「死神」と(自分で名付けて)呼ばせた男。【前編】
今回、大分長めになっていますので、お時間ある時にどうぞ。
サブタイトルからお分かりかもしれませんが、マクナガン公爵家のポーター、セザールくん、またの名を白き死神のお話。
マクナガン流『寿限無』、お楽しみいただけたら幸いです。
過去の自分を殺してやりたいと思った事はないだろうか? 夜、寝ようとした時に、過去の愚行を思い出して寝台でのたうち回った経験は?
僕は、ある。……というか、現在進行形で絶賛のたうち回り中だ。
* * *
僕はここから遠く離れた国で生まれた。家は貴族だったのだが、その辺の平民より貧しい暮らしだった。なので僕は、ある程度まで育った後、口減らしとして捨てられた。
まあそれは、恨んでも仕方ない。あの頃の僕に、家の窮状を救えるような才覚はなかったのだし。僕を街の片隅に置き去りにする際、繋いでいた母の手がずっと震えていたのを覚えている。何度も「ごめんね」と繰り返していた事も。
まあなんだ。全部、貧乏が悪いのだ。それだけだ。
僕の生まれた国は、この国ほど社会福祉が充実していない。なので、『孤児院』のようなものも滅多にない。あっても大抵がぱんぱんで、新たな子供を受け入れる余裕などない。
なので僕は、その日から一人で生きねばならなかった。とはいえ、覚悟は出来ていたので、そう悲観したものでもなかったが。
生きていく為に、様々な事をしてきた。有体に言えば、犯罪だ。
そこまでして生きる必要はあったのか? とは、今でも思う。死ぬよりマシという意見もあろうが、地べたを這いずり回るような暮らしは、時として「死んだ方がマシ」でもあるものだ。
騙したり騙されたり、奪ったり奪われたり。そんな事を繰り返す暮らしで、僕が最終的に落ち着いたのは『暗殺者』だった。僕にとっては、善良な人を騙すより、クズを殺す方が気が楽だった。ただそれだけの話だ。そして僕には、『人を殺す』という事に対する、ある種の適性のようなものがあった。
ただ、幾ら相手がクズとはいえ、司法の判断に則らないのであれば『殺人』だ。犯罪だ。結果、追われる形で様々な土地を転々としてきた。
そして行き着いたのが、この国のマクナガン公爵家だった。
この国は行政がしっかりしているからか、暗殺依頼が極端に少ない。なので僕は、ここへ来て職を失った。
河岸を変えようかとも思ったのだが、それも何だか面倒になり、宛てもなくふらふらとしていた。
暗殺という職は、自身の危険と引き換えではあるが、金になる。当時の僕は、その後を一生何もせずとも暮らしていける程度の資産は持っていた。ただ、その金の使い道がなく、完全に持て余していたが。
何もせずとも暮らしていけると言うが、『何もしない』のであれば、生きている必要もないのでは? そんな風にも考えていた。
その僕に声をかけてきた人物があった。いかにも身形の良い、老齢の男性。けれど眼光が鋭く、動きにも無駄がない。
只者ではない。直感でそう思った。……実際、とんでもない経歴の持ち主だった訳だが、それは後に知る事だ。
場末の余り治安のよろしくない、薄暗く汚い酒場。その場に似合わぬテールコートにインバネスという上等な身形で、けれど何だか、その場の誰よりそこの薄暗さに馴染んでいるような不思議な男性。
片隅のテーブルで一人で飲んでいた僕の隣に座ってくると、キツいだけが取り柄のような安酒を一杯オーダーした。それは、『酔えたら何でもいい』という人種か、『キツい酒を平然と飲む俺』に憧れる子供かしか頼まないような代物だ。
精製も濾過も雑にやられているので、うっすら濁っていてただひたすらにきつい。風味と香りを犠牲に酒精だけを高めたような代物。好んで飲む者は多分居ない。
ちらりと男性を横目で見る。身に付けている物の上等さに、改めて驚いてしまう。仕立ての良い衣類に、貴石の嵌まったタイブローチ。掛けている片眼鏡のフレームや鎖はシルバーだ。グレーの髪はきっちりとオールバックにセットされ、一筋の乱れすらない。靴もピカピカで、ここまで歩いてきた訳でない事が簡単に知れる。
何だろうか、この男性は。
不審に思っていると、店員が例の安酒を入れたグラスを持ってきて、男性の前にゴトンと少々乱暴に置いた。男性はそれを気にした風もなく、グラス一杯分のコインを店員に手渡している。
身形や雰囲気と、オーダーした品物とが不似合い過ぎる。
何となく気になってしまい男性をちらちらと見ていると、男性は運ばれてきたグラスを手に取り、一気に半分ほどを流し込んだ。
飲み慣れていない者は大抵が咽る。けれど男性は半分ほど減ったグラスを静かにテーブルに置き、ふっと小さく息をついただけだ。
カッ……コいい……! グラスを置く仕草も、洗練されていて嫌味がない。何と言う事だろうか。めちゃくちゃにカッコいい。
僕の飲んでいた酒は、ワインの絞り滓を更に発酵させ蒸留した、やはり一般的に『強い』と呼ばれる類のものだ。けれどこれは、元が葡萄であるだけに香りは良い。味は……、実は僕にはよく分からない。
味など分からなくても良いのだ。男とは、一日の終わりに一人静かにグラスを傾けるものなのだ。
僕も次は、男性の飲んでいた酒に挑戦してみよう。以前に一度飲んだ際は、盛大に咽て服をびっちゃびちゃにしてしまったが。あの頃より、今の僕の方が『大人の男』になっている筈だ。この男性のように、気怠げにグラスを干せる筈だ。
薄暗い酒場の片隅。揺れる灯り。傷だらけのグラスに、濁った安酒。それを黙って飲む僕。…………いい。物凄くイイ。
男性をちらちらと盗み見ていたのだが、不意に男性とばっちり目が合ってしまった。
ヤバい、と、直感的に目を逸らした。
こういう場末に出入りする身形の良い人物というのは、大抵が関わらぬ方が良い人種だ。見た目にかけられるだけの金銭的な余裕はあるが、その『金銭』の出所が問題という人種が圧倒的だからだ。
そしてこの男性は、多分、そういう人種だ。
眼光の鋭さが、『善良な市民』ではない。
「君は……」
ぽつりと、男性が口を開いた。
「『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』だな?」
「……何故、その名を……?」
僕の考えた最強にカッコいい名前を、間違える事もつかえる事もなく言いきった人を、初めて見た……!
