■第三章 困ったin夢
■第三章 困ったin夢
「ごへっ!げほっ!」
紡ごうとした言葉は言葉にならず、ただひたすらに俺は咳き込んだ。
肺から水を吐き出す痛みに更に咳き込む。涙目で半開きした視界に、俺にすがって泣く千佳の姿が見えた。
「キョオちゃん、しっかりしてキョオちゃん! 良かった、帰ってきた……」
「千佳、千佳!」
俺は衆目を気にせず千佳を抱きしめた。涙まみれのみっともない恰好だが、そんなことより今は千佳を抱きしめることが何よりも大切だ。……あれ?
「千佳、俺、溺れたのか。助けてくれたのは千佳なのか?」
「うん……。キョオちゃん、責任、取ってね」
ポッと頬を染める千佳。ってことは……この展開は……もしや?
「キョオ君、ほら、証拠写真」
かおりが見せてくれたスマホの写メには、俺に人口呼吸する千佳の姿がしっかりと写っていた。ありありと写っていた。まざまざと写っていた。
俺も顔を真っ赤にしてうなだれた。ファースト・キスはもっとロマンチックに決めたかったのだが、こういうことになってしまった以上、腹を決めるしかない。
「ありがとうな、千佳。命の恩人だ。一生恩に着るよ」
「い……一生?」
「ああ。一生だ」
俺は千佳を見つめた。千佳だけを見つめた。
「キョオちゃん……」
「千佳。俺と結……」
「ハイそこまで」
勢いでプロポーズまでしてしまいそうだった俺を止めたのはA子センセだった。そういえば形の上では授業中だ。
A子センセの頬が引きつってるのはそのせいだけではないだろう。目が怒ってる。「こん餓鬼ゃ昼間からいちゃつきやがって」と言いたげな目をしている。
「皇君、あなた死にかけてたのよ。すぐに保健室行って診てもらいなさい」
「それじゃ私も付き添いで……」
「小日向さん、あなたは事情聴取よ。私たちには管理責任ってものがあるの」
同行を申し出た千佳は即断即決で制止された。だが、確かにプールの管理責任もあろうが、
「こんなイチャラブバカップルを保健室に行かせて不祥事を起こされてはたまらない」という意味での管理責任もほの見えた。
ああ、俺たちはもはや学校公認のイチャラブバカップルになってしまったんだな。もう後戻りはできないのか。そして俺は保健委員の松山に付き添われてめでたく保健室送りの身となったのであった。
◆◆◆
保健の小寺美子先生、通称B子センセは名前の通り美人で、浮いた噂も多い。先日かおりが誤報したのもそのひとつだ。だが噂が多い割には身持ちが固くて、実際に付き合っていたと特定される相手はいない。
で、このB子センセだが本日休診の札を保健室のドアに掛けて午睡中であった。
「先生、急患です!」
「あによぉ、お肌の曲がり角に睡眠不足は大敵なんだから」
「先生、それは何かとまずいのでは?」
松山とB子センセのやりとりにダブルミーニングを見て取って、俺はクスリと笑った。急患より睡眠を優先させるのと、自分がお肌の曲がり角であることを認めてしまうのとは、確かに両方まずいだろう。松山、お前意外と面白い奴だったんだな。
「ともかく先生、急患です。キョオがプールで溺れました」
「プールぅ!? 授業中でしょ、誰が使用許可なんて出したのよ」
「許可したのは知りませんが申請したのは物理の高品先生です」
「で、誰が溺れたって?」
「あ、俺ッス」
ようやく俺も会話に参加することができた。
「ん? え~と、皇君だっけ? 生きてるじゃん」
「死にかけました。だからA子センセがB子センセに診てもらえって」
「英子ぉ? また面倒持ち込んで……ん? 何で英子が出てくるのよ」
「プールの監督に高品先生が呼びました」
「あら、それじゃ管理責任は英子ね。皇君、大変ね、瀕死の重症よ」
「……何かA子センセに私怨がありそうッスね」
「意味不明のうわ言にうなされてるわね。たいへん、たいへん」
「じゃ、キョオ、お大事に。俺はプールに戻る」
「松山てめえヤバイからって逃げるのか!?」
「俺は保健委員。いついかなる時でも保健の先生の味方だ。ではさらば!」
「汚ねぇぞ松山それがお前の本性か!」
俺の不良組織と風紀委員会の他に保健委員会闇シンジケートでもあるというのだろうか。
まったくもって『やれやれだぜ』だ。
「はい、皇君こっち向く」
B子センセはペンライトを持ち出して俺の目を診察し始めた。
「若干のうっ血はあるものの正常範囲。はい、次は舌を出して……少し紫色ね。あら? リップクリームの匂い? まさか英子が人口呼吸したの?」
「いや、A子センセじゃなくて……」
「じゃ、誰?」
B子センセは乙女のように目をきらめかせて問い詰めてくる。
「センセ、グイグイ来ますね」
「恋バナは女のビタミンよ。なんだったらベッド使わせてあげてもいいし」
「バッ、お、俺と千佳はそんな関係じゃない!」
「チカ、チカ……小日向千佳さん?」
生徒名簿をパラパラめくって千佳の名を探し当てたB子センセは、ニヤリと妖艶に笑ってこう言ったのだった。
「ベッド使わせてあげるとは言ったけど、何に使う気だったの? 状態が落ち着くまで仮眠しても良いって言ったのよ」
俺はどうやら誘導尋問に弱いらしい。またもや一杯食わされた。結局その後俺がプールに戻ることはなく(さすがにB子センセの許可が出なかった)、残りの時間俺はエアコンで涼しい保健室のベッドで仮眠することになったのである。
そして三再度妙な夢を見たのだった。
◆◆◆
「キョオちゃん……キョオちゃん……」
千佳が囁く甘い声がする。そうだ、俺たちはどさくさ紛れにファースト・キスを遂げたのだった。意識がなかったのが残念だけど。
「キョオちゃん、責任取ってね」
ああ、もちろんだ。俺の大切な恋人。俺の命の恩人。希望的将来での俺の嫁候補オンリーワン。お前の為なら何だってするし何だってできそうだ。
絶対に千佳を幸せにする。絶対の絶対だ。
「キョオちゃん……大好き」
暗い空間の中に千佳の声が響く。その声が結晶して光の雫になり、千佳の姿に変わる。千佳の裸身は、それはそれは美しかった。
――ああ、これは夢か。
俺自身の願望が反映されているかと思うとあまりの軟派さ加減に情けなくなるが、しょせん夢は夢。コントロールしきれないのが夢という奴だ。
「キョオちゃん、これは夢?」
――ああ、夢だ。夢の中で千佳に指摘されるとは思わなかったが、夢だ。
「夢の中でもキョオちゃんに会えて嬉しいよ」
――夢の中? もしかして同じ夢を見てるっていうのか?
