ニルヤの森
オチがありません。旅人と少女の一幕です。
ーー贄決めの日が来た。ニルヤの森から少し離れた草原にある、大きな村が一番に活気づく日だ。今年は誰が選ばれるのか、みんながそわそわと浮き足立っている。
この日に旅人がやって来たのも理由の一つかも知れない。
大した特産品もない、名前すらついてないこの村に旅人が寄るなんて、それは珍しい事であったし、娯楽なんてものが存在しない村では旅人の知識や語り話しは酷く魅力的な娯楽になる。
この日は贄決めが始まる夜まで、村の広場で旅人を囲んでの宴が開かれた。
「旅人さんはいつこの村を発つんだい?」
「明日の朝に発とうと考えてます。明日はもう少し陽が弱まればいいんですけどね」
旅人は汗を拭って、燦々と照り付ける太陽を睨んだ。
「あぁ、この日射しには参るね……まぁ、ゆっくりしていきな。今日は贄決めもあるしね」
「贄決め? それはどんな行事なんですか?」
村人達から時折聞こえる言葉を旅人が聞いた。
「あれ? てっきり俺達は旅人さんは贄決めを見に来たのかと思ってたんだが、知らないのか?」
村人の一人が疑問の声をあげて首を傾げる。
「えぇ、すみません、良ければ聞かせて貰っても?」
旅人の申し訳なさそうな声を聞いた村人は昼間だというのに酒を並々とコップに注ぎ一息で飲み干して、旅人に簡素に説明した。
贄決めは、この村の安全祈願を祈って行う祭で、贄決め石によって村の中から一人を選び出す。選ばれた一人はニルヤの森に捧げられる。そうする事で村はニルヤの森に棲む魔物から襲われなくなる、と。
「……しかし言葉の通り贄決めなんですね。ニルヤの森に棲む魔物を退治するとか、贄を出さない方法はないんですか?」
旅人は思わず顔を顰め、疑問を村人に聞く。
「馬鹿言っちゃいけねぇ……旅人さん、この村にはこの村のしきたりや歴史があるんだ。名前もないような村だが、この村が今日まで続いてるのはニルヤの森と贄決め石のお陰なんだ。それに、この村では贄に選ばれるのは誇りなんだよ」
村人が親の仇でも見るかのような厳しい目で旅人を睨んで言う。そのあまりの剣幕に旅人が黙ると、村人は胸を張り、去年は俺の嫁が贄になったんだと自慢気に笑って語った。
旅人はそれ以上贄決めについて何も言わず、その村人から離れた。他の村人に旅の語り話しをせっつかれたせいでもある。
そして日も暮れだし、空に二つの月の目が付いた頃、贄決めが始まった。
贄決め石と呼ばれる大きな水晶の周りを村人達が歌い、踊りながら順に触って行くのを、旅人は少し離れた場所からぼんやりと見る。軽快な歌に、踊り。生け贄を決めるなんて物騒さの感じない、美しい祭りだ。
先に年の暮れた大人から、次に生まれて間もない赤子、若い大人へと続き、贄が決まらぬまま、最後に少年少女の番が訪れる。子供達は自分達の中から贄が決められるのだと、今までよりも一層大きく騒ぎだす。
少年少女が笑いながら軽快なステップを踏んで、贄決め石に触り始めたその中で、旅人はいつの間にか、一人の少女から目が話せなくなっていた。
「…………アルビノか」
旅人は思わず口に溢す。旅人の目が追う少女は全身が白く、そして病的に細い。昼間、語り話しを聞きにきた村人達の中には見なかったのは、家の中で日射しを避けていた為だろうか。
白の少女が贄決め石に近付いていくのを見て、旅人は顔を顰めるーー嫌な予感がする。それはまるで予定調和だったかのように、何の変化もなかった贄決め石に変化をもたらす。
白の少女の指先が触れた瞬間に贄決め石が光を放った。
瞬間、軽快な歌は止み、村が一瞬の静寂に包まれる。そして次の瞬間には拍手と歓声が村に響き渡った。