というか、頭の『白き』と最後の『死神』以外を知っている人を、初めて見た。……やはり少々長すぎたか……。もう少しコンパクトにカッコ良く纏めないとダメか……。しかし、削れる箇所がないな……。
「さて、『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』よ」
「何でしょうか……?」
僕のこのカッコいい名前は、僕が『仕事』を請ける際に使用している名だ。そういう事もあってか、男性は低い静かな声で、囁くような声量で話す。……カッコイイな、この話し方。
「君は今、仕事を探していたりはするかな?」
探して……いるのだろうか?
非合法な暗殺の依頼は、この国には驚く程ない。他の国であれば、この手の酒場に一時間も居れば、そういった話を幾つかは聞けるものなのだが。
それとももっと暗い場所へ行かなければ、その手の話は転がっていないのだろうか。
いずれにせよ、『綺麗な国』という印象だ。
黙ってしまった僕に、男性はテーブルからグラスを持ち上げた。グラスの上部分を指先で持つ仕草がまた、カッコいい。
そのカッコいい仕草で、男性はグラスの中身をグイっと一気に干した。……やはり咽たりしない。本当にカッコいいな、この人……。
男性は軽く音を立てグラスを置くと、僕を見て小さく笑った。
「やる事がないなら、ついて来なさい。君に仕事を与えよう、『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』」
テーブルに幾らかのチップを置き男性が席を立つと、待ち構えていたように店員がそれを回収に来た。
あの小さなグラスを置く音が、席を立つ合図になっていたのか。…………カッコいい……。
男性のカッコよさに痺れてしまった僕は、ついて行ってみる事にした。
男性の言う『仕事』が、もし手に余るようなものであったならば逃げれば良い。そんな風に考えながら。
店を出ようとする僕らと入れ違いになった男らが、「おい、見ろよ。『グルーデンの悪夢』だ」と囁き合っているのが聞こえた。
『グルーデンの悪夢』!! この男性が!!
成程、それはカッコいい筈だ、と納得するのだった。
『グルーデンの悪夢』とは、ここから遠く離れた軍事国家に所属していたという、傭兵の一団だ。
国境沿いのグルーデンという小さな村を舞台にした戦いで、味方にも大きな損害を出したものの、数倍の兵力差をひっくり返し、敵を殲滅せしめたという傭兵部隊の事だ。
敵も味方も分からぬ死体の山だらけとなった寒村で、最後まで生き残った数名の傭兵。その光景の凄まじさから付いた名だ。その『悪夢』は、生き残った味方からも恐れられたという。
逸話込みで、めちゃくちゃカッコいい。
けれど男性は、そう言ってきた男を一瞥すると「おかしな名で呼ぶのは、やめてもらおうか」と低い声で言った。
ピリッとした雰囲気に、男たちは下卑たおかしな笑みを浮かべて「ああ、すまねぇな」などと言い、そそくさと店内へと行ってしまった。
おかしな事などないと思うのだけれど……。カッコいい名前で呼ばれたら、嬉しくならないだろうか。
そんな事を考えながら僕は、男性に促され立派な馬車に乗り込むのだった。
夜の静寂を縫うように、馬車は静かに街を駆けてゆく。
……ていうか、ホントに静かだな、この馬車! 車輪が石畳を噛む音とか、殆どしないな! どうなってるんだ、これ!? あと、揺れも少ないな! すごいな、この国の技術!!
その静かな車内で、男性が小さく息を吐いた。
「さて、君に任せたい仕事なんだが……」
来た! 何だ!? どんなヤバい仕事だ!? 相手が『グルーデンの悪夢』なら、どれ程危険な仕事が来ても不思議じゃないぞ!
