26 幸せな王女様
幼い頃、兄が怖かった。
決して私や妹に向けて、声を荒げたり、手を上げたりするような人ではない。むしろいつも微笑んで、優しく頭を撫でてくれたりするような人だ。
けれど、とても怖かった。
妹のわたくしの目から見ても美しい兄は、『感情』というものをどこかに置き忘れてきたような人だった。
なまじ容貌が整っているだけに、兄は良く出来た人形のようにしか見えなかった。
「エリィに会う時間がない」
目の前で、不機嫌を隠そうともせず、眉間に皺まで寄せながら言うお兄様に、思わず笑ってしまう。
「わたくしは明日、公爵家を訪れますから、なにかご伝言でもされますか?」
「……いや、いい。……楽しんでくるといい」
お兄様がなにやら遠い目でそう仰います。
楽しんできますとも。
わたくしだって、エリィと会うのは久しぶりなのですからね。
お兄様はエリィと出会って、随分と変わられた。
それは当然、良い方への変化で。
* * *
わたくしたちは王族です。
父が国王で、母は王妃です。
わたくしたちの生活は、国民より徴収した税で賄われています。だから、無駄遣いはできません。
民によって生かされているのだから、民の為に生きよ。
そう教えられて育てられました。
とはいえ、幼子のわたくしに、それらを理解するのはとても難しく。
わたくしはとても無邪気で、天真爛漫な少女でした。
お勉強はキライ。それより、お人形で遊びたい。
ご本もキライ。キラキラした絵本なら好き。
お行儀の練習もキライ。かけっこして遊びたい。
お野菜もキライ。ニガくておいしくないから。
あれもキライ、これもキライ……。
子供特有の我儘でしょう。乳母も侍女も、強く咎める事はありませんでした。両親も注意はするものの、強くは言いません。
ですので、『何となくダメな事』という程度の認識でした。
ですが、兄は違いました。
お兄様が何かを『嫌い』だとか『イヤ』だとか言うところを知りませんでした。
……逆に、何かを『好き』だと言うところも知りませんでしたが。
民に生かされているのだから、民の為に。
わたくしの三歳年長であるだけの子供でしかないというのに、兄はそれを理解していました。
勉学はいずれ己の血肉となる。疎かにすべきではない。
本は知識を与えてくれる。それに知らなかった事を知り、世界が広がる。
マナーは対人関係において、相手を不快にさせない大事な約束事。
野菜は身体を成長させる為に必要なもの。そして、それらを育て、運び、調理した者たちへの感謝を。
そう言われても、わたくしには難しくて良く分かりませんでした。
兄はけれどそれらを、わたくしに押し付けません。
そんな事言われても難しくて分かりません、と言うと、ただ一言「そうか」とだけ言います。
責める事もなく、怒る事もなく。
そして、落胆などもなく。
常に同じ熱量をしか持たない兄を、いつ頃からか『怖い』と思うようになりました。
怒っていいのに、と。
何故そうまで、淡々と居られるのか、と。
その兄が、婚約者を定めました。
お相手は、わたくしより一つ年下の女の子。
わたくしは、その子に少し同情しました。
お兄様のお相手は、きっと張り合いがなくてつまらないでしょうから。
何をしても、怒りもしない、喜びもしない。
そんな人を相手にしなければならないその子は、きっと大変だろうな、と。
兄の外見に、肩書に、権力に群がる人は、沢山います。けれど彼らも、そう長続きしません。何故なら、渦中の兄が何の反応も示さないからです。
まるで『相手をするだけ無駄』とでも言うように。
いえ、きっとそう思っていたのでしょう。……今も思っているでしょうが。
相手の女の子は、可哀想。
憧れる者も居る『王妃』という座は、無責任に憧れられるほど軽いものではない。……まあ、それを理解しないからこそ、憧れたりするのでしょうけれど。
兄がいずれ背負う『国』という重荷を、共に支え合い、分かち合わなければならないのです。
相手の子は、いつまでもつのかしら。
お兄様と、少しでも上手くいってくれるかしら。
