「死神」と(自分で名付けて)呼ばせた男。【後編】
ちょっと文字数がおかしな事になっておりまして、二万文字を超えております……。死神、ウッザ!
ですので、お時間ある時にどうぞ。
街から帰ると、お嬢様がすっ飛んできた。
何かと思ったら、『お忍び号DX』の感想を尋ねられた。
きちんと考えるのをすっかり忘れていた僕は、「座席がふかふかでした」と感想を言ったのだが、お嬢様に「そんな事は分かってるのよ! もっと他に何かないの!?」と言われてしまった……。
因みにネイサンは座席の硬さについて、「柔らかすぎて、逆に酔いそう」と言っていた。ディーは「縦揺れは軽減されてるが、カーブの際などの横の揺れは何とかならないのか」というような事を言っていた。
……感想って、そんな具体的な事を言わなきゃいけないの……?
お嬢様にしこたま感想のダメ出しをされ、何だか複雑な気持ちになりながら自室へと戻った。
着替えをしつつ、僕は何とはなしに今日を振り返っていた。
誰かとこれといった目的もなく、ただふらふらと街を散策するなど初めてだ。
しかも何だか、ちょっと楽しかった。
……そう。『楽しかった』。
楽しい『振り』をして笑う事は、何度もあった。
けれど、自然と笑みが零れてしまい、それで自分が『楽しい』と感じている事を知る……というのは、初めての経験だ。
これが、『楽しい』って事か……と、感慨深く思っていると、誰かが部屋のドアをノックした。
誰だろうかとドアを開けると、既にコックコートに着替えたネイサンがそこに居た。「よ」などと言いつつ軽く片手を挙げるネイサンに、何の用かと尋ねると、ネイサンは僕に一冊の本を差し出した。
「これ、お前に読んでみて欲しくてさー」
ネイサンが差し出しているのは、どうやら娯楽小説のようだった。
真っ黒な表紙に、赤の箔押しでタイトルが入っている。タイトルは『闇に潜む、暁の深紅』。……何の話なのだろう。タイトルから、内容が全く類推できない。
恐らく、恋愛物語ではないのだろうな、くらいの事しか分からない。
ネイサンは、「暇な時にでも読んでみて、感想聞かせて」と、僕にその本を押し付けて去っていった。
娯楽小説、得意じゃないんだけどな……。
でもまあ、『いつまでに』と期限を設けなかったのだから、本当に暇な時にでも読んでみようか。
ネイサンが僕に、どうしてこの本を押し付けてきたのか、その理由もちょっと気になるし。
* * *
基本的に、誰かが僕に雑用を頼みに来ない限り、僕には仕事がない。
これ、僕もう『ポーター』でなくて、『雑用係』なんじゃないかな……。別にいいけど。
そしてやはり仕事がなく、林の木の上でぼけっとしていたある日の昼下がり。
隠密の男性が声をかけてきた。彼はよく見る顔だし、顔を見かけると声をかけてくれる。ロジェという名前だと教えてくれた。もしかしたら、出身地が僕と近いのかもしれない。
どの家でもそうなのだが、この『隠密』やら『私兵』やらの仕事をしている人間は、そもそもが『真っ当でなかった』者が多い。ロジェもそういった類らしい。
本人曰く「元々は、ただの賊」だそうだ。……ていうか『ただの賊』って何だろう。『特殊な賊』とかも居るのだろうか。
そう言ったら、ロジェに笑われた。
「お前さんは正に、その『特殊な賊』だろうがよ。俺みてぇな『手前の食い扶持を他人様からかすめ取る』仕事じゃなくてよ」
……成程、そういう意味か。
僕もロジェも、基本は同じだ。『自分を生かす為に、誰かから奪う』。
ただ、ロジェが奪うものは金品であり、それはそのまま『自分が生きる為』に使われる。そして僕が奪ってきたのは命で、それは別に『自分の為』にやった事ではない。
それが、ロジェの言う『ただの賊』と『特殊な賊』の差なのだろう。
ロジェも僕同様に、様々な土地を流れ流れてここに行き着いたそうだ。
そしてうっかり、トーマス様相手にスリを働こうとし、そのままここへ連行されたらしい。
「……ハラ減ってて、判断力が鈍ってたんだろうな……」
遠い目でロジェは言っていたが、トーマス様相手に狼藉を働くなんて! なんて……、恐ろしい……。
そう。
僕はトーマス様に対しては、明確に『恐怖』を覚える。多分これは、本能に根差したものだ。野生の獣が、己が決して敵わぬものと相対した時に抱くような、そういう種類のものだ。
けれどそれでも、僕にしては珍しい事だ。
いつ死のうが構わないという生き方をしてきた僕にとって、死というものはただ単に、『全ての者に平等に訪れる終わり』でしかなかった筈なのに。
恐怖を覚えるという事は、死を恐れているという事に他ならない。
何故、今更になって、死を恐れているのだろうか。
いつ死んでも構わないと、今でも思っている筈なのに。
僕に声をかけてきたロジェは「暇ならちっと付き合ってくれ」と言ってきた。
何に? と尋ねても、「ま、いーから、いーから」と笑うだけで、きちんとした答えは返ってこない。
仕方なく僕は、僕を何処かへ連れて行こうとしているロジェについて行く事にした。……だって本当に暇だったし。
連れていかれた場所は、庭と雑木林の境目のような場所だった。
少し開けているけれど、この辺りに『庭園らしさ』はほぼない。ただ、まばらに生えた木は、雑木林の木々に比べて手入れはされているように見える。……見えるだけかもしれない。
「よー。来たか」
到着した僕たちを、一人の男性が出迎えてくれた。彼はこのマクナガン公爵邸の私設騎士だ。
この『マクナガン公爵家私設騎士団』という人々も、何だかクセがありそうなのだ。どうも一人一人に、決まった『剣術の型』がない。
団服こそ全員同じだが、武装は全員バラバラだ。
騎士という人々は、『個』で戦うものではない。彼らの本領は、『集団戦』だ。だからこそ本来、全員で決まった型の剣術や体術を習得するものなのだが……。
目の前に居る彼は、腰から長剣を下げている。ごく標準的な装備で、逆に「え? それでいいの?」と思ってしまう。
「そろそろお前さんにも、俺らの仕事を手伝って貰おうかと思ってな」
ロジェは言うと、その辺の倒木に腰かけた。……ていうか、貴族の邸の庭に『倒木』ってあるんだな……。
それより、『ロジェの仕事を手伝う』って……? 僕にも隠密業務をしろって事? ……まあ、出来なくはないだろうけども。『目標を見つけて仕留めろ』という仕事以外は、ちょっと自信がないけども……。
そんな事を考えている僕に、ロジェが楽し気に笑った。