固唾をのむ僕に、男性はそれまでと全く同じ声音で言った。
「お邸の荷運びをお願いしたい」
……荷運び……?
何かの隠語だろうか……? 何かヤバいブツを運べ、と……?
「ポーター、とは……?」
思わず訊ねた僕に、男性が軽く首を傾げた。
「君は貴族家の出身だろう? 『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』。君の家には居なかったか?」
「いえ、居ました、が……?」
正確に言うなら、荷運びだけでなく、その他の雑用なんかも全部こなす使用人だったが。
まあ一般的な貴族家なら、大抵の家に居るだろう。……僕の生家ほど貧乏でなければ、の話だが。
「そのポーターをお願いしたい。どうかね、『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』よ」
少し迷ったし、戸惑いもしたが、僕は結局頷いた。
何故なら、僕の考えた最強にカッコいい名前をきちんと呼んでくれた男性が、悪い人物と思えなかったからだ。
馬車が到着した場所に驚いた。
一応、この国に入った時点で、国内の地図は大まかにではあるが頭に入れてある。詳細な地図というのは国家機密になったりするが、観光客に配る程度のざっくりとした地図くらいなら簡単に手に入る。
「ここが何処か、分かるかね? 『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』」
「マクナガン公爵邸……だったかと」
貴族街と呼ばれる一角にある、歴史を感じさせる重厚な佇まいの豪邸。『公爵』という地位に相応しい威容を誇る大邸宅だ。
僕の言葉を男性は「正解だ」と短く肯定した。
というか、公爵邸!? そんな場所でポーターを!? 僕が!? 何故!?
今更の疑問であるが、そんな風に感じてしまった。
公爵とは言わず侯爵家などでも、使用人の身分は詳しく検められるであろうに。そこに何故、僕を!?
馬車が停まり、さっさと降りて歩き出した男性を、僕は慌てて追いかけるのだった。
男性について裏口らしき場所から邸に入り、連れていかれた場所はどうやら彼の執務室のようだった。脱いだコートを、壁のフックに引っかけている様子からして、そうなのだろう。
がっしりとした重厚な造りの机の上には、書類がちょっとした山になっている。壁にいくつもの伝声管が這っているし、大きなキーボックスもある。あんなものを管理出来るのは、執事くらいだろう。
公爵邸の執事なのであれば、この身形の良さや所作の洗練具合も納得だ。
というか、公爵家の執事!? 『グルーデンの悪夢』が!?
男性は机の引き出しを開け、中から何かの紙片を取り出した。何だろうか……と見ている僕に、男性が何かを放ってきた。
凄まじい速さで僕に向かって飛んできたのは、ペンだった。
咄嗟に、顔の前で受け止める。
……いや、真っ直ぐに目を狙ってきたな……。何だコレ……。ちょっと怖いぞ……?
そう思い、はたと気付いた。
『怖い』。確かに、僅かながらであるが、そう感じた。
そもそも僕が『暗殺者』などという職を生業としたのは、『恐怖』という本来であれば本能に根差すであろう感情が非常に希薄であったからだ。
『怖いもの知らず』だ。
故に、どれ程に危険な仕事であっても、冷静さを欠く事なくこなせた。
その僕が。
今、確かに感じたのだ。
僅かばかりであるけれど、『恐怖』を。
僕がペンを受け取ったのを見ると、男性が手に持っていた紙片をひらひらと振ってみせた。
「雇用契約書だ。サインは出来るな?」
「それは……、『契約の内容に問題はないか』という意味でしょうか? それとも、『文字は書けるのか』という意味でしょうか?」
問うた僕に、男性はふっと小さく笑った。皮肉気な笑みが、これまた渋カッコいい。
「双方だ。……やはり君は、『馬鹿』ではないな」
どういう意味だろうか。
不明瞭な質問の意図を質した事に対しての言葉だろうか。
男性から契約書を受け取り、ざっと目を通す。……おかしな内容は一切ない。
公爵邸でポーターとして雇用する旨。支払われる賃金の額。支払い方法。その他、様々な事柄が記載されている。
……というか、本当にただのポーターとしての雇用だ……。
これ、僕でなくても良くないか?
