僕のラストアルカナム
田舎者にとって慣れ親しんだ街を出て東京に住まうというのは人生の大決断なのです。
土手には静かな風が吹いている。
「じゃあ、来週の今頃はもう東京か」
河川敷の奥に流れる利根川の方をぼんやりと眺めながら、僕の隣で彼女はぽつりと呟いた。
おじさんが川沿いを歩いて行く。連れている犬はシベリアンハスキーだ。田舎の景色の中だとやけに壮観な佇まいに見えるなあと、僕はそんな事を考えていた。
「何かやり残した事は?」
「もう部屋の片付けも終わった」
契約済みのアパートにベッドもテレビもPCも送り込んでしまって、部屋は既にもぬけの殻状態。買い集めたCDと漫画ばかりが部屋の隅っこに積み上げられている。
「欲しい漫画あったらやるよ」
「そういう事じゃなくて、こっちでやっておきたい事とか無いの?」
「んー、…別に無いかな」
少し考えたが、何も思いつかなかった。
彼女は呆れたような顔で僕の方を見る。
「相変わらず淡泊な男だねえ。もうちょっと、なんかこう、故郷に対して熱い想いを馳せたりしないもんなの?」
「別に一生帰ってこない訳じゃ無いし」
「ふーん、そういうもんなんだ。あたしには一人暮らしなんて絶対無理だけど、確かにあんたはそんな調子でまるで何事もなさそうに暮らしていけそうだもんね」
それは褒められたのか貶されたのか判断に困る言葉だったけど、別にどっちでもいいので聞き返すことはしない。
「学校の友達へ別れの挨拶は?」
「卒業式に済ませた」
「家族への感謝の手紙は?」
「そんなもん書くかよ」
「好きな女の子に告白済ませた?」
「もうフラれたって言っただろ」
「あはは、こりゃ失敬」
完全に嫌がらせだった。
「ま、何かあったら連絡してきなよ。この町の平和はあたしに任せてさ」
少女は冗談めいたセリフと共に笑った。
ーー思えばこの軽口を叩き合う関係性も随分と長いものになっていた。小学生からの付き合いの僕たちは、別々の高校に進学しても、その高校生活が終わっても、こうして他愛の無い時間を時折一緒に過ごしている。
気を遣わない相手というのはとても楽なもので、何でも話せるし、かと言ってありのまま何でも話す訳じゃ無い。けれどお互いにしか話さない事もある。
この奇妙な関係はかれこれ10年以上も続いている。
「寂しい時には連絡して来てもいいからね」
「そんな理由じゃお前には絶対連絡しない」
「まあ、なんて薄情なやつ。あたしがどれだけあんたのお悩み相談に乗ってあげたか忘れたのか」
「寂しいくらいじゃ連絡しないよ。お前は最後の砦だから」
僕にとって、最後の砦。
それが彼女だ。
本当にどうしようもなくなって、これはヤバイなって時に最後にコールするのか彼女だ。そして、僕もまた彼女にとっての最後の砦でありたい。照れるから言わないけど、そう思ってる。
「最後の砦って、頼りにされてる感すごいね」
満更でもなさそうに彼女は笑った。
分かりやすいやつ。
あからさまに上機嫌じゃねえか。
「あ、でも彼女が出来たら報告よろしく」
「真っ先に自慢してやるよ」
「あたしも超絶イケメンで5ヶ国語くらい話せる彼氏をつくって自慢してやるよ」
「こんな田舎にそんなハイスペックな男がいる訳ない」
「じゃあ妥協して茨城弁と標準語が話せるイケメンにしておく」
だいぶハードルが低くなったけど現実味があっていいと思う。
こんな軽口の叩き合いも暫く出来なくなるのかと思うと、少し寂しいような気もした。柄でもないが、僕も少なからず感傷に浸っているのかもしれない。
ここは茨城県の片田舎。
僕の家から最寄り駅までは車で40分かかる。
まだ免許を取得していない僕は直行出来ないので、まず自転車で20分かけてバス停まで向かい、そこから駅行きのバスに乗り込んで40分。つまりどれだけ急ごうとも1時間はかかる。
最寄駅とは言うものの全く最寄りではない。
