「死神」と(自分で名付けて)呼ばせた男。【中編】
幼い頃に、家族から捨てられた。
そこからは覚悟を決め、肚を括り、一人で生きてきた。
『友人』など居た事はないし、欲しいと思った事もなかった。『全幅の信頼を置ける相手』という者も居なかったし、それが当然だと思っていた。
まあ、そんな境遇で『真っ当』になんて育たない。
僕は随分と『歪』だったのだな、と気付いたのは、公爵邸で住み込みで働くようになってからだった。
僕は実は、雇用契約の際に、契約書に本名は記入していなかった。
トーマス様に渡された契約書には、僕の『最強にカッコいい二つ名』を記入して提出したのだ。
当然、突き返されるものと思っていたのだが、トーマス様は「よろしい」とだけ言いそれを普通に受理した。
……ていうか、受理しないで下さいよ!! 突き返して下さいよ、トーマス様!
何故あれをそのまま受理したのか、後にトーマス様に尋ねてみた。
返事は「そのまま受理した方が、面白そうだったから」だった……。僕の素性なんかに関しては、既にあらかた調べが付いていたので、書かれた名前が何であれ構わなかったのだそうだ。
色んな意味で怖いよ! マクナガン公爵家!!
そう。『色んな意味で怖い』と今なら心から思うのだが、当時の僕には、その『怖い』という感情が良く分からなかった。
恐怖だけではない。
喜怒哀楽、全ての感情が、『良く分からない』ものだった。
決して、感情がない訳ではない。本当にただ『分かっていない』だけだ。
お嬢様の言うところの『情緒が未発達』というヤツだ。
* * *
使用人には、割り当てられた自室がある。
広大な公爵家だ。数十名の使用人全てに部屋を与えても、まだ未使用の部屋が多数ある。
何人かの使用人たちで相部屋になっている者もあるし、専用の一人部屋を与えられている者もある。
トーマス様は流石に執事だけあり、広い立派なお部屋をいただいているようだ。料理人たちは全員纏めて同じ部屋。うっかり者のメイドは朝起きられないという理由から、三人部屋に自ら移動していったらしい。
そして僕に与えられたのは、一人部屋だった。
家具なども殆ど無い、殺風景な狭い部屋だ。それでも、部屋の大部分を占めるベッドは、小さいながらも質の良いものだ。これだけでも安宿などより格段に居心地が良い。
僕が一人部屋であるのは、ある種の特別待遇だ。
僕はそれまでの境遇が境遇だっただけに、『眠る』という無防備な行為の最中、人の気配がすると反応してしまうクセがあった。
具体的に言うと、そこに居る『誰か』に向かって武器を構えてしまう、というクセだ。
初日にトーマス様にそのクセの事を話したら、一人部屋を与えられたのだ。
おかげで毎日平和に安眠できる。
平和な睡眠が保証されているだけでも、この邸に雇って貰えて良かったと思えたものだ。
雇われてひと月ちょっと経った頃。
トーマス様に、朝礼に参加するように言われた。
この『朝礼』は、使用人の中でも『長』と付く者たちが参加するものだ。ここでトーマス様からの伝達事項などを聞き、それを各部門の長が下の者へと伝達する。
トーマス様の執務室へ行くと、そこには既に十名近い人数が揃っていた。
どうやら僕が最後の一人だったらしい。僕が執務室に入り扉を閉じると、トーマス様が「では、始めようか」と言った。
それぞれの部門への伝達事項を、トーマス様が淡々と伝えていく。
領地で豊作となり採れすぎた作物があるから、食事のメニューにはその野菜を組み込んで欲しいだとか。先日、旦那様がワインを零された絨毯の替えが明後日届くだとか。今日の午後から、旦那様に来客があるから、その準備を……だとか。
普通に、お邸の生活を円滑に運営する為の伝達事項だ。
僕、何で呼ばれたんだろ……。
僕ら下働きの人間への伝達は、トーマス様から直々にある。「トーマス様から言付けられた」と、侍従が伝えに来ることもある。
……まあ、僕には仕事がないから、そういう事も殆どないのだけれど。
ていうか、仕事がないのに、ホントに僕、何でここに居るんだろ……。
そんな疑問を抱きつつも、淡々とした朝のやり取りを聞くともなしに聞いていた。
「では、最後に……」
予定が書きこまれているらしい手帳をパタンと閉じながら、トーマス様が一同を見回した。
「既に雇い入れてからひと月以上経っているが、新入りを紹介しよう。……来なさい、白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神」
トーマス様が僕の名を呼んだ。途中から、料理長が咽るように咳をし始めた。侍従長は俯いて震えている。メイド長は「うわぁ……」という表情で僕を見ている。
……何だよ! 言いたい事があるなら、口で言ってよ!!