そんな風に思ったのだが、契約書の最後に『辞職は契約者の任意で可能とする』という一言を見つけた。
やっぱやーめた、が可能なのであれば、ちょっとやってみるのもいいかもしれない。
どうせこの国では、僕の本来の職での仕事がないようだし。
そう思い、僕はその書類にサインをした。
* * *
僕がマクナガン公爵邸で働きだして、ひと月が経過した。
……驚く程に、ポーターとしての仕事がない。
本来、ポーターというのは、主が外出する時に伴い馬車の乗り降りの際にステップを設置したりだとか、買い物をした際に重たい荷物を馬車まで運んだりだとか、業者から何かを仕入れた際に運ばれてきた荷物を所定の位置に運んだりだとかが仕事だ。
だがまず、この家の主は殆ど外出をしない。
たまに珍しく外出する時は、グルーデンの悪夢――もとい、執事のトーマス様を伴う。そしてトーマス様によって、護衛となる隠密が数名選出される。大抵、それだけの少人数で出かけるのだ。
馬車のステップは驚いた事に簡易的なものとなっていて、乗り降りする際に梯子のようなものを蹴り落とす方式だった。これは確かに、専用の人手など必要ない。……六歳のお嬢様だけは、何度蹴とばしても梯子が落ちず、トーマス様に「壊れていませんか?」と真顔で訊ねてらしたが。トーマス様に「お嬢様が非力なだけでいらっしゃいます」と言われ、お嬢様は思い切り「解せない」と言いたげな顔をしてらした。
そして蹴り落とせなかったのが余程悔しかったらしく、その梯子を改良し、非力であっても簡単に蹴り落とせるようにしてしまった。
……僕の仕事が、より一層なくなった。
そしてこの家の人々は、大きな買い物をしない。
外へ出て商店などに入っても、それは『物を買う為』ではなく、何が流行っているかの調査であったり、どの商店でどのレベルの品物を扱っているかの調査であったりが主だ。
大きな買い物は基本的に、ご自分たちの領地であるマクナガン公爵領にお願いする。そして公爵領に発注された品物は、発送・梱包の開封・設置まで、業者が完璧にやってくれる。
大きな書架を搬入しにきた家具屋に手伝う事はないかと訊ねたら、「組み立て・設置まで、全部コミコミの充実のサービスが俺らの売りよ。兄ちゃんの手は煩わせねぇよ」と笑われた。
……いや、あんたらがやってくれてんの、ほぼ僕の本来の仕事なんだけど……。むしろ、手伝わせて欲しいんだけど……。
日常的に運ばれてくる食材なんかの荷物は、料理人たちがそれぞれ勝手に所定の位置に片付けてしまう。
僕の仕事……と言ってみたら「木箱運ぶくらい、俺らでも出来らぁな」と言われてしまった。
いや、そりゃそうだろうけど、僕の仕事がないんだよ!!
……この家、ポーター必要ないじゃないか……。何で僕を雇ったんだよ……。
そんなこんなで、ひと月経つ頃には僕は、邸の裏手の雑木林で昼寝をするのが日課になってしまっていた……。
これでちゃんと給金が満額貰える上、僕のこの行動を咎める者すら居ない。……ホント、何だ、この邸……。
しかもこの『邸の裏手の雑木林』というモノがまた厄介且つ謎だらけだ。
貴族の、しかも国でも上から数えた方が断然早いクラスの大貴族の邸宅の敷地内に、鬱蒼とした雑木林があるのだ。『きちんと手入れされた、自然の林を模した庭園』ではない。『ガチで何の手入れもしていない雑木林』だ。……意味が分からない……。
意味が分からなかったのだが、「ヒマなら林ででも遊んでな」と庭師に言われ、足を踏み入れて驚いた。
そこかしこに、多種多様な罠が張り巡らされていたからだ。
ていうかコレ、迂闊なコソ泥みたいな連中なら、確実に死ぬよね!? ……まあ、その手の侵入者に容赦してやる義理はないだろうから、それでいいのかもしれないけど。
慎重に罠を避け、手頃な木の上で持ってきた本を読む。……えらい優雅な昼下がりの過ごし方なんだけど、ホントにこれでいいのかな……? でも僕、何にも仕事ないしな……。
木の上で読書をしたり、うとうとと転寝をしたりしていたら、ある日、隠密の男性に話しかけられた。
「兄ちゃんアレだろ? 死神がナントカカントカでどーたらこーたら……とかいう」
えらい雑な認識だが、まあ言いたい事は何となく分かる。なので頷いた。
すると男性は、楽し気に笑った。
「やっぱスゲェもんなんだなぁ。兄ちゃん、全然罠にかかんねぇもんなぁ!」
……と言われても、そもそもその『罠』も、隠されていたりはしないのだ。起点となる仕掛けは、全部丸見えの状態だ。だからこそ『迂闊な』コソ泥くらいしか引っかからないだろうと思われるのだが。
「まあそうだけどな。……そんでも、これだけ数が多いと、途中で集中が切れたりするモンだ。そういう時に、うっかり踏んじまう事は珍しくない」
まあ、そうかも。
何せ、数歩も歩けば罠がある。良くぞここまで……と、感心してしまう多さだ。
「あんた、知らなそうだから教えとくけど、トーマス様のお部屋に『完全罠マップ』貼ってあるから、一回は目ぇ通しとくといいぜ」
隠密はそんな事を言うと、何処かへと消えた。
……『完全罠マップ』……? 何だ、そりゃ……。
後日、トーマス様の執務室にお邪魔して、その地図を見せてもらった。現在、林の何処にどの様な罠があるのか……が全て記入された、『完全罠マップ』としか言いようのない代物がそこにはあった。
地図の上部には『最新版』と記入されていた。その『最新版』の下には古いバージョンらしき地図があり、その上部には『一番新しい地図』とあった。更に下にあったのは『これが一番新しいバージョン』、『これ以外全部使うな』、『最新完全版』……。ていうか、日付書いておこうよ!? これじゃ、どれが最新か分かんないよ!