「やったなっ! レイル! おめでとうっ!」
「おめでとうっ! レイルっ! あなたが羨ましいわっ」
レイルと呼ばれた白の少女が村人達に囲まれ、口々に褒め称えられる。その光景だけを見れば微笑ましいが、それがどういう意味を持つのか知っていた旅人には違和感しか残らなかった。
贄に選ばれた白の少女は明日の昼、ニルヤの森に送られるらしい。旅人は白の少女と話してみたいと思ったが、少女は村人達に囲まれゆっくり話す事など出来そうにない。結局、その日旅人は白の少女と話すことはなかった。
その日の晩、旅人は、家に泊まらないか、という村長の申し出を断って空いている民家を宿として借りた。
まだ日も出ていない暗い早朝に旅人は目を醒ます。昨日、進められるままにお酒を飲み過ぎたのがいけなかったかもしれないと思いながら、ふらつく身体を動かして宿の外に出る。しばらく村をさ迷い井戸を見つけると、服を濡らさないように気を付けて頭から水を被った。
濡れた頭を降って水気を飛ばした後、すっかり目の冴えた旅人は村人達が起きてくるまで村の散策をしようと歩き出す。
静寂に包まれた村は、色んな場所を見てきた旅人にとってさして珍しい物はなかったが、一つだけ、旅人は見ておきたい物があった。
……贄決め石。そう村人から呼ばれ、大切にされている大きな水晶は村の中央に祀られていた。
「…………こんなものが、人の命を選別するのか」
水晶を守るように立てられた柵を越えて旅人は水晶に触れる。
水晶は旅人に反応して光を放ち、旅人の手が離れると光は吸い込まれるようにして消えていった。
「……あの、旅の人、ですよね?」
ふと、鈴のような空気に溶けるような声が旅人の鼓膜を鳴らす。
肩を震わせた旅人が振り向く前に、鈴のような声は続けた。
「村の人に見られる前に、贄決め石から離れた方がいいですよ……見つかったら、凄く怒られると思います」
「っ……あぁ、ごめん、やっぱここって入っちゃ駄目だよね、直ぐ出るよ」
旅人に声を掛けたのはレイルと呼ばれていた白の少女だった。少女に気付いた旅人は内心安堵していた。軽率な行動だったと。もし旅人を見つけたのが他の村人だったなら村総出で吊し上げにされる可能性だって大いにあったのだ。旅人は咄嗟に胸の内ポケットに入れていた左手をそっと引き戻す。
「君はたしか、昨日贄に選ばれた子だよね? ……よかったら少し話をしないかい? あ、それとも、もう出発するのかな?」
「いえ、まだ時間はあるので、いいですよ……旅人さんは、私の色、気にならないんですか?」
昨日は遠目でしか見ていなかったが、改めて近くで見る少女は空に流れる雲よりも旅人には白く見えた。白に埋め尽くされた中で、唯一色彩を放つ瞳は、貴族が身に付ける紅玉よりも澄んだ緋色を周囲から集めた微かな光を集めて放っている。
「気にはなるかな……ただ、綺麗な色だと思う。俺は旅をしてるからね、君のような人にあったこともあるよ」
「あ、ありがとうございます……私と同じ人? その人も全身白いんですか?」
「ああ、その人は自分の事を『何色にもなれる自由の色だ!』って笑って言ってたよ」
少女が自分の白い髪を手にとり見つめる。
「何色にもなれる……自由の色……」
「そうだよ。白は始まりの色だから……君は昨日の語り話しを聞いてなかったよね、少し、聞かせてあげよう」
昨日、村人にした語り話しを同じように手振り身振りを交えて話す。それは旅人自身の体験であったり、旅人が他の旅人から聞いた話しだったりを少し旅人風に着色した物語だった。
陽の下にあまり長くは居れない少女にはそれは夢の世界の物語だった。話しを語り終える頃には頬に朱が差すほどに少女は興奮していて、笑顔が浮かんでいる。
