかしら」
「かしこまりました、女王様」
恭しくアリーチェの手を取り、唇を当てた。
男の芝居がかった仕草を、女はあきれながら見下ろす。
アリーチェ=カスタニーニは人気の舞台女優だ。
大理石のような白い肌、大きくカールさせた深みのあるブラウンの艶やかな髪に、湖のような深い青の瞳
華やかで均整の取れた美しい容姿
なにより『天上の声』と評されるその澄んだ声
何故相方がいつもいつもこの男なのかしら、とアリーチェはダンテをにらみつけた。
彼は22歳のアリーチェより確か4歳上の、26歳だったはずだ。
容姿も声の質もいいのに、彼は努力が嫌いだ。
目を離せばすぐに手を抜こうとするから、いつも恐い教師のように見張っていなければならなくなる。
ぐいと手を引かれアリーチェはバランスを崩した。
男の胸に顔が当たり、するんと伸びた手に腰を抱かれて、アリーチェはじろりとその相手を睨みつける。
「何よ」
「アリーチェ、最後のシーンの練習しようか」
「まあめずらしい。『喜びの歌』?」
「ん~ん、その前。薔薇のすぐあと。今日のキスは最高だった。いまだに腰が切ないよ」
近づいてくる顔を、ペンと張った。
この男はどうしようもない女好きなのである。
「よそでやってちょうだい。私は練習してから帰るわ」
「ならしょうがない。今夜も酒場のお姉様たちに慰めてもらおう。今日もお疲れさん」
「飲み過ぎたり、裸のまま寝たりしないでね。喉を傷めるから」
もう衣装から私服に着替えているのに開きっぱなしの相棒の首元のボタンを、アリーチェは留めてやる。
「最近はもう朝夜冷え込むから、ちゃんと注意して。あなたって結構風邪引きやすいから」
ぽんぽん、と柔らかい筋肉のある男優の胸を優しく叩いて撫でる。
言いたいことは多々あれど
やはりこの男はアリーチェの大切な相棒なのだ。
じっと見ていたらまた腰を抱かれた。
「……裸で運動してからじゃないと寝られない体質なんだ。試しに今日こそ君のベッドに下僕を寝かせてみないか女王様」
「酒場でやって。運動が終わったら着たらいいじゃない」
「もう一回があるかも知れないじゃないか」
「そのときに脱ぎなさいよ」
腰に回った手をぺちんとはたく。
「呼ばれればいつでも馳せ参じます。その気になったらいつでも言っておくれ」
「ええ、その気になったらね」
じゃ、と笑って手を振り男は消えた。
ふう、とアリーチェはため息をついて見送った。
アリーチェは戦争孤児だ。
大陸の西にあるこの国は、小さないくつもの国々がひしめき合い、その領土を巡って幾度もの戦争を繰り返してきた。
村を焼かれ孤児として放り出され、頼る人もいなかった10歳のアリーチェは、歩いてなんとかこの町にたどり着いた。他の子のように盗みをすることもできず、どうやったら働けるのかもわからず、はじめはただただ路上に座っていた。
ときどき誰かが小銭を椀に入れてくれるからなんとか生きていたものの、一度夜に大人の男に襲われかけ、外はこわいと思い知った。
何か、自分にできる仕事はないか。そう思っていたとき、路上で歌を歌ってお金をもらっている芸人を見つけた。
ぱあっとアリーチェの顔が輝いた。
アリーチェは歌える。村の子では一番に上手だった。
アリーチェは歌った。
人々はガリガリに痩せた薄汚い少女が発する宝石のような声を驚きとともに聞いた。
やがて舞台女優にならないか、と声をかける大人が現れた。
いつまでも外にいるのは怖かったので大急ぎで頷いて、アリーチェはこの劇場の女優の一人になった。
初めは住み込みで歌っていたがそのうち人気が出たので近くに貸家の一室を借りて一人暮らしをしている。
