2 王太子殿下の困惑と驚愕
王太子殿下目線です。
基本的に、サブタイトルに名前のある人が、その話の語り手となります。
私は七歳になる歳の春に、立太子の儀を受け、王太子となった。
これは慣例に則ったもので、王族の嫡子であり、資質に問題なしと議会で承認を得られたなら、七歳で立太子される。
下には妹が二人いる。
もしも自分に何かあったなら、妹たちのどちらかが女王として立つ事になる。
そうはならぬよう、気を付けたい。
妹たちにいらぬ重荷を背負わす事はない。
立太子を済ませたら、将来の伴侶を選定しなければならない。
現在、国内の情勢は安定している。
近隣諸国は多少のキナ臭さはあるものの、平常運転の範囲内だ。
つまり、大きな政略としての婚姻は必要ない。
王や王妃、そして廷臣たちとの協議の末、マクナガン公爵の娘との婚約を決めた。
マクナガン公爵家は、五つある公爵位の序列三位だ。発言権はそれなりにあるのだが、そもそも大きな発言をしない。
日和見などと言われる事もあるが、どちらかというと穏健・事なかれ主義の家だ。
大きな派閥を率いる事もなく、属する事もない。
けれどかの家を慕う貴族は多い。
中立の中立。
マクナガン公爵家の娘は私の四つ年下だ。年齢差があり過ぎるという程でもない。
自身の娘を推してくる連中が多すぎて、それらを黙らせるのに時間がかかった。
その間も、渦中のマクナガン公爵家からは、何一つ発言はなかった。
推すような素振りもなければ、引くような素振りもない。
何だか不思議な家だと感じた。
問題があるとするならば、エリザベス・マクナガンという少女について、これといった情報がない事だ。
絵姿は公爵から入手した。
とても愛らしい少女の絵姿である。
ふんわりと波打つ色の薄い金の髪に、若葉のような明るい緑の瞳。ふっくらとした唇に、小作りな鼻。椅子にちょこんと座った肖像で、その様はお人形のようである。
まあ、それを丸っと信じるような事はないが。
どうにか煩い連中を黙らせ、婚約を調えた。
神前に提出する書類と、貴族院の調停所へ提出する書類と、王宮で保管する書類を作成し、公爵にも了承を得た。
公爵は全てを王命と、粛々と従って動いていたが、全ての書類に署名を終えた後で、私を見て苦笑して言った。
「もしも娘がお気に召さなければ、いつでも白紙撤回に応じますので」
と。
思わず、公爵の欲の無さに呆れてしまった。
家長がこれで、公爵家は大丈夫なのだろうかと。
けれど公爵の言葉の意味を、彼女との初対面で知る事になる。
あれは、欲がないのではなかった。娘が風変り過ぎるが故の心配だったのだ。
四つ年下の少女と対面するにあたって、何を話せばいいかを事前に考えていた。
三つ年下の妹は、父に誕生日に貰った人形に夢中だ。
城内で偶然を装ってすり寄って来るご令嬢たちは、ドレスや宝石、美しい花や絵物語が大好きなようだ。
どれも、私自身が全く興味のないものばかりである。
それでも少しは話を合わせる努力をしようか、と、植物の図鑑や流行の物語などを読んでみたりした。まさかそれが、全く無駄な努力になるとは、思いもしなかった。
当日、会場として指定したのは、特に薔薇の花が美しく配置された大庭園だ。『女性は大抵薔薇が好き』という、雑な先入観からの選択である。
会場へ向かう途中、設えられた場を遠目に観察した。
令嬢とその親が、どういった態度でこの場に臨んでいるのか、それを観察する為だ。
二人は特に会話をしている風ではない。
公爵はのんびりと庭を眺めていて、ご令嬢も庭を眺めている。護衛からオペラグラスを借り私はご令嬢を観察した。
庭を見ている。
見ているのだが、彼女の視線の高さは、薔薇などの低木より高い場所を見ているようだ。
何を見ているのか?
視線を追ってみるが、彼女の視線の先には王宮のヘーベル翼がせり出しているだけだ。建築に興味があるのであれば、ヘーベル翼の構造も面白いかもしれない。だが、五歳の少女が?