「なあ、死神。お前さん、この『林』、どー思うよ?」
「どう……?」
随分、質問がざっくりしている。これでは、何を問われているのかも分からない。
恐らく、僕がそういう『分からない』という顔をしていたのだろう。ロジェは笑うと、質問を変えてきた。
「お前さんが外からこの邸を見た時、敷地内に『雑木林』のある家って、どう思う?」
「意味が分からなくて、ヤバそうだと思う」
これは即答できる。
というか、実際にそう思ったのだ。
この国の王都は、きっちりと区画整理がされている。貴族は貴族で固まって暮らしているし、平民もそうだ。それは無用なトラブルを避ける為でもあるし、貴族に限って言うならば『権威の箔付け』の為でもある。
そしてこのマクナガン公爵邸は、貴族が暮らす区画でも一等地と呼んで差し支えないような場所にある。
……にも関わらず、敷地内に謎の『雑木林』だ。
公爵邸がある辺りというのは、他の公爵位を持つ者たちの邸もある。なので、警備が恐ろしく厳しい。
けれど、この家の雑木林のある辺りというのは、騎士の巡回ルートから外れている場所がある。
普通に考えたなら、騎士が巡回しないならば、そこには私兵を置いたりして警備を厚くするだろう。けれど、この家はそれをしていない。警備が手薄な箇所を、手薄なまま放置している。
のみならず、更に入り込み易そうに見える『雑木林』が、これみよがしに広がっているのだ。
もしもこれが罠でないのなら、この邸の住人は余程の考えなしか大人物か、そのどちらかでしかない。
「まあ、フツーはそう考えるよな」
頷いたロジェに、僕も頷いた。
その僕に、ロジェは楽し気に笑った。
「フツーはそう考えるからこそ、『敢えてここから入ってこようとするヤツ』ってのは、二種類になるんだ。まず一つは、アタマん中が空っぽな、考えなしのド阿呆」
まあ、そうだろうな。
そして『二種類』居るならば――
「もう一つは、罠があったとしても、突破できる技量を持った者……か」
「ご明察」
ロジェはにやっと笑うと、「まあ実際、『技量を持っている』のか、『持っていると過信している』のかは、相手を見なきゃ分かんねぇとこだがな」と付け加えた。
「俺らの『仕事』は、こっから入り込んできたネズミを、『生かしたまま捕らえる』事だ。……言ってる意味、分かるか?」
「まあ……、大体は?」
侵入者への対応として、『生死を問わない』というのは、実は一番簡単なのだ。相手が何であれ、殺してしまえばそれはもう脅威でも何でもなくなるのだから。
逆を返すと、生かしたまま捕らえるというのは、とても難しい。そこに『無傷で』などと付くと、更に難度は跳ね上がるのだが、流石にそこまでは言わないらしい。
「ド阿呆なネズミなら、そう難しい事ぁねえ。罠踏まねえように誘導してやって、安全な場所に出たらとっ捕まえりゃいいだけだ」
だろうな。
まあ、あの無数の罠を踏まないように誘導……というのも、それなりに骨が折れそうな仕事ではあるけれど。
「問題は、罠を避ける知能のあるネズミだ」
そう。この林自体を『何がしかの罠だろう』と理解しつつも踏み込んでくるような者であれば、それらを警戒し、普通に邸にまで辿り着く可能性が高い。
「林ん中でとっ捕まえられんなら、それでいい。けど、平場まで出られちまうと、俺みてぇな戦闘が不得手な人間だと不利んなる。……そこで、騎士やらお前さんらやらの出番になる」
「戦闘、苦手なんだ?」
背ばかり高くてひょろっとした体型の僕より、ロジェは余程動けそうに見えるのだけれど……。
僕の言葉に、ロジェは楽し気に笑った。
「ド素人に比べりゃあ、そりゃ何とかはなってるだろうけどな。俺ぁ、基本的に不意打ち専門なんだ。互いに向き合って『いざ尋常に』なんてなったら、ケツまくって逃げんのが『生き残る基本』よ」
「成程」
盗みにしろ、戦闘にしろ、ロジェは『自分を生かす為』にやってきたのだから、『まずは自分が生き残る』というのが最優先事項となる。
力量が同等以上の相手と向き合っているなら、『逃げる』というのは生き残る為には非常に有効な手段だ。
「……で、そういう事態になった場合、騎士との連携なんかも必要になってくる。……まあ、『連携』っつーか、『互いの邪魔にならねえように動く』ってのが基本だけども」
その場に居た騎士を指さしたロジェに、僕もそちらを見る。
騎士の青年は、へらっとした笑顔でひらひらと手を振っている。……大丈夫か、あの騎士……。
「そんでもって更に、外に取り逃がしちまった場合、そこいらの警邏をやってる『王立騎士団』の連中とも連携を取る必要が出てくる」
確かに、それはそうだ。
邸の敷地内であればそれは、家人たちの管轄だろう。けれど、そこから一歩でも出てしまえば、取り締まるべきは王立騎士団だ。
この国の『王立騎士団』は、僕が見てきた中でもかなり質が高い。
規律が行き届いており、こういった『武力を持つ』集団によく見られる『力に驕り溺れる者』が居ない。そういった綻びのない一枚岩なので、相手にした時に非常に厄介なのだ。
王立騎士団に関する所見を述べると、騎士の青年が「君たちから見て『厄介』と称されるなら、それは光栄だなあ」と笑った。
そして、その笑顔のまま、見慣れぬ礼の姿勢を取った。
「元・王立騎士団所属、ジェフリー・フィリップスだ。よろしく、死神くん」
ああ、元騎士様だったのか。それで武器が、何の変哲もない長剣なのか。
「警邏の第二騎士団は『民の為に在れ』をモットーとして刷り込まれるからね。それにそもそも、そういった『自分の持つ力を勘違いする』ようなヤツは、まず騎士にはなれない」
柔らかい笑顔で、いかにも『当然』という口調で言う青年に、「それは騎士の質も高い筈だ」と納得してしまった。
「で、今日は、お前さんとジェフとで、手合わせしてみてもらおうかと思ってな」
「僕は、幸か不幸か王立騎士団の騎士剣術しか使えなくてね。僕の動きに慣れてもらえたら、王立騎士団の騎士たちの動きも分かるようになるだろうから」
成程。
「それに……」
ロジェがにやっと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「騎士崩れの、手前を強いと勘違いしてる破落戸みてぇなヤツらの対処も、ぐっとラクんなる」
それも、確かにその通りだ。それに、騎士剣術を使う相手の動きを覚えておくというのは、もしも今後この家を出る事になったりした場合にも役立ちそうだ。