「旅人さんは、素敵な世界を旅しているのね。私はこの村から出た事なんてないから……楽しいお話ありがとうございました」
頭を下げた少女の顔に一瞬の陰りが差したのを旅人は見過ごせなかった。
「どういたしまして。君のように楽しく聞いてくれると、俺も嬉しいよ…………なぁ、贄になることを君は受け入れているのかい?」
「……そんなの、当たり前です。贄に選ばれるなんて、光栄な事ですよ。たいした労働力もない病弱な私が村一番の栄誉を頂いたんですっ、まるで夢のよう!」
少女は何の疑問も持たずに旅人の質問に笑顔で答えた。少女にとってこの村がすべてであり、真実だった。
それがわかっても旅人は納得がいかず、頭を乱暴に掻く。
「…………贄になることがどういう意味を持つのか、君は理解しているのか? 俺だったら、贄なんてなりたくはない」
気付けば、旅人は少女を助けたいと思ってしまっていた。勿論、少女はそれを願いはしてない。そもそも、少女には贄になる事に不安があっても不満はない。
「それは、旅人さんだからですよ……ニルヤの森でどうなるかなんて私には分かりません。でも、そうする事で村のみんなが平和に過ごせるようになるんですよ」
「これからずっと家族に会えなくなるんだよ? 孤独になるんだ、何より……死ぬかもしれない」
旅人は少女が贄になる事を拒否するように恐怖を抱かせようとしている自分に吐き気がしていた。少女の肩を掴み、その緋色の瞳を覗きこむ。
「…………今更、何も出来ません。これは昔から続いてる事です。覆すことなんて……村を、家族を守れるのは選ばれた私だけなんです」
少女は首を振って旅人に言う。強い意思の込められた言葉に、それでもと旅人は口を開くが、続きを言葉にすることは出来ずに少女の肩から手を離す。
「おーいっ! レイルー!」
遠くから少女の名を誰かが呼んだ。旅人がふと、辺りを見回すとすっかり明るくなり、村人達も起き出している。
少女は旅人に頭を下げた後、呼ばれたほうへ駆けていく。旅人が見上げた空はどんよりとした雲に覆われていた。
着々と少女がニルヤの森へ出発する準備をする間、旅人も出発の準備を始めていた。これ以上村の事に介入してしまわないように早々と出た方がいいと判断したのだ。何より、旅人はこの村があまり好きになれなかったし、村の異様な雰囲気を感じた為もある。
旅人が準備を終え、村長に挨拶にいくと、そこには少女の姿もあったが、旅人に気付くと顔を隠すように俯けた。
「おぉ、旅人さん、もう出発するのか? 贄の見送りに参加していってからでは駄目だろうか? この子も喜ぶ」
旅人が言葉を出す前に村長が旅人に気付いて笑いかける。
「いえ……そうですね、折角ですし、そうしたいと思います」
旅人は断ろうと口を開いたが、村長の横でじっと俯いている少女の姿を見て、考えを変えた。
少女がニルヤの森に出発する時、旅人が少女を見て抱いた感想は、どう転んでも賛辞とは呼べないものだった。
服装こそ綺麗なものに仕立てられていても、手足は縄で解けないように結ばれている。ーーまるで島流しにされる罪人のようだーー旅人は浮かんだその言葉を頭を振って振り消した。
口々に少女へ唱われる村人の賛辞が旅人の胸を抉るように刺していく。
少女はこれからニルヤの森への帰省本能を持つ馬の馬車に乗って一人、送られる。手足を縛られているために途中で逃げることも出来ずに、贄となる。
餓死か、あるいは魔物の餌になるか、旅人は吐き気を抑えるのに必死で口に手を当て顔を俯けた。それは今更、自分が少女にしてしまった罪への後悔のせいでもあった。