ちなみに一番近くのコンビニまでは徒歩15分である。
外へ出掛ける為の交通手段が著しく乏しいこの劣悪な環境下で生きて来た僕は、片手で数えられる程度しか電車に乗った事がない。
そんな田舎者の権化のような状態の僕も、来週の今頃には果てなき東京砂漠に1人で暮らしている予定だ。ビルの隙間から漏れる太陽の光を浴びながら、満員電車の隙間を掻い潜り、迷路のような巨大な地下構内を練り歩くのだ。
我が家は放任主義なので、然程口うるさく言われる事もなく、大学進学に伴う一人暮らしは割とあっさり決定した。
祖母だけが孫の旅立ちをえらく心配している。
まるで徴兵されるかのような具合に。
拝啓 ばあちゃん。
孫は元気に頑張ります。
悪いことをせず、危ない事もせず、頑張ります。東京イコール危険ドラッグの温床だと決めつけるのはやめて下さい。僕は風邪薬のみを服用して日々頑張ります。
「あたしが「最後の砦」かあ…」
彼女は僕がさっき言った言葉を繰り返した。
「なんかカッコイイね、気に入った」
「それは良かった」
「座右の銘が「最後の砦」ってどう思う?」
「それはクソ格好悪いからやめとけよ」
そんな自己紹介をしたら確実に大学デビューで大転倒だぞ。
「え、格好悪い?なんか「砦を守る翼竜」っぽくてカッコよくない?」
「そもそも砦を守る翼竜がそんなに格好良くない」
「はいはい、あんたブルーアイズ派ね」
「僕は悪魔竜ブラックデーモンズドラゴン派だ」
「何それ、知らない。女子がそんなにカードゲーム詳しいと思ってるの?」
「お前から言い出したんじゃねえか」
「ちなみにあたしはブラックマジシャンガール似」
「まな板おっぱいが何を言ってんだ」
「おい、サンダーボルトぶちかまされたいか?」
「すいませんでした」
僕は即座に謝罪して難を逃れた。
身長140センチで小学生から成長の兆しが見えない寸胴体型のくせに、彼女はなかなか腰の入ったパンチを繰り出す。あまり怒らせてはいけない。
「まだ伸び代があるだけ!」と豪語する彼女だったが、恐らくこれ以上の成長は無いだろう。余談だが彼女は牛乳が苦手だ。
「八王子だっけ?」
彼女が来週からの僕の住まいを言う。
僕は頷いて答える。
「実家から90キロくらい」
「90キロって言われてもピンとこないね」
「歩くと16時間くらいらしいぜ」
「ふうん」
お互いに目線は前へ向けたまま、隣り合って適当な会話。利根川を超えた先はもう千葉県で、関宿城が夕日で赤くなっている。
シベリアンハスキーを散歩させていたおじさんは遠くの方へ行ってしまって、もう米粒みたいな大きさになっていた。
「東京ってどんなところなんだろうね」
彼女はぼんやりとしたままで、僕に言ったのか独り言なのか判断しかねるほど小さな声でそう言った。
けれど、聞こえてしまったので答えてみる。
「日本で一番栄えてる都市」
「何でもあるもんね、都会って。ドンキホーテとかあるもんね」
「お前の都会の基準ってドンキホーテがあるか無いかなんだな」
その基準で言うならば確かにこの町は田舎だ。ホームセンターはあるけど、娯楽施設はカラオケ店が2件だけ。その他には何も無い。デパート併設のゲームセンターもこの間潰れた。
「渋谷のスクランブル交差点に行ったらテレビの撮影とかやってるのかな」
「テレビ特集とかで紹介されてるお洒落な店はだいたい東京だしな」
「いいなあ東京、大学生になったら絶対遊びに行こう」
田舎者代表みたいな事をキラキラした目で話す彼女は、恐ろしくありのままで飾り気がなくて、いいなあと思う。
都会に出ようとも都会に染まる事の無いように頑張ろうーーーなんて、如何にも田舎者の思考を頭の片隅に宿しながら、僕は立ち上がった。
ぼんやりと眺めていた利根川の方から、町の方へと振り返る。