ダンテは旅芸人だったのを、この町に立ち寄ったときに声をかけられたのだそうだ。アリーチェが13歳のとき支配人に連れられて劇場に現れた。
深緑の瞳がじっとアリーチェを見つめていたことを覚えている。
兄弟が多く、お前の好きにしていいと座長である親に言われたこと、何より『あっちこっち動くのがめんどうくさい』という生来の怠け者らしい理由で、あっさりとその申し出を受けたのだという。
毎晩酒と女に溺れながらいったいいつ練習しているのだろうと思うが、外見に華はあるし、彼の持つ声の質は確かに素晴らしいとアリーチェも思う。
だからこそもっと練習して磨いてほしいのに、いつもいつもあの調子だ。
他にも男優はいるが女優よりも数が少なく、『絶対この人じゃなきゃ嫌』とほかの女優に独り占めされている男優もいて、なぜだかアリーチェの相手役はいつもダンテなのだ。
お互いの瞳を見つめながら、何遍愛の言葉をささやき合ったことだろう。台詞として。
キスしたことがあるのもダンテだけだ。これもあくまでお芝居。舞台の上と、練習でだけ。
アリーチェは男を知らない。
こんなにも愛の言葉を吐きながら、恋を知らない。
世間ではすっかり行き遅れの歳だが、きっと結婚することはないだろうと思っている。
子どものときに男に襲われかけた記憶が、アリーチェの心に傷のような恐怖を残していた。男性に触れるのが、どうしても怖い。ダンテは慣れすぎてしまって例外だが。
でも自分には歌がある。舞台がある。
いつまでも、何歳まででも舞台に立とう。
その歳、その歳でなければ歌えない歌を、歌い続けよう。
ある日の練習中、それは起きた。
どおん、と地面が揺れた。
パラパラと木くずが降ってきた。
「なんだ?」
なんだなんだと役者たちは外に出た。
むっと焼け焦げた匂いが鼻をつき
大きな影が、太陽の光を横切った。
「ワイバーン……」
背に人間を乗せた飛竜が、だんだんと遠ざかっていく。
どおん
爆音が遠くから聞こえ、熱い風が吹いた.
「……戦争だ」
誰かがつぶやき、台本を落とした。
故郷の村を焼いた災厄が、また始まったことを
ダンテに肩を支えられ震えながら、アリーチェは知った。
劇場は閉鎖された。
国の一大事に、呑気に歌など歌うなという上のお達しがあってのことだ。
別の国から出てきている役者もおり、彼らはしばらくこの国を離れるとのことだった。
戦争が終わったら、またここで共に歌おうと約束して別れたものの
それが叶うと心から信じるほど、彼らは子供でも世間知らずでもなかった。
徴兵される前に国を離れようとする国民も多く、国境の門は毎日大混乱だという。
そんな中、いつ演れるのかわからない未発表の新作を、アリーチェとダンテは誰もいない劇場で練習していた。
家にいたってやることも無いし、体を動かして何も考えないようにしたかった。
きっと断られると思ったのに、ダンテが誘いに応じたので、アリーチェは驚いたがホッとした。
男女の絡みのシーンが多い恋愛ものだったので、一人では練習にならないからだ。
座ったダンテの正面に膝を突き、腰を彼に抱かれる。
愛の歌を歌いながら、アリーチェが天に両の腕を伸ばす。
細い余韻を残して声は消えた。
本当ならここで、観客の歓声が響くはずだった。
演じ終え、頬を涙が伝っていることに、アリーチェは気が付いた。
じっとそれをダンテが見ている。
「今日はずいぶん熱が入ってるね」
「……これが最後かもしれない、と思うとどうしても」
いつここが戦火に包まれるかわからない。昔みたいに。
今度自分の世界を焼かれたら、アリーチェはどこに行くのだろう。
せっかく作り上げたアリーチェの世界が