呼ばれたので、トーマス様の隣に立った僕を、全員が何とも言えない表情で見ている。
何だろう……。憐み? ともちょっと違うな……。本当に、何とも言えない表情だ。「あー……」というカオ、というか……。
「名前が長いので、彼の事は『白き死神』とでも呼ぶといい」
言ったトーマス様に、侍女長がすっと片手を挙げた。
「何かな、メラニー」
「はい。呼び名は了解いたしましたが、念の為、もう一度フルネームをお聞かせいただけませんでしょうか」
ハキハキとした口調で言うと、侍女長はエプロンのポケットからメモ帳を取り出して、サッとペンを構えた。
それにトーマス様は「いいだろう」と頷かれると、ゆっくりと口を開いた。
「白き闇より出でし無限の業火に抱かれ――」
「ストップ、トーマス様! 書く手が追い付きませんので……!」
一生懸命にメモを取る侍女長だけでなく、他の人々もいつの間にかメモを手にしている。
「白き闇より……、何だって?」
「いでし? すみません、トーマス様! もう一回頭から」
「……では、いいかな? もう一度、頭からいくぞ? 『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ』……」
ガリガリと、皆が必死にペンを動かす音がする。
何だろう……。
うっすら居た堪れない感覚がある。
長い名前、カッコいいけど不便だな……。やっぱり『白き死神』とかで妥協しておくべきなのかな……。
謎の居た堪れない感覚を抱えたまま、朝礼は終了した。
……全員がメモを見ながらぶつぶつ言っている光景が、ちょっと不気味だった。
* * *
そんな朝礼から数日後。
僕には相変わらず仕事がない。ていうか、ホントに何にもやる事ないんだけど……。ホント、何で僕を雇ったんだろう……。
そんな事を考えつつ、僕は相変わらず林の木の上でぼけっとしていた。
「よぅ、死神」
声をかけられ見ると、別の木の上に隠密が居た。
彼らにも基本的に、日常的には仕事がない。旦那様やトーマス様に仕事を言いつけられない限り、彼らは日中はこの林で好き勝手に過ごしているらしい。
僕と似たようなものではあるが、僕のように『本当に何も仕事がない』訳ではない。
彼らには『この林に侵入してきた者を見張る』という仕事がある。……逆を返せば、侵入者がない限り、彼らにも仕事はないのだが。
「……何か用ですか?」
彼ら隠密業務に当たっている人間が、一体総勢で何人居るのか、僕は知らない。
この、今僕に声を掛けてきた隠密は、ここで良く見かける顔だ。彼以外に、少なくともあと四人居る事は分かっている。
「今日もヒマそうだな」
「……そうですね」
木の上でぼけっとしているのだ。どこから見ても「忙しそう」ではないだろう。
思わず溜息をついた僕に、隠密の男性はふっと小さく笑った。
「ヒマなんだったら、邸の人間に片っ端から声でもかけてみな。『何か仕事ありませんかー?』ってな」
それもいいかもな……と、ちょっと思った。
何しろ、こうも毎日やる事がないと、逆に疲れてしまう。『時間を潰す』だけが一苦労なのだ。
けれど、僕以外の使用人たちには、それぞれに割り振られた仕事がきちんとあるのだ。その『彼らが任せられている仕事』を、僕がふらっと出ていって「手伝いましょうか?」などと言ってみたところで、任せてもらえるのだろうか。
しかも僕など、ついひと月ちょっと前に入ったばかりで、信用も信頼もないだろうに……。
「お前さんでも出来るような、ただの力仕事だとか雑用だとかくらいなら、何処にでもあんだろ、きっと」
それもそうかも。
それに、ここでぼけっとしてるより、御用聞きをしている方が多分時間も潰れる。
行ってみるか……と、僕は邸へと向かった。
取り敢えずどうしようか……と考え、僕はまず厨房へ向かった。あそこなら、日中であれば必ず誰かは居るだろう。
入り口から中を覗いてみると、昼下がりなのだがパン職人が窯の前で難しそうな顔をして腕を組んでいる。焼き加減を見張ってる……のか?
