プロローグ4
雪の降り積もる町。 微かに残るこの町の記憶の隅っこにあるのはそのイメージだ。 常に雪が地面を覆い隠し、冬は銀雪の色に世界を変える。
でもどうしてか、この町の記憶は曖昧なのだ。 そもそも、俺は何歳までこの町で過ごしたのだろう。 それさえわからない。 人の記憶は過去へと遡るほど曖昧で霞んで見えてしまうものだ。 だから過去のことを頭の中から忘れてしまっても仕方のないことなのかもしれないけれど、それにしてもまるで俺の人生の記憶から、この町で過ごした時間だけを切り取ったように記憶が薄い。
「智子の家ってさ、そこの角を曲がったところになかったっけ?」
だけどなぜか智子の家までの道のりは自分で思っていた以上に覚えていた。 何度も通いなれた道だからだろうか。 これなら迎えは必要なかったな。
「そうそう! よく覚えているね! ほら、着いたよ!」
そこで智子の足が止まった。 目の前にあるのは二階建ての立派な家だった。 うん、確かにこれが長野家だ。 目の前にある家と、過去に通っていた家の記憶の影がピッタリと重なった。
「裕也君がここに遊びにきていたのはもう何十年も前のことなのにね。 忘れてしまっていたかと思ったよ!」
そう言って智子は笑ってくれた。
「じゃあ中へどぞどぞ~」
俺は智子に案内される形で家の中へと入った。
玄関に入るとすぐに冷たいフローリングの匂いが鼻に入ってきた。 正直、この匂いは嫌いじゃない。 他人の家の匂いはむしろ好きだった。 どうして他人の家の匂いはこんなにも独特に感じるのだろう。
「どうぞあがって~」
「お邪魔しまー――」
と、その時だった。
「っい!」
俺の目の前を細くて長い何かが、薄い残像を残して通り過ぎた。
「……これは」
矢だ。 一本の矢が壁に突き刺さり、尻尾の部分を震わせていた。
「ほう、さすがだな」
廊下の死角から現れたのは背の高い大柄な男だった。
「この俺のトラップを一瞬の判断力だけで回避するとは、さすがは裕也だ」
この人のことを俺は知っている。
「お父さん」
「誰が貴様のお父さんだ! いったいいつからそんな関係になった!」
違う。 この人は俺のお父さんではない。
「オッサン」
「誰が貴様のオッサンだ! いったいいつからそんな関係になった!」
「俺のオッサンってなると、かなり怪しい関係になるからやめような」
断じてそういう関係ではないし、あんたは世間一般から見たオッサンなのだ。 女子高生が毛嫌いし、自分の服と一緒に洗濯をしてほしくないと世間で言われているオッサンなのだ。
このいい歳をしてイタズラ小僧のようなことをする人物こそ智子の親父さんである、長野秀和さん――だったかな。昔からオッサンと呼んでいた記憶があるので、特に今更オッサンから呼び方に対してのクレームがくることはないだろうと思っていたが、人間、本当にオッサンになるとオッサンと呼ばわれることを嫌うらしい。 だがしかし俺はこの人のことをオッサンと呼ぶ。
「元気だったか?」
「なんで俺の股間を見てそう言う」
「元気そうだな」
「だから股間を見ながら言うと意味合いが変わるだろうが」
「俺のも――元気だ」
「なんで照れながら言ってんの?」
「冗談だ。 ま、本当に元気そうでよかったよ」
怒りの表情から一転、まるで遠くで暮らす実の息子の帰りを待ちわびた本当の父のような暖かい顔でそう笑ってくれた。
「うん。 おっさんも元気そうだな」
「え? いや俺のは最近、元気がないことのほうが。 特に最近の朝は――」
「いや、だから股間を見るな」
あんたのソコに興味はない。
「あ、あぁ俺という生命体そのものが元気だったかってことか」
何その生物的な言い方。
「俺は元気だ。 すこぶるな」
「今日からしばらくお世話になるよ。 よろしく」
「堅苦しいことを抜きで、ほら、さっさとあがれ」
そう言ってオッサンは俺たちを中へと招き入れた。