更に視線を追うと、庭の向こうの何もない場所を見て頷いている。
謎しかない。
あのご令嬢で本当に良かったのだろうか。
少しだけ不安になりながら、護衛にオペラグラスを返し、会場へと向かった。
私が到着した事に気付いた二人が、深々と臣下の礼を取る。
それを直させると、二人を席へと促した。
着席したエリザベス嬢を見ると、驚いた事に絵姿よりも愛らしい見た目をしていた。
絵では表現しきれない、けぶるような淡い金の髪や、キラキラと明るい瞳など、細かい差異を挙げたらきりがない程だ。
絵姿を上方向に偽る者(特に女性)は珍しくないが、下方向に偽る者は初めて見た。いや、偽っているつもりはないのかもしれない。画家が描き切れなかっただけかもしれない。
お茶の用意をし下がる侍女を、エリザベス嬢は感心したように見つめている。何にそれほど感心しているのだろうか。
更には離れた場所に待機させた護衛騎士たちを見、うんうんと頷いてもいる。
貴人の前に姿を晒す護衛騎士たちは、特に見目の良い者を選ぶ。いかにも強面を引き連れていては、相手を警戒させてしまうからだ。
彼女も恐らく、彼らの見目の良さに満足したのだろう。
とりあえず、今日の目的は、前情報の全くないエリザベス・マクナガンというご令嬢の事を少しでも知る事だ。
それによって、王太子妃としての教育内容を考えねばならないからだ。
実は使用人に交じって私の教育係のナサニエル・ヴァレン師も居る。つまらぬ会話になるだろうが、受け答えなどから教育の程度を見極めてもらう為だ。
さあ始めようかと、彼女に声をかけた。
すると彼女は開口一番、「エリザベス・マクナガンと申します。拝謁できました事、恐悦至極に存じます」と、淀みなく述べた上で頭を下げてきた。
そう言えと教えられていたのだろうか。
五歳にしては、言葉選びが固すぎやしないだろうか。
彼女も苦労しているのかな、と、自然と笑みが漏れてしまった。
教えられた挨拶ならば、こう返してみたらどうなるか、と少しだけ悪戯心が湧いた。
「君の名前などは既に承知だ。調べぬ訳にはいかないからね」
既に知っていると伝えたら、どのような反応をするだろう。
これまで出会ったご令嬢たちは、大抵頬を染めて喜んだりした。中には驚く者もいた。
ところが、だ。
「仰せの通りでございますね」
言葉通り、何も驚くこともなく、エリザベス嬢はいかにも納得した風に頷いている。
何だ、この少女は?
権力欲のない、中道も中道の家だ。その娘に権力欲がなくても不思議はない。それ以前に、五歳の少女に『王太子妃』のなんたるかが分かっていない可能性もある。
しかしこの少女は、恐らくそうではない。
そういった事を理解したうえで、『婚約が調っているのだから、名前くらい知っていて当然』と、初対面にして理解している節がある。
何だ?
私は思わず公爵に、「本当にご息女は五歳か」などと馬鹿げた質問をしてしまった。
間違いないと苦笑する公爵の隣では、エリザベス嬢がにこにこと、何か微笑ましいものを見るような目で私を見ている。
そうだ、これはあれだ。祖母が私を見る目だ。
いや、待ってくれ。
私の方が四つも年上なのだが?
彼女は今、まだ五歳でしかないのだが?
「君が名乗ってくれたのだから、私もそれに倣おう。レオナルド・フランシス・ベルクレインだ。レオンとでも呼んでくれ」
そう言ってみると、彼女はまるで「どうしよっかな~」とでも言いたげな曖昧な笑みを浮かべた。
何だろうか、この少女は。
調子が狂って仕方ない。
その後、何とか会話を……と、流行のドレスの話や、好きな花などの話を振ってみた。
結果、見事に全て空振った。
これ程までに、打っても響かないご令嬢は初めてだ。
しかも、それらに興味がない事に恥じ入って、僅かに頬を染めて俯いている。
いや、別に興味を抱いて欲しい訳ではないから、そこまで恥じなくても良いのだが。
今日の為に用意した話題は、どれも使えそうにない。
ならばもう、自分の引き出しにある話題しかない。
「君は、本などは読むかな?」
一応、流行の恋物語などもおさえてきた。定番の絵本などなら、楽勝だ。
さあ来い!と待っていると、エリザベス嬢は僅かに言いづらそうに「読みます」と小さな声で答えた。
何故そう言い辛そうなのかが気になったが、私は話を続ける事にした。
「最近読んだ本の話を聞かせてくれないか?」
「最近……」
えらく言い出し辛そうだ。
俯いて、難しそうな顔をしてしまった。
まさか、本を読むというのが嘘で、最近読んだ本などなかったのだろうか。
「エリィ、正直にお話ししなさい」
随分迷っているようなエリザベス嬢を、公爵が呆れたように促した。それに彼女は、本当にいいのかと問うように公爵を見てから、おずおずと口を開いた。
「最近は、ハラルド・ベーム著の『ディマイン帝国興亡史』の下巻を……」
…………え? ……は!?