というか、もうパン焼いてるの? 夕食まで、まだ何時間もあるのに?
「あのー……」
何と声をかけたものか迷い、結局中途半端な呼びかけになってしまった。
けれど仕方ない。僕は彼らの名前などを知らないのだ。……ていうか、執事のトーマス様以外、全員の名前を知らないな。でもそんなもんなのかもしれない。
この広大なお邸の使用人は、総勢で七十名近くになる。けれど、僕の仕事であるポーターを任されているのは、僕一人なのだ。……よく考えるまでもなく、なんかおかしいよね? このバカデカいお邸で、ポーターが一人っきりとかさ。そんな事ある?
……あ、でも、一人しか居ないのに仕事がないんだから、そういうもんなのかも。
ていうかパン職人、窯を睨んだまま動かないな……。聞こえなかったかな?
「すみませーん」
さっきより大きな声で呼びかけると、パン職人が窯を睨んだまま僕を制するようにビシッと手を挙げた。
「シッ! 静かに!」
ピリッとした緊張感のある声で言われ、やらかしてしまったかと僕は少し首を竦めた。
「パンの声が……、聞こえねぇだろうが……」
作ったような低い声で、パン職人がぼそっと言う。
……パンの声?
え? 何言ってんの、この人。
パンって、喋るの? もしかして、『喋るパン』とか開発してんの?
そんな風に思いつつ、何となく彼を眺めていると、パン職人はこちらを見てにやっと笑った。
「つか今の、どーだった!?」
「どう……とは?」
何の事だろうか。
「俺、『職人!』って感じで、カッコ良くなかった!?」
え……、えぇ~~~…………。
「俺最近、ボニファツィオの伝記読んだのよ。知ってる? ボニファツィオ」
「まあ、一応は……」
二百年くらい前の、有名な芸術家だ。絵画も多く遺しているが、彼の代名詞とも言えるのは彫刻だ。『天才』としか言いようのない人物で、彼の作品は後世の多くの芸術家たちに影響を与えている。
「その本にさー、書いてあったのよ。『ボニファツィオは木や石の声を聞いた』って」
パン職人曰く、ボニファツィオが弟子に語った言葉にそういうものがあるらしい。
彼が『天才』と呼ばれる理由は、今も遺る作品の素晴らしさも当然あるが、それ以上に逸話が凄まじいというものがある。
有名なところでは、教会から依頼された使徒像を彫る為の石を、世界各地を自分の足で渡り歩いて四年かけて探し出した……などだ。
その使徒像を彫っている師に、弟子が問うたらしい。「師は何故、これ程に繊細で美しい像を彫る事が出来るのか」と。
ボニファツィオという人は、彫刻をする際に下絵も描かなければ、素材に当たり線などを入れる事もしなかったそうだ。暫くの間、黙って素材と向き合い、鑿を手にしてからは一気に彫り上げる。それを間近で見て、不思議に思わない筈がない。
その弟子の問いに、ボニファツィオは答えて言った。
「石や木の中にある『魂』が、私に語り掛けるのだ。私はただ、それらの声を聞き、彼らが言う通りに鑿を振るうだけだ」と。
「それ読んで『コレだ!!』って思ったのよ! 俺の目指すパン職人像はこれしかねぇ! って」
これしかない……かなぁ……? 絶対、他にあると思うけど……。
「そんで俺もいつかは、マクナガン公爵家史に名を遺すパン職人になるんだ! って」
……ボニファツィオは『美術史』に名を遺しているのだが、それと比べて何と狭い歴史だろうか……。でも、ある意味、現実を見てる……と言える……かも。