まあそんな、危険盛り沢山な雑木林が、僕の日中の居場所となった。
……どうせ仕事なんてないから、誰も僕を呼びにきたりもしないし。
その日も、木の上で本を読んでいた。この本は、お邸の図書室から借りたものだ。
このマクナガン公爵邸という家はとても不思議な家で、通常の貴族家にあるような『ルール』が殆どない。
例えば、僕のような下働きの人間というのは、通常立ち入る事の出来る場所というのが制限されている。……が、この家にはそんなものはない。
まあ流石に、他人の私室に勝手に入ったりは咎められるが。
普通であれば、下働きの者であれば、邸内の階段を上る事すら許されない。そして、公爵ご一家の前に姿を晒す事もほぼない。
そんな頭で居たのだが。
三階建ての公爵邸の中で、僕が立ち入ってはいけない場所というのは、基本的にないそうだ。……とは言え、公爵の私室だとかには用事がないので、立ち入るような事はないが。
勤め始めて暫くした頃、廊下を歩いていたら洗濯メイドに「手が空いてるなら、これ、二階のバンケットまで運んでもらえますか?」と言われ、えらく驚いたものだ。
服装からして、僕が下働きである事など、彼女にも簡単に分かるだろうに……と。
戸惑いつつも「頼まれたしな……」と荷物を運ぶと、そこに居た侍女に普通に「ご苦労様です」と言われ、更に戸惑った。
そんな家なので、図書室も普通に使用人たちに開放されている。
更に、手の空いている使用人がローテーションを組んで『図書係』なるものをやっている。それは何かというと、通常の図書館の司書のような仕事だ。
貸し出しの手続きを取ってくれたり、探している本があれば場所を教えてくれたりする。
本来の業務とは全く関係ない仕事なのだが、図書係の人々は無類の本好きばかりだそうで、休日になるといそいそと図書室へ向かうのだ。
そして貸出の返却期限を延滞すると、悪魔のような執拗で陰湿な取り立てがやってくる。そこに身分の上下など存在しない。……とことん、不思議な家だ。
うららかな陽気の昼下がり、木の上で借りた本を読む。
何だろうか、この優雅な日常は。
これで給金が貰えている事が、逆に恐ろしい気がする。……後で何か、手痛いしっぺ返しがくるのではないだろうか。
しかしやる事が全くないのも事実なので、その日も仕方なしに読書をしていたのだ。
その僕を、誰かが呼んだ。
……多分、僕を呼んだんだと思う。「ナントカカントカのどーたらの死神~!」とか言ってたけど……。
何だろうかと木から降りると、そこにはお邸のお嬢様を連れ立った馬丁が居た。
……この馬丁も謎なんだよなぁ……。多分、見た目通りの人物ではない。見た目はどこにでも居そうな、笑顔が人懐こい青年だが。外見にこれといった特徴がない。無さ過ぎる。そこが逆に不自然だ。
初日に顔を合わせ挨拶した僕をじっと見て、「ふぅん」とだけ言って意味ありげに笑っていた。
掴み所がなくて、何だか良く分からない。
そしてその横にちょこんと立つお嬢様。
今年で六歳というお嬢様は、ちょっと驚くくらいに可愛らしい見目をしている。この風変わりなお邸のお嬢様だけあって、何だかちょっと変わった人物らしいが、僕のような下働きがお嬢様と口を利く事などないので良く分からない。
王太子殿下の婚約者だそうで、つまりは未来の王妃だ。
そんなやんごとなき方が、こんな雑木林に何の用だ……? ……いや、そもそも、この雑木林の持ち主の娘か……。ホントに、何だ、この家……。
「僕に何か……」
用事でもあるのだろうか。
(変わり者とはいえ)大貴族のお嬢様が、下働きの僕に? ……でもお嬢様の隣に居るのも、僕と同じ下働きの馬丁だな……。
何を言われるのだろうかとじっと待っていると、お嬢様が僕を見て軽く首を傾げた。淡い色合いの髪がふわっと舞って、本当に可愛らしい。
「貴方が、えぇ~と……、……何だっけ?」
隣の馬丁を見上げ訊ねたお嬢様に、馬丁が「白きナントカのどーたらっすね」と答えている。頭の『白き』しか合っていないが、お嬢様は納得されたように頷いた。
「白き、えっと……、白き……五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末・雲来末・風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の死神ですね」
全然違う!!
頭の『白き』と最後の『死神』しか合ってないよ!! しかも長いよ!! 思わず全部聞いちゃったけど、意味分かんないよ!!
「お嬢、多分何か違うと思うっすよ」
「気のせいじゃない? 大体そんな感じじゃない?」
「いや~……、多分違うっすねぇ……」
首を傾げている馬丁に、お嬢様は何だか不満そうな顔をしている。……ていうか、『大体そんな感じ』って、雑にも程がないか……?