またばらばらに、壊されたなら。今度はどこに。
「悲しいなら抱きしめようか?」
「さっきからずっと抱いてるわ。そろそろ離して」
「やだね。休みの日に練習に付き合ってくれた男にご褒美くらいくれてもいいだろう」
二人とも汗まみれなのにさらにぎゅうと抱かれ、はぁとため息をついた。
目の前の甘い顔を見た。
そっと男の髪を撫でた。
「……今日は音が外れなかった。ちゃんと練習してるのね」
「うちの女王様はこわいから、怒られないようにと思いまして」
「褒めて遣わす」
「ありがたき幸せ」
二人でふざけているところに
「アリーチェ=カスタニーニ、ダンテ=ルッツォリーニはいるか」
突然幕下の扉が開き、軍服を着た男たちが現れた。
大中小と誂えたように背の高さの違う3人が立っている。しゃべったのは先頭の小さい軍人だ。
「アリーチェ=カスタニーニは私です」
「……ダンテ=ルッツォリーニです」
手元の何かとそれぞれを見比べ、小さい男は頷いた。
「よしではまずダンテ=ルッツォリーニ。おめでとう。召集令状だ。記載の場所、時間に遅れずに向かうように」
「……」
手渡された紙を、見たこともないような暗い瞳で、彼は見つめた。
「そして女優アリーチェ=カスタニーニ、君には上級兵士慰安のため、芸能枠の歌手として召集命令が出ている。通常の召集とは別便の馬車を誂える。明日この時間に劇場の前に回すので、必要な荷物を準備して待つように。以上」
ダンテのものとは色の異なる紙をアリーチェに手渡しそれだけ言い敬礼して、幕下の扉から男たちは消えていった。
「……」
二人は呆然と固まっていた。
「……慰安……」
『歌手として』と彼はそう言ったが
「……歌だけで済むと思う? ダンテ」
「済むわけがないだろうね。君は美しすぎる。俺が上級兵士ならその声は別の場所で聞きたい」
「……」
ぼろぼろと涙が落ちた。
体が震える。
考えるだけで、死にたいくらい恐ろしい。
「……キスもしたこともないのに」
「いつも俺としてるじゃないか」
「あれは演技だわ」
「俺はキスだと思ってる。俺は君とキスしてる。何回も」
「……」
「麗しき女優アリーチェ=カスタニーニの唇の柔らかさを知るのはこの世に俺だけだ。光栄なことに」
彼の曲げた指がアリーチェの唇をそっと撫でた。
ダンテの熱を、アリーチェはこわくない。
「ダンテ」
「うん」
「今夜、女王のベッドで眠る?」
「……」
やや垂れ気味の深緑の甘い目がじいっとアリーチェを見つめた。
「私、知らない人と……する、くらいなら」
涙が溢れてダンテの指を濡らした。
「……せめて、初めては……」
ダンテがアリーチェの肩を引き寄せた。
髪を、背を、大きな手が優しく撫でる。
「……女性がそれ以上言っちゃいけない。とても光栄で背筋が痺れるほど嬉しい。でも実に不運なことに今夜は予定が空いてない」
額が付きそうなほど近しく顔を覗き込んで
甘く、彼は笑った。
「明日約束の時間より早くここに来ておくれ。朝から待ってるから」
「……」
こくんとアリーチェは頷いた。
夜を一人で過ごすのは嫌だったが、荷造りも必要だった。
どれくらい、何がいるのだろう
大きな鞄はあっただろうかと考えながら歩みだしたアリーチェの背中を
ダンテの瞳が、じっと見つめていた。
翌日
トボトボとした足取りで、大きな荷物を持ってアリーチェは劇場を訪れた。
もっと早く行こうと思ったのに足が重くて、結局約束の時間の少し前程度になった。
震える手で扉を開く。
彼はそこにいた。
姿を見れば急にほっとして、アリーチェは息を吐いた。
「……遅くなってごめんなさい」
「遅くないさ。何時とは言っていないから。お茶でもどうぞ」