一頻り、少女への賛辞が送られた後、少女は涙を溜めた瞳を村人に向けた。
「……ありがとう、ございます。村のために贄に、なれるなんて夢のよう……でもっ……私っ、まだ、死にたくなぃっ……」
少女の声が詰まった。旅人がハッとして少女を見ると、少女は涙を流していた。顔をくしゃくしゃに歪めて、嗚咽を必死に堪えている。少女の腫れた頬を見て、旅人は先程、村長の所で彼女がじっと顔を俯けていた理由を知る。
村人の数人が泣き出した少女を強引な手つきで馬車に押し入れたのを見て、
「ま、まって、待って下さい! やっぱり、間違ってますよ! 生け贄なんてっ」
旅人は思わず、声を荒げた。あまりにも少女の泣き顔が悲痛を帯びていて、その原因を作ってしまった罪の意識で。
「おいっ、何言ってんだ! 旅人さんよ、贄はこの村の栄誉ある役なんだ! それを汚すような事を言うんじゃねえっ!」
昨日、贄決めについて語った村人が顔を真っ赤に染めて旅人に掴みかかって吠える。
「栄誉だって? 子供が泣くような事が栄誉なのか!? そんなの違うに決まってる!」
「違わないっ! 贄になることで村を救える! 嫁さんが、みんなが、そうして今の村があるっ! 昨日来ただけの余所者が、口を挟むなぁっ!」
「あんた達はっ、そうやって正当化してるだけでしょう!」
旅人は村人の手を振り払って言った。この村はおかしいと。魔物が怖いなら助けを呼んで退治すればいい。それが出来なくとも、違う土地に逃げればいい。古いしきたりや風習、あの水晶に囚われたあんた達の方がよっぽど魔物なんだと。
旅人が叫んだ後、村人はみんな静かだった。そして旅人を見る瞳は暗く淀みきっていた。けして、旅人の言葉が届いたような顔ではない。
静まりかえった村の中で、旅人は後ろから足音が近付くのを耳にしてーーそして意識が途絶えた。
「おい、紐を持ってこい。こいつも贄だ。今朝、贄決め石に触ってるのを見た。縛って馬車の中に放り込め! 持ち物を取るのを忘れるな。逃げられたら厄介だ」
旅人を後ろから殴り気絶させた村長が指示をだすと、反論の声もなく全員が動きだす。あっという間に旅人は縛られて馬車に入れられると、馬を繋いでいた縄が外され、御者のいない馬車はニルヤの森へ駆け出した。
ーーーーーー
がたがたと揺れる振動で旅人は目を覚ました旅人は、後頭部に走る傷みで顔を顰め、自分の状況を理解する。手足は少女と同じく縄によって頑丈に縛られ、身に付けていた道具などを全て取られているようだ。
「…………はは、これは、自業自得かな。やっぱり余所者は深入りするべきじゃあない」
言って、旅人は靴と服を剥がれなかったのは村人の恩赦かな、と愚痴る。
「私の、私のせいですね……私が泣いたり、したから……」
旅人は縛られた体をどうにか起き上がらせると馬車の片隅で丸く蹲る少女を見た。馬車に押し入れられた時に何処かで打ったのか、腕に赤い腫れが浮かんでいる。
「……君のせいじゃないよ。これは自業自得。俺は馬鹿だからね、結構色んな所でドジるんだ。これがなかなか治らなくてね。これからの旅先でいい薬でもあればいいんだけど」
「もう旅人さんは旅、出来ませんよ……ニルヤの森に走って…………私、やっぱり死ぬのかな……」
少女が声を上げた。がたがたと揺れる振動で蹲りながら倒れて、少女は泣いていた。
「ーーーー怖いなら、逃げようか」
旅人は軽い口調で、物語を話すように喋りだした。
「君が死にたくないなら、今から抗えばいい。縄なんて些細な邪魔でしかないよ。ここには俺と君しか居なくて、俺と君、二人も居るんだ。死なないよ、二人なら怖くない」