高層ビルなんてたった一つさえ建っていない見晴らしの良い景色。あそこにはホームセンターがあって、その更に奥には先日卒業したばかりの母校も見えた。遮るものなんて何一つとして存在しない空が、見上げれば視界一面を支配する。
「黄昏てるねえ」
ニヤニヤしながら言われた。
「東京に行ったら星も見えないよ、きっと」
「今までだって星なんて見てねえよ」
「こら、そんなドライな事言うな。「星が綺麗に見える」ってのは田舎者の数少ない優越感に浸れるポイントなんだから!」
「都会にはプラネタリウムっていう文明があるんだよ」
オリオン座しか知らない僕には、星が見えようが見えまいがどうでもいいけれど。それでも彼女が言うように、ふとした瞬間に思ったりするのだろうか。
「都会の空は狭いな」とか、そんな何処ぞやの主人公みたいな事を考えたりするのだろうか。
「きっと懐かしくなるよ、この景色」
分かったような台詞を吐いて、彼女も立ち上がった。僕の隣に並び立ち、同じように町を見下ろす。
「なーんにも無いけど、今まではここが全てだったんだからさ」
感傷に浸っているのは僕よりお前の方じゃねえか、とは言わないでおくことにした。
漫画かアニメみたいに、遠くの空を一羽のカラスが横切っていく。あの黒い影さえも、いつかは懐かしく思う時が来るのだろうか。今の僕には分からない。
「さーて、そろそろ帰りますか」
1分ほど無言のまま町を見下ろして。
彼女はそう言うと草の上に置いていたカバンを持ち上げて肩に下げた。通学時に使っていたカバンだろうけど、僕のとは違ってとても綺麗だった。3年の時の流れを感じさせぬほど綺麗だった。僕は卒業したその日に通学用のカバンは捨ててしまった。よく最後まで頑張ってくれたなと労いつつ、役目を終えたボロボロのそれは誰の目から見ても引退だった。
「見てほら、もう6時だよ」
携帯の画面を僕に見せながら驚いたように彼女は言って、僕の自転車の荷台に腰をかけた。
僕は手ぶらなのでそのままサドルに跨ると、自転車を走らせる。
「2ケツするのもこれが最後かな」
彼女は右手で僕のシャツを掴みながら、足をぶらぶらさせている。
「あたし週末にマイカー買っちゃうし、次は運転席と助手席になりそうだね」
彼女は緑色の、小さめの、何とかって車種の車を買うらしい。そうなったら確かに、自転車で20分もかけて土手に来ることは無くなりそうだ。
未だに自転車にしか乗れない僕と、普通自動車免許を持っている彼女。そこには見える事の無い大きな差があるように思えた。
「いいじゃん、車の方が速いし便利だし」
「あたしは自転車でしか行けない範囲を、ひたすらに風切って進んでる感じが好きなの」
「ひたすらにペダル漕いでるのは僕の方だけどな」
「普段はあたしだって自走してたんだから。こういう場合において、あんたはペダル漕いで汗かく役、あたしは風を感じる役でしょ?」
まあ確かに僕が荷台に乗ってたらそれはそれでおかしな話だ。草食系男子の極みだ、もはやそれは男では無い。
今この瞬間の絵面は、若年男女が仲睦まじく自転車に乗り夕日を背景に帰路に着いているように見えるだろう。あながち間違っちゃいない。そこに甘酸っぱい恋物語が存在しないだけだ。
「ちょっと前までランドセル背負ってたのに、もう自動車の運転が出来るようになっちゃったってすごいよな」
学校を卒業して生まれ育った町を離れる。
人生の節目に立ち、改めて時の流れを感じていた。
僕は幼稚園の頃に覚えた自転車の乗り方をそのままに今もこうしてペダルを漕いでいるだけだが、後ろの彼女は既にアクセルを踏み込んで時速60キロで町を走行する資格を得ている。
小学一年生、齢6歳。
高校卒業、齢18歳。
12年もの月日が流れた。
「そりゃね、色々と変わっちゃうよ。環境も所属も変わって、それに付随して性格だって変わっていくものだからね」
風の音の隙間を縫って彼女の声が僕に届く。