「そんじゃ、納得できたところで、始めるとするか」
「お手柔らかにね」
にこっと笑うジェフリーに、僕は何と答えたものかと迷った末、無言で軽く頭を下げた。
その日以来、僕が林でぼけっとしていると、ロジェが僕を鍛錬に誘ってくれるようになった。
『元・王立騎士団所属』という人は数人居るらしく、ジェフ以外の騎士がやって来る事も多い。
驚いたのは、庭師の男性が『元・近衛騎士』というとんでもない経歴の持ち主だった事だ。
「足の腱をやっちまってなぁ。歩くにゃ支障はねえが、手前一人生かすのがやっとじゃ、『誰かを守る』なんざ不可能だ」
それが、近衛騎士グレッグ・ウェズリーの退団理由らしい。
確かに、ただ歩いているだけなら、ウェズリーの動きにおかしな点は見当たらない。けれど、咄嗟の動作に足を庇う様子が見て取れる。
本人曰く「『歩く』以外の動作は、まあ、不格好だぁな」という事だ。
そして彼は近衛の中でも一握りしか居ない『王族専属護衛騎士』というものであったらしい。しかも、国王の専属だ。
ジェフはそれを、「この国の『王立騎士』というものの頂点」と言っていた。
……の割に、ウェズリーは口調がえらくぞんざいだ。
僕の出身国では、『近衛』というのは殆ど『栄誉職』だった。高位貴族の子弟がなるものだったのだ。なので彼らの剣術などの技量は、そう高くもない。その『地位』こそが重要視されていた。
けれどこの国では、そうではないらしい。
「一番大事なのは、剣の技量だ。そしてそれと同じくらい大事なのは、覚悟。身分なんざ、『命張って他人を守る』為にゃ、クソの役にも立たねぇよ」
確かにそうだ。
では、ウェズリーは、平民出身か何かだったのだろうか。
「何も持たねえ下町のガキが、無邪気に『騎士様』に憧れて、気付いたら王の背中を任されてた。そんだけの話よ」
けろりと笑って言ったウェズリーの背後で、ジェフが「だけじゃない! だけじゃない!」と青褪めながら手をぶんぶんと振っていた。
その後ジェフに、この国の近衛になるのがどれ程に大変か、そこから更に『専属護衛』に選抜されるのがどれ程とんでもない事なのか……を、たっぷり二時間も聞かされた。
……というか、この家の使用人、皆なんか経歴がすごいな……。
僕、ガッツリ犯罪者なんだけど、ここに居ていいのかな……? 思わずそんな事を呟いてしまったが、それにロジェが楽しそうに笑った。
「犯罪者なら、ここにも居るぜ? まあ、お前さんとじゃ比べ物にならねぇ小悪党でしかねえがな」
そういえばそうだった。
本来、取り締まる側と捕らえられる側が、同じ場所で和気藹々と話をしている。……不思議な場所だな、と改めて思うのだった。
そうして騎士やらロジェ以外の隠密やらとも顔なじみになった頃。またしてもロジェに鍛錬に誘われた。
王立騎士団の剣術は、大体理解出来た。
素人を一から『騎士』に仕立て上げねばならないのだ。そういう理由もあり、動きに癖が少ない。良くも悪くも、『素直な』剣術だ。体術に至っては、「第二騎士団は基礎くらいしか教わらない」のだそうで、見切るのも容易だった。
大体の動きが分かっているので、向こうの攻撃はほぼ避けきる事が出来るのだが、身体を動かすのは楽しい。木の上でぼけっとしている数倍楽しい。
なので僕は、誘われるがままにロジェについて行った。
いつもの少し開けた場所に着くと、そこにはディーが居た。ウェズリーも居る。
ウェズリーはちょいちょい顔を出すが、彼は戦闘には参加しない。僕の相手をする騎士を見て、彼らに助言をするのがウェズリーの役目だ。『元護衛騎士』という人々は、職を辞した後は騎士の訓練生の教官となる者が多いそうだ。それくらい、『護衛騎士』という者は、剣にしろ体術にしろ抜きん出ているらしい。
そのウェズリーが居るという事は、ディーはもしかして、元騎士様なのだろうか?
「は? んなワケねぇだろ」
元は騎士だったのかと尋ねた返事がこれだ。
『そんな訳』があるのかないのか、分からないから尋ねたのに……。
もうちょっとこう、言い方ってものがあるんじゃないかな……などと思っている僕に、ウェズリーが楽し気に笑った。
「まあこいつなら、騎士でもやっていけそうではあるがなぁ」
「いや、冗談じゃねぇわ。あーんな堅っ苦しいの、やってらんねぇわ」
「意外と慣れるモンだがな」
「慣れる前に、息が詰まるわ」
そんな言い合いをして、ディーが僕を見た。
「俺はどっちかっつーと、ソッチ側。犯罪者でこそねぇが、似たようなモンだ」
僕やロジェを指さして言うディーに、僕は思わず首を傾げてしまった。
けれど誰も、それに関しては何も言う気はないらしい。……よく分からない。けれど多分、『誰も言わない』という事は『知らなくていい』という事なのだろう。
ロジェはいつもの倒木に腰かけると、ディーを指さした。
「お前さんは多分、そいつと一緒に行動する事が多くなりそうだから、一回くらいお互いの動きを見とくのもいいんじゃねえかと思ってな」
僕が? ディーと?
言っては何だが、ロジェをはじめとする隠密たちも、私設騎士たちも、『一緒に行動する』となると足手まといだ。
彼らの動きが遅すぎて、合わせるに一苦労なのだ。
ロジェはそれを、見てきたので知っている筈。
なのに『一緒に』という事は、ディーは相当に動けるのだろうか。……馬丁が? ……いや、僕もポーターだけども。
僕が訳が分からなくて「???」となっていると、ウェズリーが小さく笑った。
「そいつは『無貌の鴉』っつってな……」
「ジジイ、うっせぇ」
ウェズリーの言葉を遮るように、ディーが嫌そうな声を上げた。
ていうか、今の何!? 何かちょっとカッコいい名前出てきたけど!?
最近は、短い名前もカッコいいかもしれないと思い始めてきた。……僕も、成長したのかな……。ふふ……。
「ジジイがヨケーなお喋りする前に、さっさとやる事やっちまおうぜ」
ディーは嫌そうな溜息をつくと、僕を真っ直ぐに見てきた。
あ。『眼』が違う。
いつもの飄々とした、何を考えているのかよく分からない眼ではない。
ただ標的を真っ直ぐに見据える、『捕食者』の眼だ。
直感的に『ヤバい』と感じ、僕は真横に飛び退った。さっきまで僕が居た場所には、鋭い鉄串のようなものが刺さっている。
いつ投げた!? どこから出てきた!?
そんな事を考えながらディーを見ると、ディーはえらくつまらなそうな顔で「チッ」と思い切り舌打ちをした。
舌打ちとか……。
「……避けんじゃねぇよ。当たっとけよ」
冗談じゃない!