「あ、そんであんた、何か俺に用事だった?」
思い出した、というように笑顔で言ったパン職人に、僕は「何か手伝えるような事はないかと思って」と告げた。
「いや~……、今は別にないかな。悪いな。ありがとな」
「いや……」
別に、礼を言われるような事じゃない。
ここに仕事が無いようなので次を当たろうと、僕は歩き出そうとした。その僕を、パン職人が呼び止めた。
「あ! 俺、ネイサンね。ネイサン・キーン。あんたは、えっと……」
言うと、パン職人もといネイサンは、コックコートのポケットに手を入れた。
何が出てくるかと思ったら、そこから出てきたのはメモか何かの紙片だった。
「『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』……」
あのメモ、僕の名前が書いてあるのか……。ていうか、最後の方、声がめっちゃ震えてたけど。ついでに、ネイサンの肩もぶるぶる震えてんだけど。
「なっが……、いった……」
小さな声で言いつつも、ネイサンは笑いをかみ殺しているようだ。
だから、笑う要素、どこ!?
一通り笑い終えたのか、ネイサンは「はー……」と息を吐くと、僕を見てにかっと笑った。
「この長ぇ名前、毎回呼ぶの面倒だからさ……」
まあ、そうだろうな。……僕だっていい加減、学習する。確かに、僕の最強カッコいい名前は長い。悔しいが認めよう。だから略して『白き死神』とでも呼ぶのかな。
「セザールでいい?」
は!?
まさかの本名に驚く僕に、ネイサンはやはり楽し気な笑顔だ。
「俺さー、ここんちに雇われる前、他国の諜報員だったのよ。あんた結構、派手にやってたじゃん? だから一応、あんたの素性とかは調べてあったのよ。あんた、『足跡消す』とか殆どやってなかったじゃん? 名前とか、すぐ調べ付いたよ」
彼の言う『足跡』というのは、自分の過去や素性の事だ。
確かに僕は、そういったものに無頓着な方ではあった。けれど、『全くしていなかった』訳ではない。『本腰を入れて調べたら、何か一つくらいは分かるかも』くらいの消し方だ。
恐らくネイサンが元居た国は、それなりに本腰を入れて僕の素性なんかを調べたのだろう。それとも単純に、ネイサン自身の諜報能力が高いのか。
「セザールだと馴れ馴れしくて嫌だってんなら、ヴィクトールの方がいい?」
「……セザールで」
フルネームをきっちり押さえられている……。
ならば、思い入れの何もない家名より、ファーストネームの方がまだマシだ。
「そんじゃ、これからヨロシクな、セザール」
そう言って差し出された手を、僕は溜息をつきつつ握るのだった。
その日以来、ネイサンは僕を見かけると声を掛けてくれるようになった。
僕はこれまでがこれまでだったので、『人付き合い』というものがよく分からなかった。
ネイサンはそういう事情を知って、僕と他の使用人との間を取り持ってくれたりした。
彼はとにかく人懐こい性質のようで、どんな相手にも笑顔で声を掛ける。そして、釣れない、素っ気ない態度の相手にも、臆する事がない。
おかげで、それからひと月もすると、僕は邸の使用人の大多数の顔と名前を覚える事が出来た。
……ただ、全員に半笑いで「白き死神」と呼ばれるようになったけれど。
何で全員、半笑いなのさ! 本当に、笑う要素、何処なんだよ!!