その距離は彼女の唇から僕の耳までおよそ1メートル程度。これが来週には90キロになる。電波に乗せて送り合わなくては到底届かない距離だということは、誰にだってわかるだろう。成る程、遠い。
「進化してるのか退化してるのか分からないけど、変わってるのは確かだよな」
僕は幼少期に比べ、小難しい事を考える面倒臭い眼鏡男に成り下がった。これを進化と呼ぶのか退化と呼ぶのか、判断はつかない。
ちなみに視力に関しては成長と共に下がっていった。これは退化だと確信している。お陰で眼鏡のレンズは牛乳瓶の底みたいに分厚くなった。
「あたしは中学2年生の時から身長が全く伸びてない」
「進化も退化もしてないな」
「でも吹奏楽部に入って楽器が出来るようになったから、それは進化かも」
「それは成長だな」
「バストは皆無だけど」
「来世に期待しような」
「は?まだ現世も諦めてないから」
ーーこの件に関してはコメントは差し控えさせて頂こう。
僕たちは土手沿いの道を行く。
右手側には水位の低い利根川、左手側には生まれ育った街並み。背中には共に日々を送ってきた腐れ縁の友人。前方には細い道が続いている。
これから僕は少しずつ電車の乗り降りにも慣れて、生活圏の駅や街を覚えていき、一年も経った頃にはすっかり東京に馴染んでいるんだろう。その頃この町はどうなっていて、彼女はどうしているのだろう。そもそも僕はどうしているだろう。何か変わっているのだろうか。
彼女も言ったように、環境や所属によって人間なんて簡単に変わってしまうものだと僕もそう思っている。中学までそこそこ仲良しだった友人だって高校に入れば疎遠になるし、付き合う友人も変わってしまった。それが悪いことだとは思わないけれど、そうやって変わりゆくものだと何と無く認識している。
時間が経てば赤ん坊は老人になる。
レコードは電子化して音楽は情報になった。
闇を照らす蝋燭の灯りはその熱を少しだけ残して電気へと昇華し、現代の僕の部屋を照らしているのはLEDライトだ。
今や筆を持たずに画面上でメッセージの交換が出来る時代。
対面で誰かと話す時間よりも、ブルーライトを浴びながら物言わぬネット画面と睨めっこをしている時間の方が確実に長い時代。
僕が何をしようが、彼女が何もしなかろうが、世界はアップデートを続けていく。その恩恵は確実に僕たちの生活にも降り注がれる。
街灯さえ足りていないこの田舎にだって、携帯電話を持たない人間は居なくなった。生活が変われば、人だって変わる。
「あたしは変わらないよ」
ふと彼女はそう言った。
そう言って、僕の脇腹をつねった。
「いってえ!!バカ、転ぶぞ!!」
「変わっちゃうものもあるけど、変わらないものもあるでしょ」
「はあ?」
「これから華の大都会東京に出掛けるんだから、辛気臭いこと考えてる暇なんてないでしょうが!ほら、前向け、前!落っこちちゃうよ!」
ふらついたハンドルを慌てて操る。
つねられた右脇がヒリヒリする。
「この町はあたしが守るって言ったでしょ。…まあ、町を丸ごとどうにかするのはさすがの私にもちょーっと難しいかもしれないし、ここだって少しずつ変わっちゃうかもしれないけどさ」
彼女は続ける。
「もしかしたらあんたが東京に行ってる間にドンキホーテが出来ちゃって、この町も都会になっちゃうかもしれない。それは分からないけどさ、それでも確実に言える事があたしには一つだけある」
確実に言える事。
「あたしはあたしで変わらないって事」
そんな言葉をぽつり。
背中にかけられる。
「あたしは9頭身の超絶プロポーションにはならないし、ブラックマジシャンガールみたいなボンキュッボンにもならないし、金髪小麦肌のコギャルにもならない。ありもしないタワーマンションに住む成金にもならなければ、SNSで意識高い呟きと自己顕示欲を満たすための自撮りを上げまくる女子大生にもならない。田舎の実家にある自分の部屋から足繁く大学まで車で通学して、それなりに勉強を頑張りつつも大学生ライフを満喫して、そんでもってバイトも始めると思うけど、それでもあたしはあたしのままだよ」