そんな風に、考えていました。
わたくしの考えをよそに、兄と婚約者の方は、順調に交際されていました。
お相手は、エリザベス・マクナガン公爵令嬢。……わたくしは恥ずかしながら、マクナガン公爵家を良く存じ上げておりませんでした。
爵位の順列くらい分かります。
『公爵』は、王族に次ぐ地位だという事くらいは。
けれど、『マクナガン公爵』という方を存じません。
「あの家は、変わっているからな……」
お父様はそう仰いました。
「マクナガン公爵家は、あれで良いのです」
お母様はそう仰います。
良く分かりませんが、お父様もお母様も、マクナガン公爵家に対して負の感情はお持ちでないようです。
マクナガン公爵をわたくしが知らないのは、かの方が滅多に王城に姿を現さないからだそうです。
公爵家という家の人々は、殆どの方が城の要職に就かれています。
マクナガン公爵家は城へ出仕しない代わりに、広大な土地を治め、どの公爵家よりも多額の税を国に納めているそうです。
それは、代々の公爵がそうだったらしく、今代の公爵も変わりありません。
なので彼らは、『どうしても城へ出向かねばならない用事』がない限り、王城へはやって来ないのだそうです。
マクナガン公爵家が広大な領地を持つ背景には、領地経営の才のあるかの家に、王家所有の管理の難しい土地などをどんどん下げ渡し、どうにか利益の出せる土地にしてもらった……などの経緯もあるそうで。
余り王家からかの家に無理は言えない立場のようです。けれどマクナガン公爵家は、それを盾にこちらに無理を言う事も決してないそうです。
ただ己に課せられた責を淡々と、粛々と、とても誠実に実行していく人々だそうです。
しかし政治に全く参加しないので、マクナガン公爵家は侮られてもいるそうです。
「だが、その気にさえなれば、かの家は国を乗っ取る事も出来ようよ」
お父様はそう仰いました。
何だか恐ろしいお話ですが、お父様もお母様も口を揃えて「まあ、あり得ない事だけれど」とお笑いになりました。
お話を聞いて、わたくしの中の『マクナガン公爵家』の印象が、良く分からないものになってしまいました。
お兄様が婚約を結ばれてから約一年後、大々的なお披露目の宴が催されました。
わたくしはそこで初めて、エリザベス・マクナガン公爵令嬢とお会いしました。……それまで、お兄様が会わせてくださらなかったのです。
何でも、お話が流れる可能性もあったらしく、その上、かの公爵家は王族との接触を好まないから……だそうですが。
エリザベス様は、とてもお可愛らしい女の子でした。
わたくしも周りからは『お可愛らしい姫君』と言われます。その言葉に、ほんの少しだけいい気になっていた事も認めます。
そのわたくしより、数倍可愛らしい少女です。
ふわふわの金の髪が光に透けてキラキラしています。肌は真っ白で、お人形さんのようです。目はくりくりと大きく、とても澄んだ明るい若葉のような色。唇はふっくら薄紅色。
お人形のように可愛らしい少女ですが、その目がキラキラと意思を持っていて、生き生きと見えます。
「エリィ、妹のリナリアだ」
「リナリア王女殿下、拝謁できまして、光栄至極にございます。エリザベス・マクナガンと申します」
わたくしより一つだけ年下にしては、身体の小さい少女です。けれどその少女が、とても綺麗なカーテシーをして、はっきりとした声音で挨拶をしてくれました。
「リナリアです。……初めまして」
わたくしは自分の拙いにも程がある挨拶を、少しだけ恥ずかしく思いました。
エリザベス様はお兄様にエスコートされ、ソファにゆっくり座ります。
その仕草すら、わたくしとは比べ物にならない優雅さです。
それもその筈です。わたくしは『マナーの練習がキライ』なのですから。
ああ、お兄様はわたくしがそう言った時、何と仰っていたかしら?
確か、そう『マナーは対人関係において、相手を不快にさせない大事な約束事』でしたわ。
わたくしの全然なっていない仕草や言葉に、エリザベス様は不快になってないかしら?
