親愛なる、私の友人。
エミリアさんのお話。
時間軸としては、殿下とエリィが新王として即位する、という日と、その数日後です。
お天気の良い昼下がり。
午前中はどんよりと重たい空模様だったのだけれど、初夏らしい爽やかな風が雲を払い、昼前にはすっきりと気持ちの良い青空に変わっていた。
空には午前の真っ黒な雲と違った、白いふわふわの綿のような雲がちらほら。
なんて気持ちの良い日なんだろう。
そんな風に思いながら、私は午前中は締め切っていた窓を開け、椅子に座って本を読んでいた。
私の膝の上には、愛猫のスティーブが居る。この子は家の近くの路地裏で拾ってきた子だ。まだ子猫だったスティーブは、路地裏でカラスに虐められ弱々しく鳴いていたのだ。
傷だらけで所々毛もむしられ、痛々しい姿だった。
けれど私は、助けられる命は見捨てない事を是とする『医師』だ。この子猫だって、助けてみせる! そう思い、夫と二人で代わる代わる面倒を見た。
スティーブは後足を片方引き摺るような歩き方にはなったが、元気いっぱいに育ってくれた。……ただ、幼い頃の経験から、外を怖がる臆病な甘えん坊になったけれど。
心地よい風が窓から時折吹き込み、外からは人々の喧騒が聞こえる。
平和でのんびりとした昼下がりだ。
そののんびりとした昼下がりの街中に、突然大聖堂の鐘の音が響いた。
カラーン、カラーンと鳴る大聖堂の鐘に合わせ、一つ、また一つと別の鐘の音が重なっていく。
王都にある大聖堂から小さな寺院まで、全ての『鐘』という設備を持つ施設が、一斉にそれを鳴らしている。
スティーブは初めて聞く大音量に驚いて、ぴゃっと飛び上がると、私の膝から一目散に戸棚の下へと逃げていった。
外からは、その大音量の鐘の音に負けない、人々の歓声。
この鐘の音も、人々の歓声も、新王の即位を祝うものだ。
私は視線を窓の外へと移した。ここからでは距離はあるが、王城の尖塔が見える。
この祝福が、届いていますか?
皆が、お二人を祝福していますよ。
……聞こえますか? エリザベス様。
* * *
「かなりイケたわね」
右手の親指と人差し指で輪っかを作りながら言うマリーに、私は思わず「その手はやめなさい」と言ってしまった。
マリーは「ゴメン、ゴメン」と軽く謝ると、お茶を一口飲んだ。
「ていうか、思ってた以上に殿下とエリザベス様の人気、すごいね! 即位記念グッズ、出せば出すだけ売れるんだもん!」
「マリー、『殿下』じゃないわ。『陛下』よ」
「あ、そっか。ゴメン」
……ものすごく軽く謝るけど、貴女それ、公の場でやったら結構な大事になるんじゃないの……? 私と違って貴族なのだし……。
下町の借家である我が家のリビングで、のんびりと寛いだ様子でお茶を飲む彼女は、私の学生時代からの友人だ。
私の出した『庶民御用達』みたいな安いお茶にも、文句の一つも言わずにごくごく飲んでいる。
……ていうかマリー、『ごくごく飲む』のは、やめた方がいいんじゃないかしら……。どうしてこの子、いつまで経っても貴族っぽくならないのかしら……。
先日の、王都を揺らす程の大音量の鐘の音は、王の譲位を報せ、祝福するものだった。
その新王となられたレオナルド陛下も、学生時代に同じ教室で学んだ方だ。……『学友』などと呼べるような、気安い間柄の方ではないけれど。
そしてそのお妃様である王妃エリザベス陛下は、私の大切な友人だ。
今の私があるのは、エリザベス様の存在に因るものも大きい。とてもとても、大切な友人なのだ。
そして今目の前で「このナッツ、すんごい美味しいね!」と言いながら、器に盛ったナッツを次々に口に放り込んでいるマリーも、掛け替えのない友人である。
私とマリーとエリザベス様。
三人とも、それぞれ立場などは違えど、同じ学校に通い、仲良くなれた。
今思い返すと、夢のような日々だ。
王都の下町で生まれた私と、伯爵家の御令嬢のマリーと、公爵家の御令嬢で王太子殿下の御婚約者のエリザベス様と。
同じ場所で、同じ目線で、そこに居た。
「とうとう、エリザベス様も『陛下』になられたのねぇ……」
元から遠い世界の方ではあったけれど、こうなると本当に『別世界』の方だ。
「マリーは式典に参加したんでしょう? どうだった?」
先日の譲位の式典に、貴族であるマリーは参加していた筈だ。
何と言ってもマリーは、現在『フローライト伯爵』なのだから。
器のナッツを一人で完食した伯爵様は、今度は別の器の砂糖菓子に手を伸ばしている。……やっぱり、もうちょっと小出しにするんだったかしら。この子、あればあるだけ食べるクセ、直ってないのね……。