* * *
お邸に雇われて約二か月が経過した。
相変わらず、僕の仕事はこれと言ってない。
ただ周囲が、『仕事が無くてフラフラしている(一応)ポーターが居る』という事を分かってくれたらしく、時折誰かが僕に雑用をお願いに来るようになった。
地下の貯蔵庫にあったネズミの死骸を片付けてくれ、だの、干していたタオルが風で飛ばされてしまったから取ってくれ、だの、頑丈な縄梯子を編んでおいてくれ、だの……。
ていうか、最後の仕事、何なの!? 丈夫な縄梯子を、何に使うんだよ! ……と思ったら、二階のとある一室から、その縄梯子が垂らされていた。あの窓は上級使用人の控室だ。
何かと思ったら、侍従が「簡単に出入りする方法」として思いついたからやってみた、という事らしかった。けれどこれは流石に、旦那様に叱られた。そりゃそうだ。
でも、叱られた理由が「エリィが真似したがるから、やめなさい」だった。……そうじゃないよね? 普通、そういう理由じゃないよね?
確かにお嬢様、ちょっと鈍臭……いや、運動神経が不自由でいらっしゃるから、二階の高さから綺麗に転落する絵しか想像できないけど。
そして案の定やってみたかったらしいお嬢様だけが、旦那様に食って掛かっていた。
縄梯子は現在、隠密たちに預けられているようだ。確かに彼らなら、何か有効に使ってくれそうではある。
余談だが、縄梯子の作り方は、トーマス様が教えてくれた。『かつて居た場所』で、衣服から縄を綯い、それで梯子を作る事があったそうだ。
トーマス様は「下手な物を作られて、要らぬ怪我でもされたら堪らん」と仰っていた。……カッコいい……。
そんな日々を過ごしているのだが、僕にも一応ちゃんと『休日』がある。……毎日が休日状態なのだが。それでも一応、休日以外はお邸の敷地から出ないようにはしている。……やる事はないけれど。
とある休日、ネイサンに「街に行かないか」と誘われた。
暇だったので「いいよ」と答え、当日、指定された時間に勝手口へ行くと、ネイサンとディーが居た。
「あれ? ディー?」
ネイサンと待ち合わせていた筈だけれど。
「俺もちょっと用があるから、ついでにな」
使用人が街へ行く時は、使用人の為の馬車を出してもらう事が出来る。街まで歩いて行ってもいいのだが、歩くと一時間くらいかかってしまうのだ。
馬車は六人乗りなので、誰かが街へ出る時は、用のある数人でまとまって行く事が多いのだ。
ネイサンのおかげで、邸の使用人たちと会話をする機会が増えた。そうしていく中で、使用人たちの為人や来歴などを知る事もあるのだが。
この『ディー』と名乗る馬丁の事は、殆ど何も分からない。
誰に聞いても「知らない」と言われるか、「本人に聞きな」と言われるかだ。なので一度、本人に訊ねてみたのだ。「どうしてここで馬丁をしているのか」と。
答えは「さぁね」だった。
言いたくないのか、言えないのか。どちらかなど分からないが、僕も別に深入りしたい訳ではない。
なので何も分からないまま放置している。
……ホントは、ちょっと気になると言えばなるんだけども。
公爵家の紋の入った馬車などは使えないので、(見た目は)粗末な乗合馬車のような馬車を出してもらう。
けれどこれは、見た目こそ乗合馬車のような素っ気なさだが、内装が驚く程に豪華だ。
お嬢様がご自分のお忍び外出用に改造させている馬車で、お嬢様曰く『お忍び号DX』という名前らしい。……何なの、『DX』って……。
座面のふかふか加減といい、振動の少なさといい、公爵家の紋の入った馬車より凝っているのでは……。
ついでに「お嬢様から、後でこの馬車の感想聞かせてくれって、言付かってるから。帰ったら、お嬢様が感想聞きに来ると思うぜ」とネイサンに言われた。
感想って……、何言えばいいんだろう……?
とりあえず、「座席がふかふかだった」でいいかな……?