そんな風に思い、兄の言葉が身に沁みました。
お兄様とエリザベス様が隣り合って座り、わたくしはその向かいに座りました。
どうやらエリザベス様は、緊張されているようです。その彼女の小さな手を、お兄様がぎゅっと握ります。
「大丈夫だよ、エリィ。何も心配いらない」
彼女を見て微笑むお兄様に、エリザベス様も微笑んで頷きます。
あら? と。
見慣れた兄です。『朝食は家族揃って』が両親の願いなので、わたくしたちは毎朝共に食卓につきます。今朝も見たお兄様です。
けれど。
彼女に対してだけ、『いつものお兄様』じゃないわ。
どこが?と問われても、わたくしにも答えは良く分かりませんけれど。
それに、兄が彼女を愛称で呼んでいるのにも驚きました。両親はわたくしを『リーナ』と、そして下の妹のマリーローズを『ローズ』と呼んでくれます。けれど兄だけは『リナリア』『マリーローズ』と、決して愛称などで呼ばないのです。
何故、と問うたら、「それがお前たちの名だろう?」と、逆に問われた事が不思議でならないという口調で返されました。
まあ、それはそうなのですけれども……。
何だかとても、寂しく感じたものです。
「お兄様は『エリィ』と呼ばれているのですよね? わたくしもそう呼んでも構いませんか?」
「どうぞ、ご随意に」
微笑むエリィの隣で、お兄様が少しだけ苦そうなお顔をされていました。
今思えばあれは、嫉妬ですかしら? ご自分だけが、エリィと呼びたかったのかしら?
小さなお兄様、お可愛らしいですね。
私はそこで、自分のマナーがなっていない事をエリィに詫びました。エリィは「私は気にしませんので大丈夫でございます」と微笑んでくれました。
「リナリア殿下は、マナーが苦手でいらっしゃいますか?」
微笑んで尋ねられ、わたくしは素直に頷きました。
理由を問われたので、「授業がつまらないから」「それが必要な意味が、良く分からないから」と答えました。
「そうですね……。たとえばですけれど、追いかけっこをしたとします。ルールは御存じですか?」
追いかけっこ……って、あれですわよね? 一人が追いかける側で、他の子は逃げる側で。捕まったら、逃げる側と追う側が交代する……。
従兄弟のヘニー兄様や妹と、時々お庭でそういう遊びをします。だから知っていました。
「リナリア殿下が追いかけっこをしていたとします。リナリア様が追いかける側で、ある子を捕まえたとします。本当でしたら、その子が追いかける側になり、リナリア様は逃げる側になりますね?」
「そうね」
「でもその子がこう言ったら、どう思われますか? 『私はそんなルールは知らない。追いかける側は面白くないからやりたくない。だからやらない』」
折角捕まえたのに、そんな事を言われたのでは……。
「遊びに、ならないし……、面白くないと思います」
「追いかけっこのルールも、行儀作法も同じ事です。つまり、『その場に居る為に必要なルール』です」
良く分からなくて、首を傾げてしまいました。
それにもエリィは気を悪くした風もなく、優しく微笑んでくれました。
「マナーは、これから先、社交の場で必要なルールです。『知らない』『やりたくない』では、ルールを守っている他の方々が『面白くない』と思われるのです。『ここはこうすべきなのに、あの子はやらなかった』、『これはこうなるのが正しいのに、あの子はそうしない』では、周りの方々も面白くないと思われるでしょう」
それはきっと、お兄様が仰った事と、同じ意味の言葉。
けれど、端的に過ぎるお兄様のお言葉より、わたくしに分かり易いようにと話してくれるエリィの言葉の方が、すとんと腑に落ちました。
「……ありがとう、エリィ」
何が?と言いたげにきょとんとしたエリィに、わたくしは微笑みました。
「ちょっと、分かった気がします。……わたくしこれから、マナーのお勉強も頑張りますわ」
「それは良うございました」
微笑んで頷いてくれたエリィに、わたくしは少し嬉しくなりました。
呆れもせず、責めもせず。子供に分かるようにと話してくれた。
わたくしは何だか、エリィの事が好きになりました。
それからというもの、わたくしは何か疑問があるとエリィに訊ねに行くようになりました。
……お兄様とお茶をしている時に行ってしまうと、お兄様が僅かに嫌そうなお顔をなさるのですが。少しくらい、わたくしにも時間をくださってもよろしいでしょう?