「あんなの当たったら、痛いじゃないか!」
「それがどうしたよ?」
やはりえらくつまらなそうな口調で言われ、僕はやっぱり『これはヤバい』と思った。
逃げようとしたところで距離を詰められ、ディーが振るってきた『何か』を、咄嗟に取り出したナイフで受けた。ガチッと金属のぶつかり合う、耳障りな音がする。
ディーが逆手に持っているのは、僕の持っているのと似たようなナイフだった。
ヤバいな。僕と似たような『速さと手数で圧倒する』タイプか……。これは相性が悪いな……。
そんな風に観察していたせいで、一瞬、反応が遅れた。
目の前をすごい速さで横切る白刃を、何とかギリギリ躱した。……が、躱しきれずに刃が頬を掠めてしまった。
チリっと、頬に焼けるような痛みが走る。
怪我をした。
僕が。
傷を付けられた。
面白い。
誰かに怪我をさせられる、なんて、どれくらいぶりの出来事だろう。
これは、今僕の目の前に居るのは、『本気を出しても良い相手』だ。
ナイフの刃を一本駄目にし、二本目のナイフも刃が毀れてきた。
時間としては、それ程経っていない。恐らく、体感で十数分というところだ。けれどそろそろけりを付けないと、僕の体力がもたない。
僕の仕事は基本的に『一撃必殺』だ。長時間モタモタなんてしてられない。なので、持久戦用の体力など必要ない。
そう高を括ってきたツケだろうか。
けれど、疲れているのは僕だけじゃない筈だ。
一瞬の隙を見つけて、僕は持っていたナイフを振った。
僕の動きに合わせるように、ディーもナイフを振る。
「そこまで!!」
ウェズリーの鋭い声に、僕とディーは手を止めた。
互いのナイフが、互いの首元でぴったりと止まっている。
……これ、止められなかったら、どっちが早かったのかな?
互いに武器を下ろすと、ディーが溜息をつきながらその場に座り込んだ。
「あー……、つっかれたー……」
確かに。体力作りとか、した方がいいのかな……。でも別に、ディーは『敵』って訳でもないしな……。
それに、ディーくらい動ける人も、そうそう居ないだろうし。
あ、でも、僕の仕事『荷運び』だから、体力はあってもいいのか。……荷物運んだ事、殆ど無いけど。
* * *
気付けば、僕がマクナガン公爵家に雇われてから、三か月が経過していた。
ここへ来た当初は、「無理そうなら逃げればいい」と考えていたけれど、僕が想像していた『お邸の使用人』というものと現状が違い過ぎていて、「逃げよう」などという考えも浮かばないまま日々は過ぎていた。
……ていうか、ここから『逃げる』なんて、可能なのかな……?
「基本、『去る者は追わず』だな」
ナイフの手入れをしつつ、ロジェがけろっとした口調で言った。
「……あ、そうなんだ?」
「そらそうじゃねぇか? 『逃げよう』まで思い詰めてるヤツ追っかけたとこで、連れ戻してもどーせまた逃げるだろうし。……どしたよ? 逃げたくなったってか?」
からかうようにニヤニヤと笑うロジェの脇腹を拳で小突くと、ロジェが「痛ぇよ」と楽しそうに笑った。
「まあ、『仕事が嫌で』だとか、『ここんちの水が合わねえ』だとかで出てく奴は、基本的に放置だぁな。合う・合わねぇっつー『相性』は、どうにかしようと思って出来るモンでもねぇし」
まあ確かに、それはそうだ。
「ただ、こっから出てった後で、おかしな動きをするようなヤツには、フツーに追手がかかる」
それもまあ、そうだろうな。
通常、貴族家の使用人というのは、厳しい身分調査などがある。……のだが、この家はほぼザルだ。僕を雇い入れた際にも、僕の身辺調査のような事は一切されなかった。
一見すれば、『誰でも入り込める』ように見えるだろう。
けれど実は、トーマス様は全員の素性をきっちり調べ上げてある。調べた上で、僕がそうされたように、相手に声を掛けに行くのだそうだ。
因みに、トーマス様が僕をヘッドハントした理由は「ディーくらいに動ける人間が、もう一人くらい欲しい」というものだったらしい。そして、たまたま空いているポストがポーターだったらしい。
……そりゃ、仕事ない筈だよね……。ポーターでなくても何でも良かったんだもん……。
そうして身元の調査などを一切していない(ように見える)ので、この家に敵意のある者も入り込める。
そういう連中は大抵、何らかの情報を外に持ち出そうとする。
それがロジェの言うところの『出ていった後でおかしな動きをする連中』だ。
「『追手』って、ロジェたちが追っかけてくるの?」
「俺らで事が足りる相手なら、そーだな」
磨いたナイフをホルダーにしまいつつ、ロジェが笑った。
「お前みてーな『俺らじゃ手に余る相手』なら、まず間違いなくディーが行く」
「うわ……」
そうか。隠密だけじゃなくて、ディーも居るもんな……。
ディーが話したがらないので、ウェズリーが教えてくれたのだが、ディーは元々は国の隠密だったそうだ。しかもその組織は国王の直属で、国王や王太子以外の者は、誰もその組織の全容すら知らない……という、本物の秘密組織だ。
ウェズリーは「仕事柄、何人かは知ってるが、まあ全員クセの強えマトモじゃねぇ連中だな」と言っていた。
その中でもディーは、暗殺を専門とする部隊の出身だそうで。
「もしお前さんがこの国で悪さしてたら、アイツみてぇなのが数人でお前さんを消しに来ただろうな」と笑いつつ言われ、ぞっとした。
ディー一人でもてこずるのに、あれが数人とか……。逃げられる気がしないというか、確実に死ぬ。
この国で僕の『仕事』がなかったの、ラッキーだったな……と、心から思ってしまった。
ロジェ曰く、隠密たちが追いかけた相手というのは、基本的には生かして捕らえるだけらしい。そしてその後、トーマス様に引き渡す。
引き渡した後は、どうなっているのかは分からないという事だ。
「まあ、ヨケーな事にゃ、首突っ込まねぇ方が平和よ。いくら俺が小悪党とは言え、手前の命を惜しむ気持ちくらいあるしな」
まあ『トーマス様に引き渡す』時点で、どう考えてもロクな結末にならない気もするけれど。
「俺らはただひっ捕らえんのが仕事だけども、ディーは多分違う。おっかなくて聞く気もしねぇけど。……アイツが出てった時の『目標』、全員が『行方不明』になってるし」
まあ、そうだろうな。そうでないなら、暗殺を専門としていた人間など使わない。
「お前さんにもいつか、トーマス様からお声がかかるんじゃねえか?」
どうだろうな? と、ロジェの言葉を聞きつつ思った。
僕は、そこまでの信用を得る事が出来るだろうか。
雇われてから三か月。
一つの場所に、こんなに長い時間留まっているのは初めてだ。しかも、素性を隠す事も偽る事もせず、『僕のまま』でいるなんて。
気付いたら、ネイサンやロジェ以外にも日常的に話をする相手が出来た。