それは旅人の強がりで、虚勢である。けれど、縄をほどく策はがないわけではない。問題は縄をほどいた後、どうするか。
少女が涙を流しながら、旅人を見る。旅人は今朝、語り話しをしていた時のように優しく少女を見つめていた。
「……死な、ないの? 私、死ななくても、大丈夫なの?」
「あぁ、旅って、実は危険な事ばかりでね。俺達旅人は死なないための知識と技術を沢山持ってるんだよ」
旅人が口をもごもごと動かして、唾と一緒に何かを吐き捨てる。
少女が見たそれは鉄か銀か、鈍色に光る石のようなものだった。
旅人は「ほら、見てみて」と、少女に口を開いて見せる。
「え? 魔物の、牙みたい……」
旅人の犬歯があったはずの場所には、刃物のように尖った鋭利な刃が付いていた。
「痛てて、これ、口の中切っちゃうから嫌なんだよね。あはは…………うぐ……ん……ちょっと、俺の手の縄には刃が届かないな……前歯を変えとけば良かった」
旅人が口の中の刃で手首の縄を切ろうとするが、手首の太さのせいか、なかなか切れないようだ。
「うぐぐ、はぁ、駄目だ。よし、君のを切ろう!」
「え? あ、ちょっとっ! ……んっ!」
旅人が自分の縄を切るのを諦めて、少女に近づくと、何かに乗り上げたのか、馬車が跳ねて揺れた。当然、旅人も少女も手足を縄で縛られていて、近付いても体を支える事が出来ない為、旅人が少女にのし掛かるように倒れこんだ。どんっ、と、馬車が再び揺れる。
「おっと……ごめんよ。よいしょ、手首、ちょいと気持ち悪いかも知れないけど、我慢してくれよ」
「え、あ、あのっ、まってっ! んんっ! いやっ、旅人さっ! ん!」
倒れた少女の頭の上、縛られた両手首の間にする旅人の吐息と唾液、口の感触に少女が旅人の胸の下で声を上げた。
「もう少し……うぐ……はあっ! よしっ! 切れた! ごめんね、今退くよ」
旅人が声を出した瞬間、少女の手首を縛っていた縄が緩み、圧迫感が消える。
「はぁ、はぁ……ありがとうございます……でも、いきなり、過ぎます……」
息苦しさか羞恥か、少女が顔を赤らめて旅人を睨むと、旅人は申し訳なさそうに、ごめん、と少女へ頭を下げた。少女は頭を下げる旅人に何も言わず、自由になった両手で足の縄を外すと、旅人に近付き手首の縄を外す。旅人が顔を上げた時、まだ少女の顔は赤く色づいていた。
「あ、ありがとう…………うん、これで俺も君も自由だ」
旅人も少女にした行為に気まずく思いながら、足の縄をほどいた後、先程吐き捨てた仮歯を服で拭って、口の中へ戻しながら窓の外を見ると、森が見えてきていた。
「これから……どうするんですか? 馬は奥地に着くまで止まりませんよ……」
少女が顔顰める旅人を見て言う。
「……何かに掴まって身構えといて。俺は馬と馬車を繋ぐ縄を外しに行くから」
「た、旅人さんは大丈夫なんですか? 危ないんじゃ……」
「大丈夫。言ったはずだよ、死なないための知識と技術がある」
旅人は少女の言葉を遮るように言って、馬車の御者席へと出た。
森がどんどんと迫っているが、幸い、馬が疲れているのか、それとも老いた馬なのか速度が出ていない。しかしこのまま進めばそう遠くない内に木々にぶつかる。
旅人は急いで縄を外し始める。しかし、馬が引っ張り続ける縄は締まりが強く緩む気配がない。焦る旅人が縄から目を反らすと、縄と馬車とを繋ぐ金具と木板の部分が腐蝕しているのが目についた。
ーー旅人が御者席に向かった後、少女は考えていた。
朝、旅人から言われた言葉でこれまで疑問に思わなかった事が頭を埋め尽くして、死ぬ、という事を考えた時に、言葉に表せない恐怖が身を包んだ。