エリィはわたくしより一つ年下の筈ですのに、驚くほど様々な事柄を知っています。
どうしてそれ程に色々な知識があるのか、と尋ねると「大抵の事は本に書いてありますので」と言われました。
それからわたくしは、様々な本を読むようになりました。
お勉強も、「『何故そうなるのか』を理解するのは、楽しい事ではありませんか?」と言われ、ただ覚えるだけのお勉強から、その理論を理解する方向へと変えました。
すると、その方法が私に合っていたようで、次第に面白くなっていきました。
もっと深く学んでみたい分野まで見つけました。
子供の頃から言われていた『民に生かされているのだから、民の為に』という言葉も、その『理由』を理解できるようになりました。
少しだけ、『自分は全てをお兄様に押し付けて、好きな事だけをしていて、これでいいのかしら?』という気持ちもありました。
けれど、わたくしに出来るのは、精々が興味のある学問を追求するくらいです。……他に何かできるかしら?
気付くとわたくしは、幼い頃の天真爛漫な少女ではなく、『才女』などと呼ばれるようになっていました。
その名に本当に相応しいのは、エリィの方ですのにね。
ある日、わたくしはエリィに訊ねてみました。
どうしても訊いておきたかったのです。
「エリィは、このままお兄様と婚姻を結ぶ未来に、不満はないの?」
分かっています。とても不躾な質問です。
こちらから選んで召し上げたのです。いかな公爵家といえど、断れるものではありません。
もしも不満があったとしても、それを口にするのも憚られるでしょう。
けれど、それでも。
兄は『王太子』です。『次代の国王』です。
その兄と婚姻を結んでしまえば、エリィは『王太子妃』となり、『次代の王妃』となってしまいます。
その責任の重さを、わたくしは少しは分かっているつもりです。
『国』を背負う事を幼い頃より覚悟し、その為に様々な研鑽を積み上げてきたお兄様と違い。エリィには、別の道を選ぶ事もできるのです。
わたくしたちのような『生まれながらの王族』ではないのですから。
けれどエリィは、とても穏やかに、綺麗に笑いました。
「ございません」
きっぱりと、当たり前を『当たり前』と言う口調で。
迷いも、淀みも、一切なく。
背負わねばならぬものの重さなど、エリィであればわたくし以上に理解しているでしょう。
それでも、何の気負いもなく。
「レオン様が、私に仰ってくださいました。共に道を拓き、共に歩もう、と。そのお言葉を、信じています」
共に。
それはなんて、素晴らしい事でしょうか。
あの『一人で何でもできる』兄が、それでもエリィと『共に歩みたい』だなんて。
どうやら、訊くだけ野暮でした。
不躾な質問をしてごめんなさいね、と言うと、エリィは微笑んで「いいえ」と言ってくれました。
ある日、お兄様がわたくしを「リーナ」と呼びました。
今まで頑なに「リナリア」とお呼びになっていたのに!
