1章ー1
この世で一番不快な音、それは人様の安眠を妨げる目覚まし時計の音だと俺は思う。 もちろん、自分でセットした時間に彼は彼なりに精一杯仕事をしてくれているのだろう。 だけど、どうしてか不快になる。
そして、その音が自分の部屋からではなく、隣の部屋から鳴り響いているものだと知った時、その怒りの矛先は隣室の住人へと向けられる。
「……あいつ」
智子の部屋から鳴り響く目覚まし時計の音、それは一つや二つではなかった。 それぞれ種類の違う目覚まし時計の音がいくつも重なって聞こえるのだ。
「……うるさい」
これで起きないのかあいつは。
ということで、怒鳴り込みに行く。
「おい、こら! 起きろや!」
部屋のドアを何度も叩くが中から返事はない。 いや、というか、この目覚ましの音でノックの音がかき消されているのだろう。
「無駄だ」
気が付くとオッサンが俺の背後に立っていた。
「毎朝のことだ。 望んでもいないのに、こいつの目覚ましの音で起きることはな、我が家に住む限り避けられないディスティニーなんだよ」
「辛いな」
「そう、だからおまえもこのディスティニーを受け入れろ。 それこそが、お前のディスティニーなんだよ」
「もうそれディスティニー言いたいだけだろ」
「お前、智子を起こすまで飯はお預けな」
いや、オッサン、今日から俺も学校が始まるんだけど。
「じゃあな」
そう言ってオッサンは肩越しに手を振りながら去って行った。 まぁこれで毎朝起きているのなら放っておいても大丈夫だろう。 俺は一人階段を下りてリビングへと向かった。
結果から言うと、家を出るのはギリギリになった。 俺は智子が起きてから朝食をとろうと思っていたが、思っていた以上に智子は起きて来なかったのだ。
オッサンが用意してくれていたトーストを二枚かじり、俺たちは家を出た。
「おい裕也」
と、一度呼び止められた。
「なんだよ」
こっちはあんたの娘のせいで急いでいるっていうのに。
「楽しんで来いよ」
「……」
そう言ってオッサンは笑った。
「……あぁ」
俺は短くそう答え、俺たちは家を出た。
昨日の記憶が曖昧なことに気付いたのは、学園の入り口付近に着いたころだった。 昨日の晩ご飯と、寝た時間がどうにも思い出せない。 はて、どうしたもんか。 まぁ智子もオッサンも普通に接してくれたし、どうせ疲れて眠ってしまったのだろう。
「はい、じゃあちょっとそこで待っててね」
学校に着くと、俺はまず職員室へ向かった。 そこで担任の山上先生と対面し、簡単にこれからのことを説明してもらった。 山上担任は若い女性の先生で、ショートヘアーの小動物のような人だった。 朝のホームルームの時間になったら呼びにくるということなので、それまで俺は職員室前の廊下で待つこととなった。
ちなみに、智子はすでに俺の元から去って行ってしまった。 さっきの説明の中で、智子と同じクラスであることを告げられた。 そのことは俺を少し安心させてくれた。
「暇だな」
そんな言葉は本当に暇な時にしか口からこぼれないことを俺は知っているので、本当に俺は暇を感じているのだろうと思った。 なんとも緊張感のない転校生だ。
「……」
そこで初めて気付いた。 さっきから誰かがからこっちを見ている。 廊下の曲がり角に身をひそめながら、こちらを見ているのだ。
「……」
間違いない。 腰辺りまで伸びる長い髪の毛の女子生徒がこちらを見ている。
「……」
目が合った次の瞬間、その女子生徒はこちらに向かって歩き出した。 徐々に近付くその姿に見覚えはなかったが、なぜかその表情は距離が近付くにつれて明るくなっていく。 まるで昔の懐かしい友人と再会するように、初対面であるはずの俺に笑みを見せている。
「……」
女子生徒は俺の目の前で立ち止まった。 まるで宿命のライバルと対峙する主人公のような緊張感だ。
「高橋……裕也?」
見知らぬそいつは俺の名を呼んだ。 どうしてこいつは俺の名前を知っているのか。
「高橋裕也」
もう一度つぶやく。
「そうだけど、何か用?」
ふむ、顔立ちは整っていて、とても美人さんだ。 その黒髪ロングヘアーのせいか年齢以上の落ち着きをもった人間のように見えた。
「帰ってきたのか」
「帰ってきた?」
あぁそうだ。 確かに俺はこの町に帰ってきたさ。 それは間違いない。
「俺のこと、知っているのか?」
でもその言葉は、俺が過去にこの町に住んでいたことを知っている人間じゃないと発することのない言葉なんだよ。
「ふむ、やはりそうか。 君は忘れてしまったのか」
「ごめんな、俺がこの町に住んでいたのはもう何年も前のことなんだ。 どこかで出会っていたらごめん。 俺はあんたのことを知らないんだ」
「そうか。 君もそうなのか……」
君も?
「……これから君は、この町で大変苦労すると思う。 いや、悩むと言った方が正しいか。 君は悩み苦しむことだろう」
これからこの学校で短いながらもハッピーライフを送ろうとしている転校生に向けて言い放つ言葉ではない気がする。
「眞宮だ」
「え?」
「私の名前だ。 眞宮シキ。 何かあったら私を頼れ」
いや頼れって言われても。 見知らぬ誰かに頼るぐらいなら智子に俺は頼ると思う。
「頼れって言われてもなぁ。 見知らぬ人に声をかけられても、ついて行くなって昔から教育されてきたからなぁ」
「見知らぬ誰か、か」
眞宮は自嘲するような笑みを浮かべた。
「まぁそれもよかろう」
そう言って眞宮シキと名乗る女子生徒は去って行った。
「……なんなんだよ」
なんなのだろう。 喉に小魚の骨が刺さったような気持ち悪さは。
眞宮シキ。 いや、やっぱり俺の頭の中にある名簿にその名前は記されていない。
でもどうしてだろう。 俺は手のひらに大量の汗をかいていた。
その時、担任の山上先生が職員室から出てきて、そのまま教室へと案内された。