マリーは砂糖菓子を取る手を止めると、私を見て真剣な顔をした。
な、何かしら……。何かそんな、深刻な出来事があったのかしら……。
「二時間、目の前のおじさんの後頭部を見つめ続けたわ!」
え……、えぇ~~……。
何を言うかと思えば、そんな事……。
「ああいう式典とかって、序列の順に席が決まるのよ。で、招待されるのって大抵、伯爵以上の爵位が必要だったりするのね」
「マリーは伯爵様だから、特に問題ないでしょ?」
「それはそうだけど。……考えてみてよ」
マリーはまたお茶を一口飲むと、砂糖菓子を口にぽいっと放り込んだ。……だからマリー、その食べ方はどうなの……。
「私、『伯爵』になって、まだ十年ちょっとよ? つまり、ウチが一番、『伯爵』って爵位の中じゃ序列が低いのよ」
「ああ……」
マリーのお家は確か、マリーが学院に入学する直前くらいに子爵から伯爵へと陞爵した。確かに、今のベルクレイン王家樹立からの伯爵家なんかとは、比べ物にならないくらいに歴史が浅い。浅いというより、『無い』。
「でもマリーのお家、今じゃ王都でも有数の大商会じゃない。そういうので序列が上がったりしないの?」
「するよ。来年」
「ああ……。タイミングの問題だったのね……」
「そうなのよ」
マリーは頷くと、また砂糖菓子を口に放り込んだ。
……この子、『太る』とか、そういう事を考えたりしないのかしら……。いいわね、ぽいぽいお菓子を食べられて……。私なんて最近、食べた分だけお肉になるようになっちゃったっていうのに……。
「ウチの序列がめっちゃ低いから、私の席も広間の隅っこの方だったのよ。……で、私の目の前のおじさんがまた、すんごく背が高くて恰幅のいい人でねー」
「……で、二時間、そのおじさんを見つめ続けてた……と」
「そーゆー事」
うむ、と頷くマリーに、私は思わず溜息をついてしまった。
エリザベス様の一生に一度の晴れ舞台、どんな感じだったのかマリーに訊こうと思ってたのに……。
「でもね、エミリア! 目の前のおじさんのおかげで、一つ閃いたのよ!」
キラキラと輝く瞳で、マリーがこちらに向かって身を乗り出してくる。
「何を?」
訊ねた私に、マリーはキラッキラの目で満面の笑みを浮かべた。
「ナチュラルなカツラには、無限の可能性があるって事よ!!」
この子は……、何を言っているのかしら……。
「サイドの髪に無理をさせるより、こう『被ってる感』の少ない自然なカツラなら、紳士の皆様も抵抗なく着用出来るんじゃないかな、って! 『毛の生えた帽子』みたいなのじゃなくて、もっと自然な感じの」
「あ、そ、そう……」
「そうよ! 毛生え薬は無理だけど、カツラなら作れるもんね! ポールくんも『いいかも』って言ってくれたし!」
……つまり、目の前に居たおじさんは、『サイドの髪に無理をさせた』髪型で、カツラが必要なくらい頭髪がアレな方だったのね……。
……ていうか、何の話を聞かされてるのかしら、私……。
エリザベス様の式典でのご様子が聞きたかっただけなのに……。
その後暫く、マリーの『ナチュラルなカツラに必要なものとは』という講義を聞かされた。
「……で、エリザベス様はお元気でいらっしゃるのね?」
マリーのカツラ談義が一段落したのを見計らって訊ねると、マリーはお茶を飲みつつ頷いた。
「お元気そうよ。私も最近はお会いしてないから、ポールくんに聞いた話ばっかりになるけど」
「そう。お元気でいらっしゃるなら、それでいいわ」
「多分、大丈夫よー」
マリーはのんびりとした口調で言うと、その後何故か表情を曇らせ溜息をついた。
「マリー?」
「お元気なんだと思うわ……。この間ポールくんが、ちょっと力入れただけで粉になる、味のないクッキーっぽい『何か』を、陛下から貰って帰ってきてたから……」
「ああ……」
エリザベス様……、お変わりなく……。
「……今回は、『粉』なのね……」
「粉だったわ……。無味無臭の粉だったわ……」
「もうそれ、ただの小麦粉なんじゃないかしら……?」
「可能性は否めないわね……。摘まもうとしただけで粉になったもの」
「……すごく儚いお菓子ね……」
「うん。幻想的だよね……、色んな意味で」
互いに溜息をつき合い、それから顔を見合わせ笑ってしまった。
いつか。
ここにエリザベス様も交えて、学生の頃のように三人でお茶が出来るといい。
そんな風に思った。
そして。
もしもそういう機会が巡ってきたとしても、エリザベス様には「手土産等は不要」とお伝えしよう、と強く思うのだった。