もしかしたらボンキュッボンにはなってるかもしれない…と彼女はおどけて笑う。
「分からないじゃん?あんたは都会に一人暮らしで生活環境が激変するわけだし、もしかしたらその重苦しい眼鏡を投げ捨ててコンタクトレンズにして、大学デビューを鮮やかに飾るかもしれない。都会のハイカラレディーと付き合うかもしれない。金髪で毎晩クラブでウェーイするパリピになるかもしれない。歌舞伎町の闇に飲まれて風俗通いになるかもしれない。高田馬場の学生ローンに手をつけて取り返しがつかない事になって、危険ドラッグに狂って泡吹いてるかもしれない」
「僕の「〜かもしれない」余りに酷くない?」
「世の中何が起きるか分かんないでしょ!」
その語気の強さにたじろぐ僕。
彼女は構わず続ける。
「もしもあんたがそんな救いようのないゴミクズ人間に成り下がって、八百万ありとあらゆる神様からも見捨てられて、身内にさえ縁を切られたとしよう」
「たかが上京しただけで僕の人生壮絶すぎるな」
「だけど安心して下さい!あたしは最後の砦だから!」
最後の砦。
僕の最後の頼み綱。
少女は語る。
「あんたが世界中の誰もに見向きもされなくなったとしても、そのスマートフォンの中にはあたしの連絡先があるでしょ。あら安心、24時間365日サポートの最後の砦 幼馴染ちゃんダイヤルがあんたには残ってる!」
「24時間365日?」
「ごめん、それは流石に無理。あたしにもプライベートな時間ってあるから。忙しかったら折り返す」
割とシビアなサポート体制だった。
「とにかくあたしは変わらないから」
えらく自信満々に、彼女は一切の躊躇いさえ覗かせない強い口調で何度もそう言う。
「あんたが犯罪に手を染めてお縄について正真正銘のゴミクズ人間になってもあたしは変わらず仲良くしてあげるから、玉砕覚悟で頑張ってきなさいよ」
僕はどうして捕まらなければならないのか、どうして玉砕を覚悟で上京しなくてはならないのか、果たしてそこまで何かに追い込まれているのか、よく分からないまま僕がゴミクズになってる仮定の話は広がっていく。
ーーよく分からないが、彼女のエールはひしひしと伝わった。
「あんたの最後の砦、最終兵器幼馴染ちゃんはいつだってこの田舎で楽しくやってるから」
この田舎、僕たちが生まれ育った町。
特筆すべきものは特になく、無い物を挙げて行ったほうが早いような町。
けれど今までは「ここが全てだった」。
楽しい事も悲しい事も出会いも別れも痛みも喜びも全てはここで起きた僕の人生だ。
そんな僕の全てだった町を出て、
僕の事なんて誰も知らない町に行く。
「ま、嫌になったら逃げ帰って来なよ」
笑いながら彼女は言うのだ。
「そしたら笑いながら駅まで迎えに行ってあげるからさ、ココスで何か奢ってね」
今までもこれからもずっと、彼女には助けられてばかりだろうなと思った。今まさにリアルタイムでその言葉に随分助けてもらっている。ありがたいなあ。いつか何かを返せたらいいなと思う。都度そう思っている。
彼女を家の前で降ろすと、ゴソゴソとカバンを漁って僕に小さな封筒を差し出した。
手紙だった。
「あっちで寂しくなったら読みなよ」
「ラブレター?」
「あんたにそんなもん書く暇があったら写経でもするわ」
「仏教系女子かよ」
緑色のレターセット。
「ありがとう。じゃあ今からここで音読するよ」
「やめて!恥ずかしくて死ぬから絶対に上京してから読んで!そして渡しておいてなんだけど絶対にその手紙の件については直接あたしに感想とか言わないで!恥ずかしくて死ぬ!」
「そんな恥ずかしい事書いたのかよ。本当はやっぱりラブレター?」
「あんたにそんなもん書く暇があったら教会で祈ってるわよ」