「ありがとう」
「一気に飲んでくれ。頼むから」
「?」
彼は真剣な顔をしていた。
コップ一杯のものなので、一息で飲もうと思えば飲めそうだった。
普段の二倍くらい時間をかけて歩いてきたから、喉も乾いている。
では一気に行こうとコップを傾けて
「!?」
ゲッホゲッホとアリーチェはむせた。
喉の奥に、焼けるような強い刺激を感じた。
「か……ッ……!?」
アリーチェは喉を抑えた。
声が出ない。
そんな姿を、ダンテが穏やかな顔で見つめている。
「毒草の汁を入れた。旅芸人をしていたころ、どうしてもさぼりたいときに飲んでたやつだ。5倍に薄めてたけれど」
「……」
「最初以外痛みはない。声は一週間もあれば戻るはずだ。治ってもしばらく声が出ないふりは続けてくれ」
「ァ……」
「来たみたいだね」
「女優アリーチェ=カスタニーニ! 準備はいいか!?」
「女優アリーチェ=カスタニーニは行けません。私の盛った毒で喉を焼き、永久に歌声を失いました。彼女は何も知らなかった。罰するのはどうぞ私だけにしてください」
舞台の上のように、彼は良く通る声を出した。
「……」
昨日と同じ三人の軍人が入ってきて、向かい合っている二人と、床に転がるコップを交互に見た。
「本当に声が出ないのか」
「……」
必死にアリーチェは首を縦に振った。
長身の軍人が部屋の隅っこの箱をどかし、何かをしている。
こちらに戻り、アリーチェの前に立った。
目の前に何かがブランと差し出される。
キイキイと鳴くネズミだ。
次の瞬間目の前でそれが
ぶちん、と上下に割れた。
「――ッ……!」
ぴっと飛んだ血が一滴、頬に跳ねた。
叫んだはずなのに音の出なかった口を抑え目を見開いて蒼白になっているアリーチェを、軍人はじっと見た。
「どうやら本当らしい。歌姫は病により歌えなくなったと上に報告しよう。そっちの男もどうせ戦場で死ぬのだから今殺したって仕方ない。矢避け用の兵士が一人減るだけだ。捨て置け」
「はい」
どうやら長身の男が上司だったらしい。二人が付き従った。
彼はダンテの横で足を止めた。ダンテにのみ届く声で彼は囁く。
「上手くやったなルッツォリーニ。……俺でもそうする。こう見えて俺は彼女のファンだ」
「……」
彼らは去っていった。
「さて、俺もそろそろ行かなくては」
ダンテは荷物を担いだ。
自分の袖でアリーチェの頬を優しく拭く。
「それではさようなら俺の女王様。俺は世界一君を愛している。初めて出会ったときからずっと、凡人ダンテ=ルッツォリーニは麗しき天才女優アリーチェ=カスタニーニに恋をしていた。これまでも、これからも。例えこの身が滅びようとも永遠に愛し続ける」
「……」
ゆっくりとダンテの顔が近づいた。
アリーチェが拒否したらやめようと、そう思っているのが分かったから、アリーチェは目を閉じた。
初めて
演技以外で初めてのキスだった。
唇を離し、赤くなっているアリーチェを見て、ダンテはとろけるように嬉しそうな顔で笑った。
「さようなら」
「……」
声は出なかった。
男の告白に何も言えないまま、アリーチェは消えていく男の姿を見ていた。
あれから4月
もともと相手を打ち滅ぼそうとして始まった戦争ではなかったらしい。お互いに疲弊し、一部の鉱山の所有権を手放すことで、相手の国との折り合いがついたらしく、戦争は終わった。
さんざん人から奪っておいて、失わせておいて、何が鉱山だと泣きたくなる。
徴兵されても無事だった人たちがちらほら帰還していた。
そわそわとずっと劇場で待っていたが、もしかしたら家にいるかもしれないと思いアリーチェは支配人にダンテの住所を聞き、足を運んだところだ。