わたくしは驚いてしまって、それをお母様にお話ししました。
お母様はくすくすと楽し気に、そして少し嬉しそうに笑っておいででした。
「きっと、エリィに何か言われたのね」
恐らく、そうでしょうね。
わたくしとお母様は、なんだか面白くなってしまって、暫く二人で笑っていました。
だってあのお兄様が。
好きも嫌いもなく、感情すらないように見えたお兄様が。
エリィの言葉には、微笑んで耳を傾けるのですから。
妹のローズも、「お兄様はどうされたのですか?」と少し驚いている。
ね? 貴女も驚いたわよね? ふふっ。
お兄様はエリィと出会って、とてもとても変わられました。
そして、お兄様だけでなく、きっとわたくしも、エリィと出会って変わりました。
お兄様の隣で真っ直ぐ前を向くエリィを見て、わたくしもそうありたいと思ったのです。
お小さい頃からお兄様は、『未来の王』となられる為の様々な事柄を学んでおいででした。ですので人一倍、その地位に対する責任感や義務感が強くておいでです。
『完璧な王太子』などと呼ぶ者も居ります。
お兄様が『完璧』と称される程に真摯に取り組むのは、当然、国の為であり民の為であります。けれども、わたくしは知っています。
もしもお兄様が『不適格』とされたなら、次代の玉座はまずわたくしに回ってきます。わたくしが『不適格』であるなら、次はローズに。
お兄様は、わたくしやローズに、その重荷を背負わせたくないとお考えなのです。
その重さを理解しているからこそ、わたくしたちが潰れてしまわぬようにと、わたくしたちに過度な期待などをおかけにならないのです。
そうしてそれらをお一人で背負い、わたくしやローズには『兄として』接してくださる。
そのお兄様を、わたくしも微力でしょうがお支え出来たなら。
エリィのおかげで、そう考えるようになりました。
重荷を分かち合うのだとしたら、エリィのあの小さな肩にも、潰れそうな程の荷が負わされるのです。
お兄様を、エリィを、少しでも支えられるように。
彼らの荷は決して他人が肩代わりできるものではありませんが、その重さを少しでも軽くできるように。
以前までは、面白くなってきた学問を追求する為、研究者の道へ進みたいと思っていたのですが、少ぉしだけ方向転換をしました。
どうせなら、学んだ事で直接的にお兄様やエリィの助けになれたなら、と。
国の為、民の為、そして、大好きなお兄様とエリィの為。その為に、わたくしの持つ力を使えたなら。
そんな風に考えるようになっていました。
現在、お兄様とエリィは、スタインフォード学院へと通っておいでです。わたくしも通ってみたかったのですが、王族が二人も通うとなると警備の都合がつかないとの事で、わたくしは通うのはやめました。
代わりに、論文などを学院の講師の先生方が添削してくださいます。
時折、王城にまで出張して講義を行ってくださいます。
これは兄とエリィが学院側にお願いしてくださったのだそうです。
とてもありがたいお話です。
エリィは学院で、自然科学を専門に学んでいます。
長期的な気候の予測が出来ないか……という研究をしているそうです。
それは例えば、『今年の冬は降雪が多くなりそうだ』や『今年の春は気温が上がらなそうだ』などを事前に予測し、民にその備えを促すものだそうで……。
すごい事を考えるものです。
明日のお天気すら、わたくしには知る術がありませんのに……。
そう言ったならエリィが、「簡単なところですと、『夕焼けは晴れの兆し、朝焼けは雨の兆し』……なんて言いますね」と教えてくれました。
ただ美しいと思って眺めていた茜空に、そんな情報があったなんて。
エリィと居ると、未だ驚きの連続です。
お兄様も「エリィの研究が進んだなら、民の生活に大きな助けとなるだろうね」と、とても期待を寄せておいでです。
わたくしは医療や福祉の拡充をお手伝いしたいと、それらに関して学んでいます。
エリィが学院で同期であるという方を紹介してくれました。エミリア・フォーサイスさんという平民の方ですが、医師を志す彼女は現場の実情などを詳しく教えてくれます。
とても静かで穏やかな方で、そして聡明で志が高く、本当に素敵な方です。
彼女に現場の現状をお聞きし、足りぬもので補えるものは何かを考えるのが、わたくしの役目です。
他にも、医療や福祉という項目において、国費を投入してでも完成させるべきは何か……を考え、それをお兄様に進言したりもしています。
お兄様に進言する前に、一度エリィに見てもらうのですが、わたくしでは見えなかった問題点などを見つけてくれるので、とても有難いです。
わたくしには、一つ大きな問題がありました。
縁談です。
両親はわたくしと妹には、自身で相手を見つけて欲しいと思っているそうです。沢山の貴族のご子息とお会いしてきましたが、わたくしには決める事が出来ずにいました。
妹は既に、十歳の頃に婚約者を定めています。国内の侯爵家のご長男です。とても仲が良く、時折二人で王城の庭園を散歩している姿を見かけます。
……別に、羨ましくなんて思っていません。
…………嘘を吐きました。羨ましいです。『縁談』という難題を解決済みである妹が、心の底から羨ましいです。
妹は政治や学問に興味が薄く、城から出たら一侯爵夫人として侯爵家の為に働くつもりでいます。
恐らく、それがこの国の女性の多くの在り方でしょう。否定はいたしません。それはそれで、とても大切な社会の役割ですから。
けれどわたくしは、婚家の家内の差配よりも、『そこからでも国の為に出来る事』を為したいのです。
欲張りである事は分かっています。それを良しとしてくださるお相手や家が少ないであろう事も。
ですので、最悪、降嫁などはせずに城に居座ってやろうかとも考えておりました。
ですが!