「そう言うならじゃあ、ディーはちゃんと覚えてるの!?」
「んなワケねーすわ。覚えらんねぇし、そもそも覚える気もないんで」
「じゃあ、まだ『何か長い名前だった』っていう手がかりから、長い名前をくっ付けてみた私の方が上じゃない?」
「……お嬢の『上下』の基準が分かんねーっすね……」
そんな会話をすると、お嬢様はまた僕を見た。
「で、えっと、白き白き五劫のすりきれ、海砂利水魚の――」
「全然違います!」
思わずお嬢様の言葉を遮って言ってしまった。
「僕の名前は『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』です!」
……僕が名乗っている途中から、馬丁は思い切り俯いてプルプル震えているし、お嬢様も軽く俯いて顔を両手で覆っている。
何だって言うんだよ。
「……ディー……、笑っちゃ失礼よ……」
「お嬢こそ。……つうかコレ、何でトーマス様は真顔でやり取り出来んすかね……」
かすかに震える声で言うお嬢様に、馬丁もやはりプルプルと震えつつ言い返す。
ていうか、二人とも笑ってたの!? 何で!? 何処に笑う要素があるんだよ!!
プルプルしていた二人は、暫くすると「はー……」などと深い息を吐きつつ顔を上げた。
「ヤベェ……。これ、想像以上にツボる……」
「どっちかって言うと、笑いよりも、痛さが凄いわ……。全身複雑骨折級だわ……」
そんな事を言い合うと、お嬢様がまた小さく息を吐きつつ僕を見てきた。
「一つ訊きたいんだけど……、その素敵な名前は、誰が付けてくれたの?」
「僕が、自分で」
「自分……で……」
驚いたような呆れたような、何とも言えない表情で僕を見るお嬢様に、それでも僕は頷いた。馬丁が小さな声で「痛い痛い痛い……」と呪文のように呟いているが、何が痛いのだろうか。腹か何かの具合でも悪いのだろうか。
「えーと……、白き……(間)……死神?」
「はい」
もうそれでいいや。ポンポコピーだか何だかよりは、断然オリジナルに近いし。
「貴方に一つ、言っておきたい事があるわ」
「俺、五個くらいあるわ」
「とりあえず、ディーは黙ってて。まず私から」
「ウィス」
お嬢様は僕を真っ直ぐに見ると、ビシィッと僕を指さした。
「まず、『二つ名』とは、自分で付けるものではない!!」
「えぇッ!? そうなんですか!?」
知らなかった!!
……馬丁が思い切り呆れたように「そっからかよ……」と呟いているが。そんな事、誰も教えてくれなかったし!
「トーマスはとある場所では『グルーデンの悪夢』なんて呼ばれてたらしいけど、それはトーマスが自分で付けて名乗った訳じゃないわ」
「つうかフツー、自分で名乗ろうなんて思わねーすよね……」
「普通の神経なら、そうだと思うわね」
お嬢様は頷くと、僕を見て軽く首を傾げた。
「貴方は人から、何と呼ばれていた?」
「……『白き死神』、です」
僕としては、その『白き』と『死神』の間こそが重要なのだが。……まあ、その二つが覚え易い理由は分かるけれど。
僕はちょっと珍しい、真っ白な頭髪なのだ。これは生まれつきだ。そして肌の色も白い。「全身真っ白で、幽霊みたい」などと言われる事も珍しくない。
そして僕の仕事であった「暗殺」。そこから死神を連想するのは容易い。
その分かり易い特徴二つをくっ付けただけの、捻りがなくてつまらない名だ。
出だしを『白き』にしなければ良かったのだろうか。でも今更変えるのもな……。
でも、二つ名を自分で付けるのでなければ、皆どういう経緯からその名を名乗る事になるのだろうか。
「大体『二つ名』なんてモンは、誰かが勝手に言い出して、それが勝手に広まるんだよ」
馬丁に呆れたように言われてしまった。
そういうものなのか……。確かに、トーマス様の『グルーデンの悪夢』というのは、誰ともなくそう言い出したという話だけれど。
「そういう風に付けられた二つ名には大抵、畏怖や侮蔑が込められているものなのだけれどね」
お嬢様は「ふー……」と何やら大きく息を吐くと、僕の足元の地面を指さした。
「まずは座りましょうか」
お嬢様の指示に従い、地面に『セイザ』なる座り方をさせられた。……ていうかこの座り方、物凄く足が痛いんだけど……。
お嬢様曰く「遠方の国に伝わる、由緒正しい『説教を食らう時の姿勢』」らしいが。……僕、これから何か説教されるの……?
そしてお嬢様はというと、僕の正面に同じ姿勢で座っている。一応、馬丁が地面に上着を敷いてやっていたけれど、お嬢様も足痛くなるんじゃないかな……?