僕とネイサンは、特に何か用事があって街へ出た訳ではない。なので、何か用があるらしいディーとは、待ち合わせ時間と場所を決めて別れた。帰りもまた、皆で『お忍び号DX』に乗合で帰るからだ。
特に宛てがある訳でもないので、二人でふらふらと街歩きだ。今居る場所は王都の中心街で、民家よりも商店の多い区画だ。
この国の王都は、王城を頂点とした扇状になっている。
王城から放射線状に大通りが伸びており、その大通りを縦断するように幾つかの通りがある。その縦の大通りと横の通りで区切られた区画ごとに、軒を連ねる商店の客層や特色が変わる。
城からほど近い区画には、貴族相手の商店が多く、離れれば離れる程に平民相手の商店が増えていく。
僕らが居るのはその真ん中あたりの、貴族も平民も皆が利用するような商店区画だ。
貴族相手の高級店もあるし、平民でも手を出しやすい値段の店もある。けれど基本的に、平民にはちょっと値が張る……といったところだ。
様々な店を冷やかしながら歩き、一軒の書店へと入った。
この書店はどうやら、娯楽小説などを主に扱っているようだ。本棚に並ぶ背表紙が色とりどりで、雑多な印象を受ける。
恋愛小説なども多いようで、女性の客もちらほら見える。平民らしき少女が、購入したのであろう本を胸に大事そうに抱え、とても嬉しそうな笑顔を浮かべている。
……そういえば、『娯楽小説』という分野の本は、余り読んだ事がないな、とふと思った。
仕事柄、知識はあっても困る事がないので、本は多種多様に読んでいるのだが。
『娯楽小説』というものは、その名の通り『娯楽』に振り切っているので、そこから得られる『知識』はほぼないに等しい。
以前、他国で貴族家のご令嬢に接触しなければならない事があり、その際に『当時その国で流行っていた恋愛小説』を読んだ。……驚く程、つまらなかった……。
若き公爵と下級貴族の令嬢の、身分違いの恋を描いた話だったのだが……。
公爵、恋愛もいいけど、仕事しようよ! 何でそう、年がら年中、朝から晩まで色恋の事しか考えてないのさ! 『公爵』って、それで許される立場じゃないよね!?
……という感想しかなかった。まあ、『娯楽小説』なのだから、現実と乖離があっても構わないのだろうけれど。僕には面白さがよく分からなかった。
そんな事をぼんやりと考えつつ棚を冷やかしていたら、何かを購入したらしきネイサンに「そろそろ出ようぜ」と促された。
店を出て、ディーと合流し、馬車へ向かって歩く途中。何かを見つけたらしいディーが、僕の肩を拳で軽く突いてきた。
「アレ。……アイツ、何かやりそうじゃね?」
小声で言われ、ディーが見ている方向へと視線を転じる。
そこには、一人の男が居た。
ぱっと見は、何処にでも居そうな普通の男性だ。中肉中背で、年代は三十代程度だろうか。身形は平民らしいさほど高級そうでない衣服だが、清潔感はある。髪もきちんと短めに揃えてあり、『一見して』おかしなところはない。
けれど視線が。
何かを探すように、うろうろとあちこちを彷徨っている。
「どした? 何かあった?」
僕とディーが足を止めている事に気付いたネイサンが、呑気な笑顔で言いながらこちらに歩み寄ってきた。
「いや、別に何もねえな。今んとこ」
「おー、言い回しが不穏じゃーん」
ネイサン、何で楽しそうなの……?
「どれどれ!? 怪しいの、どいつ!?」
だから、何でちょっとわくわくしてんの……?