「キョオちゃんも私の夢みてるの? 何だか嬉しい」
――ああ、俺も嬉しいよ。
理屈じゃそんなことは起こりっこないと思うが、もしそんなことが起きたら素敵なことじゃないか。夢に理屈を求めるのは心理学者と占い師だけでいい。未知なるカダスを夢に求めるのはラブクラフティアンに任せる。夢の中ぐらい夢見てもいいじゃないか。
――千佳のドキドキが伝わってきてるよ……。
「これが共感? キョオちゃん、時が見える……」
――こんな時までアニメネタかよ。
そんな千佳の様子が普段そのままで微笑ましいから、同じ夢、という不合理も認められる。
――千佳。これからもずっと一緒だ。愛してる。
夢の中ならこんな小ッ恥ずかしいことも言える。現実じゃ照れくさくてまず言えない。
「はわ、さすが夢だ。キョオちゃんがキザったらしい」
――放っとけ。キザったらしくて悪かったな。夢なんだからいいじゃないか。
俺は千佳をギュッと抱きしめる。固く、強く、優しく。千佳も腕を回し、俺たちは抱き合う形になった。願わくは今ひと時、この幸福な夢が醒めないように。
夢の中なのに千佳の身体は柔らかい感触を与えてくれる。まるで夢ではないかのように。さっきプールで抱きしめた記憶がリフレインしているのだろうか……。だがやはり夢は夢。いつまでも続くものではないのであった。残念なことに。
パコン! パコン!
「みぎゃっ!」「ふばっ!」
保健室のベッドの上で俺は目を醒ました。枕元には丸めたノートを持ったB子センセ。そして右手に柔らかい温もり。千佳がしっかりと握っていたのだった。
「経過は良好、帰っていいよ。もう放課後だからみんな帰っちゃったわよ」
「はぅ。おはよう、キョオちゃん」
「健気な良い子だね。5時間目が終わってからずっと付き添ってたんだよ」
「ごめんね、キョオちゃん。今、プール疲れかな、ウトウトしちゃった」
「そか。いい夢見たか?」
「う……うん」
ギュ。俺の右手を握った千佳の手に力が入る。もしかして、本当に同じ夢を?
「俺もいい夢見たよ。千佳の夢」
「えっ、それじゃ……」
パコンパコン。B子センセのノートが再び俺たちを叩く。
「保健室のベッドはラブホテルじゃないのよ。そういうことは自分たちでお金を稼いでからそういうところでするように」
ああ、B子センセまで俺たちをイチャラブバカップルだと認定してしまったようだ。確かに今日一日で俺たちの中二病的相棒関係は発展的解消を遂げてしまったらしい。初めての喧嘩に番長の秘密の露呈、プールでの臨死体験と覚えてないけどファースト・キス。本物の恋人になった……のかなぁ。
とどめにさっきの妙にリアルな感触を伴った夢。疾風怒濤とはまさにこのことだ。
そして俺たちはB子センセに追い出されるように保健室を後にした。かおりも既に帰ったらしく、放課後の独占インタビューは明日ということだろう。
俺は千佳を家まで送り届けてから帰途についた。夕日はまだ沈みきってはいなかったが、なんとなく別れ難かったからだ。結局互いに話を切り出しにくくて、本当に同じ夢を見たのかどうかの確認はできずじまいである。
それでも夜の電話で聞けばいいと考えていたのだが……俺が溺れたという連絡が家に届いていたため、大げさに慌てた親は俺を検査入院させてしまった。そのため俺たちはせっかくお互いの気持ちを確かめ合ったのに音信が途絶してしまうことになったのである(病院のためスマホは没収)。
親父、マメなコミュニケーションが恋愛を育む大事な要素だと言ったのは親父じゃないか。 息子のそれを邪魔するとはどういう了見だ。責任者出てこい。ああ、溺れた俺のドジが原因だから責任は俺にある。さあ、困った。
公衆電話はあるのだが、肝心のスマホの番号が分からないから掛けられない。普段メモリーにいかに依存しているかがよくわかる事態だ。千佳のスマホ番号を知っているかも知れない友人がいないではないのだが、その番号も分からない。八方手詰まりだ。
千佳は今頃電話を待ちわびているだろう。あるいは心配して電話をかけてきてるかもしれない。メールだって打ってるだろう。何もできない俺は。
ただの子供だった。