待合室の彼女
しがないアラサー社畜である俺は、朝8時には出社し、夜は11時まで仕事をしている。会社までは歩きと電車で1時間程度。つまり午前7時過ぎには地元の駅で電車に乗り、戻りは12時近いということだ。
仕事は月曜から土曜の週6日間、日曜日も仕事が終わらず度々出社させられる。
名ばかりの管理者報酬を与えられ、代わりに残業代は無い。
行きの電車は空いているので睡眠時間に費やし、帰りは満員電車に揺られる。
ある日、駅のホームの待合室に座る女性に目が止まった。
20代中盤くらいだろうか。栗色の長い髪、灰色のスーツにパンプス、手にした文庫本で顔を隠すように本を読んでいるが、覗く横顔は美しく見えた。
一度気付くと気になるものであり、実は彼女は毎朝そこにいるのであると分かった。
別に不思議なことではない。仕事に行くのだから、同じ駅、同じ時間を使う乗客は他にもいる。ただ彼女は俺と同じ電車には乗らないのだ。
これも別に不思議ではない。逆側の下り電車を待ってるのだろう。まあ、朝に下りに乗る人は少ないが、そう思っていた。
ある日、上り電車が遅延した日があった。俺や他のサラリーマンたちが携帯や腕時計を見ながらイライラしている。
下り電車が止まり、そして定刻通りに出発した。
だが彼女はそこで本を読み続けていたのである。
暫くして上り電車がやって来て、俺が普段より混んだ電車に乗る。電車のドアが閉まり電車が動き出した時、彼女は本を閉じて立ち上がったのだった。
すぐに遠ざかるホームの中で、彼女は微笑んだように見えた。
……いや、意味が分からねえぞ。
その日の午前中は最悪だった。
こちらに落ち度のない遅刻(それでも始業時刻より前に出社しているのだが!)にも関わらず上司はネチネチと説教し、さらにそれにより仕事が遅れる。
電車の中で眠れなかったこともあり、つまらないミスをする。
そしてあの女が頭から離れない。午後、仕事しながらパンを食っていた俺の頭に浮かんだ考えは、きっと彼女はもっと早く別の駅から俺の住む駅へとやってきていて、俺の住む街で仕事をしているのだろう。そして時間に余裕のある出社をしており、電車で読みかけの本を切りの良いところまで読んでから仕事にいくのだろうと。
その考えに満足し、その後はスッキリとして仕事ができた。
しかし夜、くたびれきって帰り、駅のホームへと降りた俺の背中を怖気が走った。駅にあの女がいるのだ。
思わず俺の脚が止まるが、後ろから舌打ちの音。俺は慌てて脚を動かす。人混みに流され、俺は改札口へと向かった。振り返っても、人混みに紛れて彼女はもう見えなかった。
それからは朝も夜も、朝も夜も、朝も夜も、彼女の姿を見かける。土曜日の朝も夜も。
日曜日は泥のように眠っていたが夢の中でも仕事に向かい、そこに彼女がいた気がする。そしてまた月曜日から朝も夜も朝も夜も……。
仕事はますます忙しくなる。同僚が身体を壊して仕事を辞め、人員が補充されてないからだ。
出社時間が早まり、退社時間が遅くなっても、彼女はそこにいる。朝も夜も。
ある夜、ついに帰りが終電となった日、俺は待合室の彼女に話し掛けた。
「あ、あんた。何してるんだ」
彼女は文庫本から顔を上げた。驚いたように少し開かれた口。深淵の如き昏き瞳。
「人を待っているのです」
「毎日か?朝も夜も?」
「ええ、わたしには時間は意味を持ちませんので」
時間がいくらあっても足りない俺は、かっと激しい怒りを感じて叫んだ。
「そんなわけがあるか!」
「いえ、ししゃには時間など無限にありますので」
「ししゃ?」
「ええ、死んだ者ですよ」
「な、なにを言ってるんだ。それじゃだれを待ってるんだってんだよ」
彼女の口が大きく弧を描いた。
「分かっているでしょう?わたしのことが見える者をですよ」
俺の後ろ、回送になるはずの終電の扉がなぜか開いた。俺の手から鞄が滑り落ち、彼女がその手を取る。氷でも掴んだかのような冷たい感触。
彼女が俺の身体を押す。なぜか抵抗も出来ず後退る俺と共に彼女は電車に乗り込んだ。
回送電車の薄暗い車内、そして目の前で扉がしま――――。