「キリスト系女子かよ」
「教会といえばドラクエなら8が好きで、嫁にするならフローラ一択ですあたしは」
「お前正気か、どう考えてもビアンカ一択だろ。フローラなんて放っておいても別の男と結婚してるだろ、片やビアンカは一生独身を貫くんだぞ?ビアンカを選ぶ以外に選択肢はない」
「は?フローラの方がゴールドも道具も魔法も充実するし戦闘でも使えるのに?ビアンカ派なんて所詮みんな情に負けただけでしょう」
「さっきまで散々と情のある熱い話をしてたのにどうなってんだよ!」
細やかなビアンカフローラ論争をして、僕たちはお互いに呆れ笑いを浮かべる。
次に会うのはいつだろうか。約束なんてした試しがない。何と無く会って、何と無く話をするだけ。きっとこの先もそんな具合なんだろう。
「じゃ、またそのうち」
彼女は素っ気ない別れの挨拶を口にすると、カバンを背負い直して右手を上げた。
僕も右手を上げて、それでハイタッチを交わした。なんだこの青春みたいな感じ。
「何かあったら最後の砦に電話して」
「言われなくてもお願いするよ」
しばしの別れだ。
僕も何か気を遣って用意しておけばよかったが、あいにく手紙なんて書いていないしプレゼントになるような物もない。半分口をつけたサイダーが自転車のカゴに入っているけど、これをあげたら怒るだろうな。らしくないことはやめて帰ろう。
「あのさ」
帰るけど、これは言っておかないとダメだと思う。僕は少しだけ勇気を出して言う。
「僕にとっての最後の砦はお前だけど、お前にとっての最後の砦はーー」
「あんたに決まってるでしょ?」
負けた。
先回りされた。
僕はお前の最後の砦だから、何かあったらお前も連絡よこせよ。
そう言う前に言われてしまった。
つくづく後手に回ってしまう、何年経ってもこいつには勝てない。
「何、今更?そんな事わざわざ確認したかったの?恥ずかしい〜」
「…うるせえ」
「言われなくたって頼りにしてるよ、お互い様でしょ?」
「ん、それならいいんだ」
最後くらい格好良く決めて別れを飾りたかったのに、ちっとも隙を見せてくれない彼女だった。
恥ずかしいから早く帰ろう。
「じゃ、また」
「ん、頑張って」
「お互いにな」
僕は自転車を走らせて彼女の家を出た。
振り返ると、もう彼女は玄関の中に消えていた。普通こう言う時って姿が見えなくなるまで手を振ったりするもんじゃないのかな。最後の最後まで相変わらず過ぎて、それはそれで笑えた。
僕の最後の砦の、彼女。
彼女の最後の砦の、僕。
最後の最後にはあいつがいるから、まあ、何とかなるだろう。そう思える。
僕は悪いことはせず、金髪にもならず、パリピにもならなければコンタクトデビューもしないし、風俗通いでローンを組んだりもしないし、危険ドラッグに蝕まれてお縄についたりも絶対にしない。
彼女は自分が絶対に変わらないと断言していた。何の確証もなく、そう言い切っていた。
そんなの分からないのに。何がどうなるかなんて誰にも分からないのに。
こんな約束は若気の至りで、5年後の僕たちは笑い話にしているかもしれない。何の根拠もない言葉だけれど、それでも救いだなと思った。
例え彼女がその言葉を簡単に忘れて、あっさりと捨ててしまったとしても。僕はずっとその言葉に救われて生きていくのだろう。
僕の最後の砦。
最終兵器。
切り札。
奥の手。
僕の最終奥義は、彼女に泣きながら助けてと言う事だ。それを恥ずかしい事だなんてちっとも思わないから、僕たちはきっと親友なんだろう。
僕の最終奥義。
ラストアルカナム。
今度彼女に会うときは、片手に東京ばな奈をぶら下げて行こう。行ってきます。
この後、7年経って田舎にもドンキホーテが出来てた。僕は高校の同級生と結婚した。彼女もまた田舎町を出て歳上の彼と同棲してる。それでも、たまに連絡を取り合っています。