プロローグ5
リビングの壁にかけてある時計に目をやると、もう少しで十八時になろうとしていた。 だからだろうか、テーブルには夕食が準備されていた。 スープは天へと昇るように湯気を立て、色とりどりのサラダは綺麗に盛り付けられている。 他にも、から揚げやグラタンなどの、様々な料理がテーブルの上を賑わしている。
おっさんは料理が上手かった。 特にこの人の作るスープはとても美味しく、改めてその味を思い出すと、そこら辺の店で出されているものよりも何倍も美味かった気がする。
「いたきだます」
「いただきます!」
「おう、ゆっくりと食えよ」
俺は料理に箸を伸ばした。
「どうだ? 美味いだろ? うまいと言えよこのヘナチョコちんこ野郎」
「またすごいストレートな下ネタだな。 いや、そんな脅しを言わなくても十分に美味いから」
「へへ、そいつはどうも」
そう言っておっさんは白い歯を光らせた。
それはお世辞も何もない、心からの本音だった。 本当にこの人は口さえ開かなければ頼りがいのある真っ当な人間なのにな。
「智子も美味いか?」
「うん! とっても美味しいよ~」
「そういや、お前は料理しないのか?」
俺は智子に訊いてみることにした。
「料理は……えへへ」
「笑ってごまかすな」
「おい、こら、人の可愛い娘になんてこと言うんだ!」
「だって女子高生なら少しは料理に興味をもったり、実際に作ってみたりするもんじゃないのか?」
「た、卵ぐらいなら割れるもん!」
「ほら聞いたかテメェ! 割れるんだようちの子はよぉ!」
「よくそれを堂々と言えたもんだ」
その度胸だけは賞賛に値する。
「うちのご近所じゃな、長野さんのお家の娘さんは、卵を割ることに関してはコロンブスもびっくりだねって言われてんだよ!」
「わざわざ見せたの? 割るところ」
「あぁ」
「何その集会」
怖い。
「智子、今度料理作って」
「……え? ええええええええええええええええええ!」
「いやそんな衝撃的なことを言ったつもりじゃないけど」
まるで自分の知らない出生の秘密でも告げられたように智子は固まってしまった。
「おいおい裕也よ、それは己が育った村を大した理由もなく、お使いイベントついでに、なんやかんやで出発したレベル一の勇者が、ラスボス倒すぐらい無謀なことだぜ」
「それ、娘をバカにしているから」
「うちの娘はまだひのきの棒しか装備してねぇんだよ!」
「知らない」
「せめて旅人の服が着せてからでも。 あ、お隣の吉田さんの家のタンスにそんな服があったような」
「な、何を作ればいいかな?」
「そうだな。 とりあえず卵が割れるなら卵焼き作ってみて」
「裕也殿! それはあまりも危険でございまするぞ! 卵焼きなんて……この子には早すぎます!」
「爺や、やっぱり我が娘のことバカにしていますよね」
「ま、卵焼きぐらいならこいつもできるだろ」
そう言いながら、オッサンは深く頷いた。
「お父さん! 私、自信ない……」
「大丈夫だ。 お父さんが手取り足取り教えてやる」
いったい卵焼きのどこで何を手取り足取り教えることがあるのだろうか。
「お父さん……」
「娘よ……」
父と娘は互いに手を取り合い見つめ合っている。 今にも背景がお花畑に変わりそうだ。
「何やってんの」
「うるさい。 今いいところなんだから。 特にこれ以上続かないが」
「続かないのかよ」
「いつ作ればいいかな?」
「そうだな。 とりあえず明日作って。 明日は日曜日だし、暇だよね?」
「明日は裕也君を案内しようと思っていたの」
「案内?」
「うん、この町に久しぶりに帰ってきたんだから、色々と忘れてしまっていることもあると思うの」
まぁ確かにほとんど記憶はない。
「だからね、この町を案内しようと思っているの」
「智子」
と、そこでオッサンが話を遮るように割って入った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ! 町を案内するだけだよ?」
「……そうか」
その時、なぜかオッサンの表情に雲がかったように見えた。 はしゃぐ智子とは対照的にその表情は晴れない。 自分が住んでいる町を案内することにどれだけの不安があるというのだろうか。 智子が物凄い方向音痴ならわかるが、今日一緒に歩いてみた感じだとそんなことはないように思えたが。
「どんだけ過保護なんだよ」
「ん、いや別に」
どうもオッサンの歯切れが悪い。
「お父さんは何も心配しないで大丈夫だよ」
智子はそう言って笑っているが、それでもオッサンの表情はイマイチ冴えなかった。
食事が終わったあと、俺は風呂に入り、用意された自分の部屋へと向かった。 部屋は特別広いわけではないが、一人で利用する分には十分な広さだ。
「隣は私の部屋だから何かあったら気軽に呼んでね」
「そっか。 夜這いしていいのか」
「ヨバイ?」
「いや、忘れてくれ。 そして決してその言葉の意味をオッサンに訊くんじゃないぞ」
「わかった!」
おやすみ、と言って智子は自分の部屋へと戻って行った。
「……寝ようかな」
今日は電車での長距離移動にとても疲れた。 慣れない環境に身を置き、気付かない間にストレスがたまっているのだろうか、電気を消すとすぐに眠気に襲われた。
明日からここでの本格的な生活がスタートするのか。 やっていけるだろうか。
人間不思議なもので暗闇の世界に身を預けると、突然どこからともなく不安という名の悪魔がやって来る。
小さい頃、初めて一人で婆ちゃんの家に泊まった時、それまでは何事もなく楽しく過ごしていたのに、布団に入って電気を消した瞬間、なんとも言えない不安に駆られたことを未だに覚えている。 今の心情はその時のそれと似ている気がするのだ。
数か月後には社会人なのに、こんなんではダメだな。
そんなことを考えていると、いつの間にか俺の意識は暗闇へと溶け込んでいった。