朝食を摂りに食堂へ行き、顔を合わせた人と「おはよう」と挨拶しあうとか。
相変わらずやる事がなくうろついていると「あ、ヒマならちょっといい?」と気軽に声をかけられたりだとか。
一日の終わりに、談話室で他愛のない話をしながらカードゲームに興じるだとか。
そして、「おやすみ。また明日」と別れるだとか。
きっとこれが、『普通の人の普通の一日』というものなのだろう。
ただ、どうしてだろうか。
最近、皆から『白き(中略)死神』と呼ばれると、鳩尾の辺りがむずむずする。むずむずというか、もにょもにょというか……。
表現が難しいけれど、何かこう、ちょっと痒いような……。
なので最近は、「セザールと呼んで欲しい」と言っている。
言っているのだけれど、皆そう呼んでくれない。……どうして、僕の提案する名前は、常に誰も呼んでくれないんだろう……。
ていうか皆、「長い」とか文句言いつつ、メモ見てまで読み上げてくれなくていいよ……。
「いや、お前が自分でそう呼べっつったんじゃん」
ちょっと愚痴を零したら、ネイサンに大笑いしながら反論されてしまった。
「いや、そうだけど……。確かに、そうなんだけども……」
溜息をついてしまった僕に、ディーがネイサン持ち込みのよく分からない焼き菓子を齧りつつ笑った。
「いーじゃん、死神。無駄に大仰で馬鹿っぽくて」
「馬鹿っぽいとか言わないでよ」
「そんじゃ、『馬鹿』」
「……言い切られる方が腹立つよ、普通に」
また溜息をついてしまった僕に、ネイサンが「あ、そーだ」と何かに気付いたように声を上げた。
「そーいや、前に俺が貸した本、読んだ?」
「あ? ……ああ、あれか。読んでない」
以前、街へ出かけた際、ネイサンが購入してきた娯楽小説だ。
その内読もうと思い机に放り投げ、そのまま忘れてしまっていた。
「何貸したんだ? 『美味しいパンの焼き方』?」
「いや、そーゆーんじゃなくて、ただの娯楽小説。ていうか、『美味しいパンの焼き方』なんて本、あんの?」
「知らん。あんじゃね? 世界中探せば、どっかには」
「おー……。探してみよっかな」
そんな会話を聞き流しつつ、そう言えば借りっ放しになっていたな……と、今日からその本を読んでみる事に決めた。
その日の夜、早速ネイサンから借りっ放しだった本を開いてみた。
大抵の娯楽小説というものは、往々にして『中身』が無い。
町娘と貴族の身分違いのロマンスであったり、剣と魔法の世界で『世界』の命運を懸けて戦っていたり、世界の海を股にかけた冒険者の探検記であったり……。
そういった『娯楽』に全振りしているような物語は、読み進める速度が学術書などより格段に速い。
速い……筈なのだが。
僕はネイサンに借りた本を、初めの十数ページだけ読んで閉じてしまった。
鳩尾の辺りが、ものすごくもにょもにょする……。
ネイサンが貸してくれた『闇に潜む、暁の深紅』という本は、暗殺を生業とする一人の青年が主人公の物語だった。
この主人公のセリフやモノローグがいちいちニヒルを気取っていて、読んでいて何だか鳩尾辺りがウズウズしてしまうのだ。
ついでに、僕からすると「何だか少し的がズレている」ように感じられる言動が目に付く。
例えば、冒頭で主人公は誰かから暗殺の依頼を受けるのだけれど。まずその場所が、『大通りから一本入った路地』って、目立ち過ぎない!? もーちょっとコソコソしようよ! 大通りからたった一本逸れただけって、絶対人居るよ!
そして「しくじるなよ」と念を押す依頼人に向かって、主人公は「俺がしくじったところで、俺が死ぬだけでしかない」とか『厭世的で虚無的な笑み』とやらを浮かべて言うのだけれど……。
いや、『だけ』じゃないよね!? 君の『死体』っていう証拠が残っちゃうよね!? 死ぬのは別にいいけども、せめて誰の目にもつかないとこで死のう!?
『血の匂いが染みついて落ちない』じゃなくて、フツーに洗えば落ちるよ。ていうか、毎度そんなに返り血浴びてんの? 下手なの? 迂闊なの?
『ふと見た己の手に、誰かの鮮血の幻影を見る』って、そんなもの見るくらいなら、やめちゃおう? 君、絶対、向いてないから。
あーーー!! もにょもにょする!!
『娯楽小説』なのだから、全部が全部、現実に即していなくても良いのだろうけど。
……どうしよう。僕これ、最後まで読めないかも……。
結局、ネイサンに借りた本を読み切るまでに、三週間もかかってしまった。……その内の半分以上は寝落ちしてしまっていたし、残りの日々は鳩尾辺りのもにょもにょが酷くて叫びだしたくて堪らないのをこらえる羽目になったのだが。
とにかく、読み切った。
頑張った、僕!
これ、ネイサンに返しに行ったら、感想言わなきゃいけないんだっけ……? え、何か結構な苦行じゃない……?
でもこの本が手元にあるのも、そこそこイヤだな……。表紙見るだけで「うわぁ……」てなっちゃうし……。
という訳で、その日の夜、僕はネイサンに本を返す事にした。
夕食を摂ってから就寝までの時間に、ネイサンを談話室に呼び出した。自室から返す本を持ってそこに行くと、ネイサンだけでなくディーも居た。
僕がテーブルに着くと、ネイサンが「今日も一日、お疲れちゃん」と言って、酒の入ったグラスを差し出してくれた。
「んで? 読んだ?」
ネイサンに本を返すと、ネイサンは受け取った本をぱらぱらとめくりながら尋ねてきた。
「……一応、読んだ」
「どーだった?」
本を閉じテーブルに無造作に置きつつ尋ねてきたネイサンに、僕はグラスに口を付けつつ言った。
「ていうかその前に、何で僕にコレ薦めてきたの?」
僕の質問に対するネイサンの答えは、「『本職』がこーゆーの読むと、どう思うんかなー? って。そんだけ」だった。
ネイサンの『諜報員』という前職も、娯楽小説のネタにされ易い職業らしい。そしてネイサンはそういう小説を読む度に「いやいやいや。そうじゃない、そうじゃない」と突っ込みたくなる……という話だった。
「けどもう、『作り話』に全振りしてるみたいなヤツだと、逆に面白くなってくるからさ。『何だそりゃ。ねぇわ!』みたいな感じで、もう笑えてくるからさ。これ、どうなんかなー? 的な」
「……笑えはしなかったかな……」
感想としては、前者の「そうじゃない」の方が近い。
「どんな話よ?」
ネイサンに尋ねたディーに、ネイサンが本を手渡した。
「キラッキラのクール系イケメンすご腕暗殺者が、行く先々で女に惚れられたりしながら任務を遂行する的な話」
「……粗筋だけで寒気するわ……」
言いながらもディーは、受け取った本をぱらっと開いた。そしてすぐに閉じて、本をテーブルに置いた。
「……一ページ目から、もう痛い。何で真昼間に暗い色のフードなんか被ってんだよ……」
それは僕も思った。どう考えても、逆に目立つよね?