「まずは、いい? 白き白き五劫のすりきれ……」
「あの、もう『白き』か『死神』かで大丈夫です」
またあの良く分からない長い名前を聞かされるかと思うと、短縮されまくった一言の方がマシに思えてくる。
「今、妥協したでしょう? それは何故?」
何だかやけに座った目で僕を見据えるお嬢様に、何とお答えしたものかと迷ってしまう。
正直に言ってしまって大丈夫なのだろうか。不敬だとか何だとかで、気分を害されるのではないだろうか。
そんな風に考えている僕に、お嬢様の隣に腰を下ろした馬丁が呆れたように言った。
「思ってる事、正直に言って大丈夫だよ。この家の解雇理由に『主に対する不敬』ってのは存在しねーから」
そうなの!?
ていうか、この馬丁の座り方も酷いな! お嬢様のすぐ隣に座ってるのもアレだけど、片膝を立てて、もう片足は前方に投げ出すようにして……って、大分カジュアルだな!
……でもあの姿勢は、すぐに立ち上がって動く事が出来る。この馬丁、やっぱり只者じゃなさそうだ。
しかし、思った事を正直に……か。……言ってみるか……? そうすればあの、良く分からない呪文みたいな長い名前を聞かなくて済むかもしれないし。
「……妥協した理由は単に、お嬢様の口にされるふざけた呪文みたいな名前を聞くのが面倒だったので……」
正直に言いつつ、「正直過ぎたか……?」と少々不安になってしまった。
けれどお嬢様は全く気分を害された風もなく、僕の言葉に「それよ!!」と頷いた。
「……どれです?」
「私たちからしても、貴方のそのふざけた長い二つ名を最後まで聞くのは、色んな意味で苦痛なのよ!」
「そんな!!」
馬鹿な……!!
「マジで『色んな意味で』キっツいすね……」
「フォーマルな場でやられたら、色んな意味で死ねるわね……」
「つか、俺らよりアイツの方が先に、社会的な死を迎えるんじゃねーすかね」
二人はそんな事を言い合っているが、良く意味が分からない。まず『色んな意味で』がどういう意味なのか。
「そもそも何故、二つ名なんてものを名乗ろうと思ったの?」
「理由は……、……本名を、名乗らずに済むので……」
あと、カッコいいと思ったからだが。
僕の答えに、お嬢様は軽く首を傾げた。
「本名がダメなのだとしたら、ジョンだとかスミスだとかの偽名じゃダメだったの?」
そのどちらも、この国で恐らく最も多いであろう名前だ。きっと『ジョン・スミス』という人物は、一時間も探せば数人は見つかる。当然、本名だ。なので逆に、偽名としても良く使われる。
確かに、偽名という手も考えた。けれど……。
「……カッコいい名前の方が、モチベーションを保てるので……」
「だったら何故、カッコいい名前を付けないのよ!!」
「いや、めっちゃカッコいいですよね!?」
僕の言葉に食い気味に言ってきたお嬢様に、僕も思わず食い気味に返してしまった。
『白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神』
カッコいいではないか。何かこう……、黒い羽とか生えてそうなイメージで。僕にも良く分からないけれど。
「えー……と、ごめんなさい。もう一回、貴方の素敵な二つ名を聞かせてもらえるかしら?」
お嬢様はその辺の木切れを拾い上げつつそう言った。なので僕は、カッコいい二つ名をゆっくりと名乗った。お嬢様は手に持った木切れで、僕の二つ名を地面にガリガリと刻んでいく。
「……幻想小説に出てくる、魔法の呪文みたいだわ……」
「呪文なんだとしたら、もーちょい文章として意味が通るようになってんじゃねーすかね?」
「……そうかも。詠唱したら、何か召喚出来るかしら」
「そこに居る死神が『何ですか?』とかって来るだけじゃねーすか」
「それもそうね……」
そんな会話をしてから、お嬢様は「さて……」と呟くように言うと僕を見てきた。
「まず聞きたいんだけど、この『白き闇より出でし』は、何にかかっている言葉なの? このすぐ後の『無限の業火』? それとも最後の『死神』?」
「え!?」
何にかかっているか……。……そんなの、考えた事もないけど……。
何と答えようかと考える僕に、お嬢様が溜息をついた。
「もしかしなくても、考えてないのね?」
「……はい」
頷きつつ、僕は何だか少しだけ、居た堪れないような気持ちになっていた。
言われてみたら確かにそうだ。
長い名前がカッコいい、という理由で、好きな言葉を並べてみた名前なのだけれど、改めてよく見ると文章として意味が通っていない。
そうか……。だから覚え辛かったのか……。
「そもそも、よ」
お嬢様は手に持った木切れで、地面に書かれた僕の名前をトントンと叩くように指した。
「長すぎるとは思わなかったの?」
言えない。これでも大分削った方だなんて……。考え始めた頃は、この三倍くらいの長さだったなんて……。
「覚えられる、られない以前に、この長さの名前を常に呼べと? 崩落しそうな建物から脱出……みたいな緊迫した場面で、『早く逃げるんだ! 白き闇より出でし無限の業火に抱かれ永遠の牢獄回廊にて見える事なき極光を夢見る堕天の死神!!』って? どんなギャグよ……」
「コメディだったら、名前呼んでる途中で生き埋めになるパターンのヤツっすね」
「そうよね」
……容易にその場面が頭に浮かぶ。
呼んでいる最中に僕の上に瓦礫が降ってきて、観客は大笑いだろう。
大笑いとか!! そうじゃない!! 僕は笑いが欲しくてこの名前を考えたんじゃない!!