「アイツ。……っと、やりやがったな」
ちょうどディーがネイサンに件の男を指し示したタイミングで、男が一人のご婦人とすれ違いざまに、ご婦人から何かをスリ取るのが見えた。
ご婦人が腕に掛けたバッグから、何かを盗っていた。まあ、十中八九、財布だろう。
ご婦人は当然、気付いていない。そのご婦人に向かって、ネイサンが歩き出した。
スリはこちらへ向かって歩いてくる。
そのスリの足元に、ディーがこっそりと足を出した。僕は、ディーの足に躓いてよろけた男のポケットから、先ほど掏った『何か』を回収する。案の定で財布だ。
体勢を崩して慌てた男は、『戦利品』が無くなっている事に気付いていない。
「ぅおっと!」
転びそうになっている男の腕を、ディーが何食わぬ顔で引き上げて「大丈夫かー?」などと声をかけている。
その隙に、僕は前方に居るご婦人の所まで歩いた。
ご婦人は、うっかりぶつかってしまった(という体の)ネイサンにしきりに謝られ、恐縮して笑っている。
「あのー、すみません」
僕が声を掛けると、ご婦人とネイサンが揃ってこちらを見た。
ネイサンまで、不思議そうなきょとんとした顔をしている。演技力、すごいな……。流石は後世に名を遺す(予定の)パン職人だ。
「わたくしに、何か……? それとも、こちらの方に御用ですかしら……?」
「あ、えっと、どちらかは分からないのですが……」
言いつつ、僕は手に持っていた財布を二人に差し出した。
「これ、落とされませんでした?」
「いやー、俺じゃないっすね」
「まあ! わたくしの持ち物ですわ!」
感激して何度も礼を言うご婦人に「いやいや、僕はただ拾っただけですから……」などと言っていると、僕たちを後ろから来たディーが追い越して行った。
ネイサンはご婦人に「ホント、すいませんっした!」と頭を下げてさっさと歩いて行ってしまい、僕は「お礼をしたいので、是非お名前を」と言うご婦人を何とか躱し、先を行く二人を追いかけた。
二人が曲がっていった路地へと入ると、少し進んだ場所にディーとネイサンが待っていた。
「そんじゃ、逃げるか」
僅かに楽し気な口調で言うネイサンに、ディーが軽く笑った。
「だぁな。面倒はご免だしな」
その言葉に、僕も頷いた。
さっきのご婦人の『英雄』なんかにされるのは、確かに面倒この上ない。
この辺りの地理に明るい二人についていって、細い裏路地を不自然に何度も曲がりながら歩いて行く。
歩調も一定でなく、早めたり、緩めたり、時には立ち止まったりもする。
これは、尾行されていないかを確かめる歩き方だ。
かつて他国で諜報員であったというネイサンが、こういう行動に慣れているのは分かる。
ならディーは、かつて何であったのだろうか。
ネイサン以上に、ディーが周囲に神経を張り巡らせているのが分かる。そしてネイサン以上に、こういった行動を『自然に』取っている。
もしかして。
こういう『尾けられていないか確認する』だとか、『足音を消す』だとか、そういった行動は『マクナガン公爵家の使用人に必須なスキル』だったりするのだろうか。
……いや、そんな訳ない……、とも言い切れない気がする……。
とにかく変わった家だしな……。
けれど、そんな事より。
考えると可笑しくなってきて、思わず笑いを零してしまった僕に、ネイサンが不思議そうな顔をした。
「どした? ニヤニヤして」
「え……? あ、いや……」
言いつつも、また笑いが漏れてしまう。
「なんか、可笑しくってさ」
財布を掏られたご婦人に、掏られた品物をそれと知らせず返しただけだ。世間一般的に言えば、『善行』だ。
人ごみを利用して目標を始末して逃げた事ならある。あれは『犯罪』であり、露見したなら捕縛されるのが確実であるから逃げる訳だが。
善行を成して逃げるのは初めての経験だ。
『善き行いをしたから逃げる』というのが、何だか無性に可笑しい。
しかも僕一人ではなく、三人全員で、だ。
「おい。笑ってんのも結構だけども、さっさと帰ろうぜ?」
数歩先から、ディーが呆れたように言う。それにネイサンが「そーだな。陽も落ちてき始めたしなー」と呑気に返事をし、ディーに追いついて歩き出す。
何か話をしながら、じゃれるように互いを小突いたりし合い歩く二人を、僕はその場に立ち止まったまま見ていた。
その僕を。
先を行っていた二人が、同時に振り向いて呼んだ。
「置いて行かれたいってんなら、そう言いな」
「遅くなり過ぎると、晩メシ食いっぱぐれるよー」
その二人に僕は「今行くよ」と返事をし、追いついて歩き出した。
けれど何だかやっぱり可笑しくて、口元が勝手に笑みを形作ってしまうのだった。
ムズ痒い……。