「日光に当たると溶けるとかなんじゃね?」
「だったら逆におもれーわ。そんなんなら読むわ」
「生きてくだけで大変そうだしな」
「常に溶けかけで生きてくの、確かに大変そうだぁな」
「つかそんな話ならもう、『暗殺者』とかの設定要らなくね?」
「いや、『日光に当たると溶ける暗殺者』の日常的な話」
「買うわ、俺、それ」
……僕もそれなら買うかも。ちょっと面白そうだし。いや、やっぱり買いはしないな。誰か持ってたら借りるくらいかな。
ネイサンはテーブルに頬杖をつくと、置いてある本をぱらぱらとめくった。
「んで? セザールくん、感想」
「なんか……、何て言うのかな……。……鳩尾の辺りがもにょもにょする感じ」
僕の正直な感想に、ネイサンが「ぶはっ」と噴き出して、グラスに口を付けていたディーが中身にむせて咳き込んだ。
「きゃー! ディーくんが死んじゃう!!」
わざとらしい裏声で言いながら、ネイサンが咳き込んでいるディーの背中をさすっている。
……ていうか僕、何かおかしい事言った?
「やっ、べ……、マジで死ぬ……」
ゲホゴホと咳き込みつつ言うディーに、ネイサンが楽しそうに笑っている。
何なんだろう、これ。
「……で、鳩尾の辺りがもにょもにょしたの、何で?」
何で……、と言われても、僕も理由はよく分かっていないけれど。
ふわっとした感覚があるだけで、それをきちんと言語化できそうにない、というか……。
僕が「うーん……」と唸っていると、ネイサンが軽く笑った。
「とりあえずコレ読んで、『カッコいい!』とかはないの?」
「……ないよ。それこそさっきネイサンの言ってた『いやいやいや!』って思いしかないよ」
溜息をついた僕に、ネイサンが「ふぅん」と小さく言った。
「て事は、だ。セザールのその『もにょもにょ』、原因はもしかして、この本が『暗殺者に憧れる人が憧れ要素だけを目いっぱい詰め込んで書き上げました!』みたいな感じがするから……とかじゃね?」
「あ、あー……、うん。近いかも」
頷いた僕に、ディーがまた咳をした。……え? ディー、大丈夫?
「お前が言うか……」
「ディーくん、ステイ。もうちょっと待った」
そんな事を小声で言い合う二人に、僕は軽く首を傾げた。意味が分からないからだ。
けれど本を読んでいた時に感じていた、謎の『鳩尾の辺りのもにょもにょ』の正体は、何となく分かった。
ネイサンの言う通りで、あの本の主人公が『暗殺者という仕事を何かすごくカッコいいものと勘違いしている人の憧れ欲張りセット』みたいな感じがするからだ。
胸の中でもやもやしていたものが形になり、少しだけすっきりした。
けれど、それを言った僕に、ディーが深い溜息をついた。
「……なあ、ネイサン。そろそろ言っていいか……?」
「存分に」
どうぞ、などと言いつつ、ネイサンが僕を手で示した。
え? 何? 何言われるの?
「おっ前が言うセリフじゃねぇんだよ!」
「だから、何が!?」
溜めていたものを吐き出す勢いで言ったディーに、僕も思わず大声で返してしまった。
その僕を、ディーがびしっと指さした。
「お前のあの、ワケ分かんねぇクソ長え名前だよ! アレ聞かされるこっちも、今お前が言った通りの気持ちになんだよ!」
僕の、名前……。
僕の『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』が、あの本と同じ……。
………………。
…………。
……言われてみたら!! 同じ……、かも知れない……。
「お嬢が言ってただろ。『美味いモンは一つ二つなら美味いけど、大量に混ぜたら食えたモンじゃねぇ』って。お前のあの名前、そもそもがしょぺーわ苦いわ酸っぱいわなのに、そんなんが大量に積み重なってるもんだから、もう痛くてしょーがねぇんだよ」
そんな風に文句を言うディーの言葉を、僕は遠くで聞いていた。
僕の名前が、あの本と同じ……。
言われてみたら、確かにその通りすぎる。
僕の『カッコいい』をぎゅっと詰め込んだ、『カッコいい欲張りセット』な名前だ。
けれどそれは他の人からしたら、『それをカッコいいと思い込んでる人の、憧れ欲張りセット』でしかなくて……。
「あ……、……うわぁぁぁ!!」
「おい!? セザール!? どした!? ぶっ壊れた!?」
思わず叫び声をあげて机に突っ伏してしまった僕を、ネイサンが心配してくれている。
けれど、顔が上げられない。
何という事か!
そりゃみんな、何とも言えない「うわぁ……」ていう顔になるよね! 半笑いにもなるよね! ていうかもう、むしろ大笑いしてよ! その中途半端な優しさが心に痛いよ!!
最近感じてた、『白き(中略)死神』と呼ばれる度にあった『もにょもにょ』の正体は、これか!
何なの、もう!! めっちゃ恥ずかしい!!
「……死んだか?」
ディーがぼそっと言う声がする。
「おーい? 死神ー?」
「…………『死神』って、言わないで……」
それだけ言うのが精いっぱいな僕に、ネイサンとディーが同時に噴き出すように笑い出した。
「いやいや、手前でそう名乗っといて、今更それはねーわ」
「明日っから、全員のとこ回って『僕の名前はセザールです!』って、自己紹介してくればいんじゃね?」
「つかそもそも、その『セザール』っつー名前、知らねぇヤツのが多くねぇか?」
「あ、そーかも。……初対面で、えっと……『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』とかって聞かされたら、もう本名とかどーでもよくなるし」
「なるよな。……『名無し』より下ってねえと思ってたけど、世の中、下には下が居るもんだな」
そんな会話は聞こえているが、僕は顔が上げられない。
「まあまあ、明日っからも頑張ろーぜ? なあ、死神」
「死神って言うなー!」
僕は思わず立ち上がると、そう叫んで自室へと駆け戻った。
……背後から、ネイサンとディーの爆笑が聞こえていた……。
* * *
次の日から三日間、僕は自室に引き籠った。
ここから逃げようかとも思ったのだが、多分というか絶対に追手としてディーが来る、という嫌な確信だけは出来る。
絶対、面白がって連れ戻しに来る。賭けてもいい。……賭けられるような物、何も持ってないけど。
逃げ場がない。
それ以前に、出来る事ならここに居たい。
ここは、僕が初めて『普通の人』らしく生活出来た場所だからだ。
逃げるという選択肢が消えるならば、立ち向かうしかない。
そうだ! 立ち向かおう!