「それにね、貴方は多分これらの単語を『カッコいいから』重ねていったんでしょうけどね……」
お嬢様はまた「ふー……」と溜息をついた。
「美味しい物は一つ二つなら美味しいけれど、それを全部混ぜたら胸やけするばっかりで美味しくも何ともないのよ!」
持っていた木切れでビシィっと僕を指すお嬢様。
「例えば、ステーキにグレイビーソースは美味しいわよね?」
「はい」
「コンソメスープも美味しいわね?」
「はい」
「合体!!」
は!? え、何!?
「美味しいコンソメスープに、美味しいステーキを入れちゃいます。更に、美味しいパンも入れちゃいます。スコーンもマフィンも美味しいから入れちゃいます。お魚のグリルも美味しいから入れちゃいましょう。ハムもサラダも卵もフルーツも、美味しいから全部入れちゃいます。……さ、召し上がれ」
言いながら、僕に皿を差し出すような仕草をするお嬢様。
ていうか、今言ったの全部混ぜたら、とてもじゃないけど食べられない物に仕上がるんじゃ……。
「貴方の名前はそういう感じなのよ。要素が多すぎて、胸やけがするの」
「……お嬢がさっき言った料理、既に『胸やけがする』レベル超えてますけどね……」
「生クリームで味を調えましょう」
「……だから、そういうレベルを遥かに超えてんすよ……」
そんな事を言い合う二人を、僕は愕然として見ていた。
要素が、多すぎる……。
言われてみたら、確かにそうなのかもしれない。
僕のこのカッコいい名前はちょっと長いせいか、誰もきちんと呼んでくれない。というか、きちんと覚えられてすらいない。
それは長いせいだけでなく、要素が多すぎたせいもあったのか……。
何と勉強になる……。
「あと大事な事なのだけれど……」
いかにも重大な事であるかのような、重い口調でお嬢様が言う。
「『闇』だとか『堕天』だとかに魂を売るのは、十代前半までに済ませておきなさい」
「何故……」
それらカッコいい要素をカッコいいと思うのに、年齢は関係ないのでは……。
「貴方はいいかもしれないけど、周りの人間がツラいからよ!」
「何故!?」
より意味が分からない!
恐らく僕は、困惑を前面に出した表情をしていたのだろう。
お嬢様は暫く僕をじっと見ていたが、ややして溜息をつきながら立ち上がった。僕もそれに倣って立とうとしたのだけれど、足が……、感覚がない……だと……!?
立ち上がれないよ! 何でお嬢様、そう平然としてられるの!?
え!? あ、うわ!! 足が痺れる!! 動けない!!
「貴方は多分、情緒がまだ未発達なのね」
座り込んだまま悶絶する僕を見下ろし、お嬢様はそんな事を言った。それに隣の馬丁も頷く。
「今まで、他人と関わって生きてこなかったんだから、まあしょーがねえんだろうけど」
地面に敷いていた上着を取り上げ羽織る馬丁の隣で、お嬢様はスカートに付いてしまった葉っぱを払っている。
「ここに居る以上、『誰とも関わらずに生きていく』なんて、不可能だものね」
「お節介、多いすからね、ここんち」
「職場の人間関係が円満であるのは、すごく良い事じゃないのよ」
「まあ、そっすね。『良し悪し』でもありますけどね」
「それは捉える側の問題よ」
「仰る通りで」
お嬢様は座ったまま動けない僕を見て、ふふっと小さく笑った。
「これからが楽しみね。貴方が一体、どういう風に変わるのか」
そして、思い出したように付け加えた。
「貴方の事は、何て呼んだらいいのかしら? 白き白き五劫のすりきれ海砂利水魚の水行――」
「セザールと!」
ついペロッと本名を言ってしまった。
でもお嬢様のあの名前、長い上に意味分かんなくてなぁ……。
「そう。セザールという名なのね」
「ル・ルー辺りの出身すかね」
そう言う馬丁に、ちょっと感心する。正解だ。……だから名前は、名乗りたくないんだ。これ一つに含まれる情報が多すぎる。
「では貴方の事はこれから、『白き死神』と呼ぶわ!」
「名前を聞いた意味は!?」
これじゃあ僕、ただ不用意に本名晒したバカみたいじゃないか!
「一応、聞いておこうかしらと思っただけよ」
……思っただけ、って……。じゃあ、聞かないでくださいよ……。
お嬢様と馬丁は、「それじゃあね」と僕に手を振ると、その場を去っていった。
去り際に馬丁が、僕の爪先を軽く蹴とばした。爪先から膝にかけて、まるで雷に撃たれたかのように痺れが走り、僕は暫くその場で一人で悶絶するのだった。
そして僕はその後、お嬢様の言っていた『情緒が未発達』という言葉の意味を知る事になる。