ベーム博士のその本ならば、私も読んだ。
ナサニエル師に薦められたからだ。
ちらりと視線を動かしてみれば、従僕のお仕着せを着たナサニエル師が、えらく驚いたように目をかっ開いている。
私もあれくらい素直に驚きを表したい。羨ましい。
驚きそのままに公爵を見れば、公爵は苦々しい顔をして頷いた。
つまり、幼児が大人ぶりたくて、大人の読むような本をぺらぺら捲っただけで「読んだ」と言い張っている訳ではないようだ。
それにしても、五歳が読むには難解に過ぎないだろうか。
今は亡きディマイン帝国の使用言語であるディマイン語の引用も多く、副読本なしに読破は難しかったのだが……。
それ以前に、五歳の少女が亡国に興味を持つ事が珍しい。
何故それを読もうと思ったのかと尋ねると、更なる驚きの回答がやってきた。
「以前、『悠久なるアガシア』を読みまして――」
「いや、ちょっと待ってくれ」
いや、本当に待ってくれ!
発言を遮ってしまって申し訳ないだとか以前に、言っている内容が分からない。
いや、分かるのだが、理解が出来ない。
「読んだ? 『悠久なるアガシア』を?」
尋ねれば、当然のように「はい」と頷かれた。
ナサニエル師はとうとう、頭を抱えて蹲ってしまっている。
羨ましい。私もその体勢を取りたい気持ちだ。
『悠久なるアガシア』は、別名『鈍器』だ。
王立学院の歴史学科では必読図書とされているが、挫折する者を何名も出す分厚い歴史書だ。
私はまだ、全て読み終えてはいない。あと三分の一ほど残っているのだが、その三分の一で通常の書籍の倍程度の量がある。
確かに、あの書の中でディマイン帝国の興亡はかなりのウェイトを占める。アガシア大河流域の文明において、ディマイン帝国は中興の祖と言われているからだ。
「……『悠久なるアガシア』を読み、ディマイン帝国に興味を持った、と」
つまりは、そういう事なのだろうか。
筋は通っている。
幼女の見栄などではなく、真実、歴史を学ぶ者のたどる道筋だ。
「仰せの通りです。興味を持ちましたので、まずはネルソン・コキウスの『ディマイン帝国の光と影』を読みまして、次にアウレリウス・ワッツの『ディマイン帝国―二百年の栄光―』を、そして興亡史を……という具合に」
いや、本当にもう勘弁してくれ。
ディマイン帝国という亡国を知る為の、正しい道筋をきちんと辿っている。五歳の少女が。
『ディマイン帝国の光と影』は、かの国の帝室に焦点を当てた書だ。それぞれの皇帝の治世を詳細に調べている。
そして『ディマイン帝国―二百年の栄光―』は、かの国の文化や風俗に焦点を当てた、全四巻構成の書だ。
それらを読んだ上で、新説とされる興亡史……。
頭を抱えて蹲ったままのナサニエル師が、立ち上がる気配すら見せない。
普段厳しい師に、これほどの共感を覚えるのは初めてだ。
もうどうしたら良いのか。
……とりあえず、突っ込んでおこう。
「君は歴史学者志望なのかい?」
それに彼女は当然のように「いいえ」と答えた。
「単に、興味があったから読んだだけですが。娯楽の一つ、みたいなものでございます」
娯楽……。
鈍器と呼ばれ、挫折する者すら出す本を。
私ですら、あれらを『娯楽』とは言えない。
こんな事ではいけないのだろうが、何だか少し疲れてきた……。
その後幾らか会話を交わし、今回はお開きとする事にした。
次回会う時には、君の好きそうなものを用意してみよう、と告げると、彼女は年相応の無邪気で可愛らしい笑顔を見せ「楽しみにしております」と答えた。
二週間後、二度目のお茶会で、私が彼女の為に用意したディマイン帝国の遺跡から出土したブレスレット(レプリカ)に、彼女が飛び上がりそうなくらいに喜ぶのだった。