まずは全員に、僕の名前を覚えてもらおう! あと皆が持っているメモを、何とかして全部処分しよう!
そんな風に前を向けるようになるまで、三日間、ベッドの上で頭から布団を被って丸まっていた。
引き籠る僕に、皆が代わる代わる食事を差し入れにやって来てくれたのだが、一人分の食事の載ったトレイに『元気をだしてネ☆ 白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神サンへ♡』と書かれたメモが添えられていて、食欲が一気に失せたりもした。
……誰だ、あれ書いたの……。女の人っぽい筆跡だったけど……。
寝ようとすると、これまでの自分の言動を思い出してしまい、「ぬあぁぁぁ……!!」となって眠れなくなる……という事を繰り返していたおかげで、体調はすこぶる悪い。
けれど、そうも言っていられない。
僕には、やらねばならない事があるんだ……!!
まず、この部屋を出よう……!!
そう決意し、僕は部屋のドアを開けた。
「……おや。反抗期はおしまいか?」
ドアを開けると、トーマス様が立っていた。
反抗期って……。
「……そんなんじゃありません」
反論した声が、自分でも分かるくらいに不貞腐れていた。これじゃあ、本当に反抗期の子供だ。
というか、トーマス様はここで何をして……。
「君が引き籠っている間に決まったルールを伝達する」
え!? ルール!? って何の!?
驚いてぽかんとしている僕に、トーマス様はいつも通りの淡々としたお声で言った。
「君が家人から『とあるメモ』を奪うに限り、窃盗を許可する。私室への侵入等も不問としよう。但し、それ以外の物に手を付けた場合は、処罰の対象となる」
『とあるメモ』……!! それはもしかしなくても、僕が今一番、この世から抹消してしまいたいと思っているアレの事か……!!
「メモを奪われた者に対しては、君は一つだけ、自分の意見を通せる権利を有する。期限は本日よりひと月。相手がメモを持っているかどうかは、相手に確認すると良い。それに関して、家人は嘘を言ってはならないというルールになっている。当然、持たぬ者への手出しは無用だ」
いいか? と確認を取って来るトーマス様に、僕は頷いた。
やってやる……!! 何でこんなルールまで決めてノリノリなのかは分からないけれど、やってやる!!
頷いた僕に、トーマス様も「よろしい」と一つ頷いた。
「ではこれより、ゲームを開始する!」
トーマス様が大きな声で言うと、廊下の角やら外やらから、一斉に声や走り出す足音がした。
ていうか、何人潜んでたの!?
「では、健闘を祈る」
それだけ言って歩き出そうとしたトーマス様を、僕は慌てて呼び止めた。
僕は自室へ戻ると、机の抽斗から一枚のメモを取り出した。それは、僕の食事の差し入れに添えられていた、あのちょっとイラっとするメモだ。
「トーマス様は、この筆跡に覚えはありませんか?」
何と言っても執事だ。家人の書く様々な報告書などに、日常的に目を通している方だ。少々癖のある文字なので、トーマス様ならもしかして、誰が書いたのか分かるのではないだろうか。
そう期待してトーマス様にメモを渡すと、トーマス様は暫くメモをじっと見てから小さく笑った。
「奥様の文字だな」
…………は?
ぽかんとする僕に、トーマス様は僕にメモを返しつつまた皮肉気に笑った。
「ファラルダ・マクナガン公爵夫人の文字に間違いない。……盗みにでも行くか?」
「…………諦めます」
旦那様と奥様のお部屋など、どんな罠が待ち構えているのか分かったものではない。
「他に、質問は?」
「……トーマス様は、メモをお持ちですか?」
持っていたとして、盗める気はしないけれど。
尋ねた僕に、トーマス様はまた小さく笑うと「持っている」と簡潔に言い、指先でご自身のこめかみをトントンと軽く叩いてみせた。
「ここにあるが。……盗んでみるかね?」
僅かに揶揄うように笑われるトーマス様に、僕は「降参」の意味を込めて両手を軽く挙げるしか出来なかった。
僕の『メモ回収』は、中々に大変だった。
旦那様に関しては、諦めた。旦那様に大真面目な顔で「あんな面白いもの、どうして回収しようとしているのか」と尋ねられて、泣きそうになった。
その泣きそうな僕を見て、奥様が「あらあら~、これあげるから、泣いちゃダメよ~」とメモを手渡してくれた。……奥様、なんてお優しい……。……いや、優しくないな。この人が、引き籠っていた時のアレを書いたんだった。
奥様のように、メモの所持を尋ねる僕に、自分からメモを返してくれる人もそれなりに居た。
ネイサンもそうだった。……おまけに大笑いもついてきたが。
ロジェやディーには「持ってない」と言われた。
ディーに関しては疑う気持ちがあったのだが、ディーから「嘘つきにはペナルティ、って、トーマス様に言われてんでね」と言われてしまった。
トーマス様に逆らう……なんて馬鹿な事、きっとディーはしないだろう。て事は、持ってないのか。
お嬢様には「持ってる訳ないでしょう? あんな、持ってるだけで痛々しい気持ちになりそうな代物」と言われ、また泣きそうになってしまった。
他の使用人に関しては、何か紙切れを手に持っていたから奪い取ってみたら『残念! ハズレ!!』と書かれた紙だったり。「ゲームして勝ったら渡してやる」と言われ、三人に勝って二人に負けたり。私室に忍び込んでみたら、メモが額装されて壁に飾られており、思わずその前に蹲って泣いてしまったり。「メモが欲しけりゃ、俺たちを倒して行くんだな!」と言われたので倒したら、「本気にするヤツがあるか! バカーー!!」と文句を言われたり……。
ゲーム終了期限である一か月後、僕は邸の総勢の三分の一程の人数から、メモを回収出来ていた。
残りの三分の一は、そもそも持っていない人たちだ。そして最後の三分の一は、逃げ切られた人たちになっている。
……ていうか、ズルいよ!!
メイドの女の子からメモを取ろうとしたら、思いっきり悲鳴上げるんだもん!! あんなの、どう見ても僕が悪者じゃないか!!
侍従にしたってそうだ! 自分のカツラの下にしまうなんて! 人前でアレ取っちゃったら、やっぱり僕が悪者じゃないか!! カツラの下から、メモがちらっと見えてるのが腹立つよ!! 「チラ見せセクシー」とか、意味分かんないよ!!
けれど、三分の一の人々にはきちんと「セザールと呼んでくれ」と要望を出せた。
……一番いじってくるお嬢様とディーと洗濯メイドのアンナを取り逃したのは痛いけれど、仕方ない。
やったよ!!
やってやったよ!!
――僕は達成感でいっぱいだったのだが、一つ大きなミスをしていた事に、後日気付いた。
それは、僕の出した要望だ。
僕は「セザールと呼んでくれ」としか言っていなかった。……そう。要望すべきは「死神と呼ぶな」だったのだ……。
状況、変わってないよね!? 僕、何のために苦労したのかな!?