なんと、運命の出会いがあったのです!!
兄の側近を務めておられる、ロバート・アリスト公爵様です!
公爵様はお若くして公爵位を継いでおられ、ご容貌も整っておられ、若い未婚の女性に大変な人気のお方です。ですが、ご婚姻はなさっておられません。
ご自身の婚姻などはお兄様の後で……と仰っているそうです。謙虚なお方です。
あの兄が側近として重用するのです。能力に関しては折紙付きです。
ある日、お兄様に新しい診療所の設備に関してご相談しようと執務室を伺いますと、公爵様とお兄様がお話をされていました。
「幸い我が家は、弟が家内や領地を取り仕切ってくれていますので。……妻が必要かと問われると、はっきり申し上げて不要なのです」
「ご令嬢方にもそう言ってやったらいい。……百年の恋も冷めよう」
「言って理解してくれるようなご令嬢には、きちんと話していますよ。一人だけ『それほどまでにエドアルド様の事をお想いなのですね……!』と恐ろしい勘違いをしてきたご令嬢がいましたが、それも訂正してあります」
「……すごいご令嬢が居るな……」
いえ、お兄様、それは違います。ご令嬢の間で有名な噂なのです。
公爵様が余りに縁談をお断りになられるのは、弟君との間を邪魔されるのを嫌ってなのでは、と。
ご令嬢の中には『お二人を応援し、見守る会』などというものもあるそうです。
……わたくしには高度過ぎて理解できない話でしたが。
「ああリーナ、すまないな、待たせた。今日はどうした?」
「先日ご相談いたしました診療所の設備に関しまして、もう一度お話を伺いたいと……。それよりあの、公爵様」
お声を掛けると、公爵様は手元の書類から目をあげられました。
とても男性らしく整った容貌のお方です。弟君はお母様に似られたようで、少々女性らしさのある美貌の方です。
その弟君にも、決まったお相手がいません。それが噂に拍車をかけるのでしょうね。
「公爵様は、ご自身の伴侶に『妻』としての役割をお求めになられませんので?」
「一般的に『貴族の妻』として求められる要素は、特には必要としておりませんね」
きっぱりと。即答です。
「では、何をお求めになられます?」
「私の職務への理解を。国政に携わるという事の重みへの理解を。後はまあ……避けては通れない問題として、後嗣を産んでもらえたらと」
な ん と !!
衝撃が走りました。
一般的な『貴族の妻』としての役割を、出産くらいにしか求めておられない方がいらっしゃるとは!
しかもこれほどの高位の貴族に!