「もし、ダンテ=ルッツォリーニを最近見ておりませんか」
隣のドアが開いたので、出てきたおじいさんにアリーチェは尋ねた。
「ダンテ? あのうるさい色男か。ここんとこ見とらんよ」
そうですか、とアリーチェは肩を落とした。
それにしても、うるさいとはなんだろう。
もしや女性を家に連れ込んでうるさくしているのかと思いアリーチェは重ねて尋ねる。
「うるさい、というのは、その」
「朝も晩もい~っつも歌っとるで、よそでやれとワシが怒鳴ったら、最近は公園か何かでやってるようで。だが聞こえないと聞こえないでちとさみしいから、どうしようかなと思ってたら今度はいなくなっちまった。どこ行ったんかのう、あの色男」
「……また来ます」
アリーチェは劇場に引き返した。
まっすぐに前を見ながら
頬を涙が伝っていることをわかっていた。
毎晩、酒場に行くと
裸で運動しないと眠れないと言っていた練習嫌いなはずの男の歌を
隣人は毎晩家で聞いていた。
アリーチェはずっと騙されていた
彼はずっと演じていた
女たらしで酒好きで
怠け者で軽い男をずっと
アリーチェへの気持ちが、アリーチェを怯えさせないように
心に押し込めた愛のかけらが唇から零れてしまっても隠せるように。
なんでもない顔でそばに居続けられるように。
横にあり続け、ともに歌い続けるために
ずっと
ずっと
初めて出会ったあの日から、9年
9年間も演じていたのだあの男は
「馬鹿じゃないの!」
叫びながら開いたその扉の先に
彼はいた。
「……ただいま」
「……足はある?」
「長い手も足も、女性たちがキャーキャー言うかっこいい顔も無傷で全部ある。歌って踊って褒めたたえて上官に気に入られて、鞄持ちになったから戦いの場に行かなかった。怠け者が見事に演じて立派な腰抜けになっただろう。死んでも死にたくなかったからね。俺は女王専属の下僕だから」
腕を緩やかに広げ、彼は恭しく礼をした。
「……女王自慢の名俳優だわ」
アリーチェは歩み寄り、彼に抱き着いた。
ダンテが微笑みそっとその体を抱きしめる。
腕に馴染んだその男のかたちが
いつも通りあたたかいことが震えるほど嬉しかった。
涙が頬を伝った。
「おかえりなさい。ダンテ」
「ああ、いい声だ。頭が芯から痺れる。ずっとこの声を聞きたかった」
アリーチェは抱かれたまま相棒の顔を見上げた。
「じゃあこれからはずっと聞かせてあげる。どこでも、あなたの望む場所で。好きなだけ」
女の涙をぬぐうために出した手を止め、驚いたように目を見開いたあと、頬を染めるアリーチェを見つめて色っぽくダンテが笑った。
「演技ではなく?」
「そのときだけ女優をやめてあげるわ。そのときだけは」
「参ったな、最高のご褒美だ。取っておいてよかった。どうやら余計に美味しくなったようだぞ」
抱き上げられた。
唇が重なった。
「うちに行こうか。真昼間で明るくて嬉しいね」
「隣のおじいさん、あなたをうるさいと言っていたわよ」
「大丈夫、今日はじいさん娘さん家にお呼ばれの日だ。いくらでも素晴らしい声を出していいよ」
「抱いたまま行くつもり?」
「さすがにもう逃がすつもりはない。俺は実によくやった」
「そうね」
アリーチェは笑った。
スッと胸を張り彼の顔に指を伸ばし、真っ直ぐに彼の瞳を見た。
「では褒美を取らせよう、ダンテ=ルッツォリーニ」
「恐悦至極にございます。女王陛下」
再び唇を重ねて
女王と下僕は涙を浮かべたまま笑い合った。
短編初挑戦いたしました。
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