徒労感と虚脱感でいっぱいになり、その後三日間、また部屋に引き籠ってしまった……。食事の差し入れのトレイに、また奥様の文字で『早く元気になってネ☆ 白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神サンへ♡』と書かれたメモが載っていた。
……引き籠り日数が、それで一日増えた。
* * *
そんなこんなで、ここで働くようになって、僕には色んな変化があった。
まず、『情緒』というものが、あるとか無いとかを通り越して、グラっグラの不安定になった。……『まず』で挙げる項目ではない気もするが、実際、これが一番の変化だ。
知らなかったよ……。人間って、何かの感情が限界を超えると、不意に涙になって溢れてくるんだね……。
物心ついてから泣いた事なんて無かったのに、今じゃ一日に三回くらい泣いてるよ……。うち一回は号泣だよ……。
僕のメンタル、ガッタガタだよ……。
そして、知らなかった沢山の感情を知った。
楽しいだとか、嬉しいだとか、……悲しいだとか……、悔しいだとか……、恥ずかしいだとか…………。
ここへ来てから、たった半年だ。
たった半年で、空っぽだった僕は、立派な情緒不安定になった。
ねえ、退化してない!? 僕、おかしな方向に行っちゃってない!?
「……で? 出ていきたいとか、考えてるの?」
半年経った僕の変化を見たい……と、お嬢様に呼び出されたのだ。
呼び出されたのはいいけど、何で林の中なんだろう……。そして何でまた、僕はセイザさせられてるんだろう……。
お嬢様の隣には、相変わらずディーがだらっと座っている。
お嬢様がディーを伴うのは、この林の罠はお嬢様では絶対に避けられないからだ。そしてお嬢様は、罠が無くても転ぶ。
そういう、もう何が危険なのかも分からない危険からの護衛として、お嬢様はディーを伴うのだ。お嬢様曰く「一番反応が早いのがディーだから」だそうだ。
「半年前は、居着くかどうかも分からなかったけれど、そろそろ何がしかの結論は出てるんじゃないかしら?」
僕の正面に同じようにセイザしているお嬢様を、僕は真っ直ぐに見た。
「もう暫くは、ここに居ます」
その『暫く』が、何年、何十年になるのかは分からないけれど。
メンタルはガッタガタだが、この家は何だか居心地が良いのだ。……一日一回は号泣もするけれど。
廊下の隅に蹲って泣いていても、命の危険だけはない。……メンタルの危険はある。
常に気を張っている必要はないし、廊下の隅で泣き疲れて眠ってしまっていても誰にも何も言われない。……ていうか、ビックリした。廊下の隅で寝ちゃってた。誰か起こしてよ……。目が覚めたら、僕の周囲に花が沢山飾られてて、何か僕、死んだみたいになってた……。
そんな、廊下の隅でうっかり寝てしまうくらい、この家は『安全』なのだ。
……廊下で寝てたことは、トーマス様にガッツリ叱られたけど。
「野良猫が、『家』を見つけたみたいね」
呆れたように笑うお嬢様に、僕は「そうかもしれない」と納得していた。
雨風を凌げる……どころではない、立派過ぎるお邸で。温かい食事があり、清潔な寝床があり、他愛のない会話をする友人が居る。
一日に三回は泣いているけれど、それを差し引いても得難いものばかりなのではないだろうか。
……一日に三回泣かされる、というのも、他では得られない経験かもしれないが。そんなもの、無くても構わないのだが……。
最近はもう、『いつ死んでも構わない』とも思わない。……まあ、『死んだら死んだで、それまで』とは思っているけれど。
その心境の変化に関しては、ネイサンが「一般的に……あくまで『一般的に』だけども、『死にたくない』だとか『まだ生きてたい』だとか思うのは、この世に何かしらの未練だとかがあるからじゃね? 『捨てたくないもの』とか、『大事なもの』だとか、そういうさ」と言っていた。
そういう『何か』が僕にあるのかは分からない。けれど、『捨てたくない』というよりは、『可能ならば持っていたい』と思えるものは出来た……ように、思う。
「なら、あの素敵な二つ名も大事に持ってなさいよ」
「それとこれとは、話が別ですよね!?」
「捨てるのは簡単なのよ。そういう……、『自分の過去』を切り捨てずに、大切に抱えていく事も、時には必要なんじゃないかしら……」
穏やかな笑みで、少し遠くを見ながらお嬢様は言うけれど。
……絶対、ウソですよね? 僕をからかって遊ぼうと思ってるだけですよね?
そう言うと、お嬢様は「ヤダぁ、人聞きが悪ゥい」とわざとらしい口調で言った。……お嬢様、普段そんな言葉遣いしませんよね? ……もう何なの、このお嬢様……。
どうやら話は終わったらしく、お嬢様は立ち上がるとスカートの葉っぱを手で払った。
僕も立ち上がろうとしたが、やはり足が……、た、立てない……。
この痺れた足をどうしたものか……と悶絶する僕を見下ろし、お嬢様が小さく笑った。
「まあとにかく、『ここ』が貴方にとって『安全な寝床』であるなら、良かったわ。……マクナガン公爵家へようこそ、白き(中略)死神」
「あーーーー!!」
からかう気、満々過ぎる!! 絶対、その過去は『捨ててもいい』ヤツ!!
「うっせぇんだよ」
嫌そうに言いつつ、ディーが僕の足を蹴とばした。
「なーーーー!!」
蹴とばされた足がビリビリ痺れて、僕は再度悲鳴を上げた。それにお嬢様とディーが揃って「煩い」と嫌そうな顔をする。
何、この人たち!! ひど過ぎる!! 多分僕、悪くないのに!!
そして今日も、僕はベッドの中で一日を振り返り、さめざめと泣いたり、思わず叫んでしまって隣室の人に壁を叩かれたりするのだが。
この『己の所業に悶絶する日々』もいつか、過去になるのだろうか。……ていうか、なってくれ……。頼む、なるたけ早くなってくれ……!!
けれどそれでも容赦なく朝は来て。
僕はまた、『特に仕事のないポーター』として、一日を過ごす。笑ったり、泣いたりしながら。
『普通の人たち』のように。
「おーい、セザール! 『闇に潜む、暁の深紅』、二巻が出てた! 読んで、感想聞かせて!!」
そんなネイサンの声を華麗に無視しながら、メイドたちの「あら、見て! あそこに死神が居るわよ!」「まあ! 本当ね! 何処から見ても白き死神としか言いようがないわね!」という芝居がかった聞えよがしのヒソヒソ声に涙しながら。
僕は今日も、『ここ』で生きていくのだ。
本編あんなですが、『いい話』風に終わります。笑
もしよろしければ、活動報告にも目を通していっておくんなまし……。