その瞬間、わたくしは頭の中で計算を始めました。
公爵様が伴侶に求める条件は、わたくしでも達成できます。お医者様にも身体の健康は太鼓判をおされています。子を為す事に問題はないでしょう。
そして、家の事はしなくても良い。
公爵様は兄の側近で、兄が国王に即位されたら、国の要職となるのは決定しています。つまり、公爵様を通じて兄へ要望を届ける事が可能です。
「公爵様、突然の申し出で驚かれるでしょうが……、わたくしを伴侶に選んでいただけませんでしょうか?」
公爵様だけでなく、お兄様までもが驚いたお顔をされています。
……お兄様、本当に表情が豊かになられましたね。お小さい頃が嘘のようです。
「リーナ……? どうした……?」
「今、公爵様のお話を伺いまして、この方がわたくしの運命の方だと思ったのです! わたくしでしたら、国政に関わる責など承知です。公爵様の御力にもなれましょう。それに何より、わたくしは『貴族の妻』として家の中を取り仕切るよりも、この国をより良くする為に力を揮いたいのです」
公爵様を見て、わたくしの思いを告げました。
公爵様は何かお考えのように、ご自身の口元に手をあて、軽く視線を俯けておられます。
本当に、一つ一つの仕草が絵になる、綺麗なお方ですね。ご令嬢方に人気なのも頷けます。
「今取り組んでいる医療や福祉の改善は、一朝一夕では成りません。とても長い時間が必要なのです。そしてそれを国全体に行き渡らせるには、それなりの権力や地位も必要なのです。そう考えた時に、公爵様の妻という立場は、非常に魅力的なのです!」
「……リナリア殿下」
お顔を上げ、立ち上がられた公爵様に、わたくしは「はい」と答えました。
「私から、お願いいたします。……どうぞ私の妻となってもらえませんでしょうか?」
「喜んで!!」
なんという事でしょう!
あんなに悩んでいた問題が、これほど綺麗に片付くとは!
「殿下が取り組んでおられる改革は、私としましても是非完遂させたいものです。そのお手伝いもいたします。ですので殿下には、私がこれから抱えるであろう問題を、共に考えていただきたい。夫婦となれば、長い時間を共に過ごせます。願ってもないお話です」
「そうと決まりましたら、わたくし早速、これからにでも両陛下にお許しを戴いてまいりますわ!」
「よろしければ、私も共に。……リナリア殿下、これからもよろしくお願いいたします」
「わたくしたちは夫婦となるのでしょう? どうぞリーナとお呼び下さいませ」
「はい、リーナ」
手を取り合うわたくしたちを、お兄様が遠い目をしてご覧になられていました。
……それは、どういう感情ですか? わたくし、今とても幸せですのに。
* * *
「マクナガン公爵家は、楽しかったか?」
夕食の席で、兄がそう尋ねてきました。
「はい! とっても楽しいお家でした。使用人も皆さま、楽しい方々ばかりですね」
「そうか……。良かったな……」
お兄様、また遠い目になられてますわよ?
お兄様にとってのマクナガン公爵家は、どういう場所なのですか?
エリィのお友達にダンスを教える、という名目でしたが、マリーさんは緊張しすぎて身体が固くなっているだけで、ダンス自体はお上手でした。ステップが少し怪しいところがありましたが、何度か教えるうちに完璧に覚えられたようです。
当日までにもう少し緊張がほぐれたら良いのですけれど。
わたくしがマリーさんにダンスを教えている間、エリィがホールの隅で使用人相手に踊っているのが見えました。
何でも出来るように見えて、エリィは運動が苦手です。ダンスも得意でない……というより、苦手なようです。
エリィが足を出したところを、使用人が蹴られまいと足を引く。踏まれまいと下がる。
そんな少し滑稽で、けれど可愛らしいダンスでした。
マリーさんもそちらを見て「可愛い」と笑っておいででした。
そのダンスを使用人にからかわれ、ムスっとしてしまうエリィがまた可愛らしく、とても微笑ましい光景でした。
* * *
今日もまた、お兄様はエリィと二人でお茶の時間を楽しんでいらっしゃいます。
お二人とも、とてもにこにこと楽し気に微笑んでらして、わたくしまで嬉しくなってしまいます。
いつまでも、お二人が穏やかにお茶を楽しめるように、わたくしもお手伝いいたしますからね。
だからエリィ、お兄様をお願いしますね。
お兄様がいつまでも今のような、穏やかで優しい笑顔を浮かべていられるように。
きっとそれは、エリィにしか出来ない事なのですから。
わたくしはわたくしの選んだ方と、わたくしが選んだ道を共に行きますから。