恐怖にすくんで、村長に相談すると無言で頬を殴られた。
『この恥知らずがっ! 村の栄誉を汚す気か!? お前の母親は喜んで贄となったのに、お前は自分の母親を汚すというのか!』
そう怒鳴った村長の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
村を出る時、手足を縛られた時には終わりだと感じて、思わず涙が流れた。
そして、いまは、助かろうとしている。
死にたくない。けれど、贄になることをやめてしまっていいのか。自分が贄にならなかったら村はどうなるのか、自分だけが助かってもいいのか。父親はなんと言うのか。
少女は村人が自分の身体の色を気味悪がっていたのを知っている。しかし、自分にそれを感じさせないように振る舞ってくれていた事も知っている。
みんな、優しくしてくれたのにーーーー少女はずっと、考えていた。旅人が御者席から声をあげる。
「何かに捕まって! 衝撃が来るよ!」
旅人が言い、少し間が開いて馬車に大きな音と衝撃が走る。
少女の視界がぐるりと回り、強かに頭を打ち付けた。
少女が頭を押さえながら目を開くと、馬車は横転しているようだった。頭の上にある扉を押し開けて外を見ると、少し離れた場所に森が見える。恐怖は沸いてこなかったが、少女はハッとして辺りを見回す。
「……旅人さんは? どこ? ねぇ! 旅人さんっ!」
「あー、死なないとか言っときながら、死ぬかと思ったよ。君は大丈夫だった?」
少女が後ろを振り返ると、旅人は服をぼろぼろにして笑っていた。旅人が無事だったのに安心すると、少女は馬車から降りて、沈痛な顔を浮かべて旅人に言う。
「……ごめんなさいっ! 私のせいで! 旅人さんに怪我までさせて、助けてもらって…………でも、やっぱり私、贄にならないといけないっっ」
「……それは、なんで? 村の為にかい?」
旅人が眉をひそめて静かに聞いた。
「…………私が、贄にならないと、私、みんなと違う色してて、体も弱くて、悪口言う人もいたけど、優しくしてくれた人も沢山いて…………その人達を死なせたくないからっ…………」
「君を殴った村長や、馬車に無理矢理押し込んだ人も、君は助けたいの?」
「……みんな、死ぬのは怖いと思うんです。目を瞑っているだけで……私はみんなを助けたい」
「そっか、君は強いね。君はいま、自由だよ。君が全てを決めればいい」
旅人は少女の真剣な瞳を見て、笑って言う。自分を犠牲にしてまで他人を助けたいなんて、古書に書かれた天使という生き物を旅人は思いだしていた。
「ふふっ、自由かぁ、私の色ですね」
「ああ、自由ってのは綺麗なものだ。俺達、旅人が求めて止まないものでもある」
少女は歩き出した。次いで旅人も少女の横に並ぶ。二人の足は森に向かっている。
「旅人さん、ありがとうございました。私はもう、大丈夫です。旅人さんは、これからどうするんですか?」
「そう、それは良かった。俺は君に余計なことを言って困らせてしまったからね、その罪滅ぼしをしないといけないな」
少女が旅人を睨んだ。それはもう旅人を巻き込めないという意思表示だったのだが、旅人は無視するように空を仰ぐ。
「旅人さん、こっちは森ですよ。危険ですよ」
「じゃあ、君も、そっちは森だから危ないよ? 俺は、ほら、馬も森に逃げてしまったし、荷物も没収されてしまったし。何か腹の足しになるものを調達しないといけないからね」
「む、私は贄になりに行くんです。私はいいんですよ」
少女が言って、旅人が言い返す。それは森の入口に着くまで続いた。暗く闇を孕む森はそれ自体がまるで、大きく口を開いた魔物のようだ。
「怖くない?」
旅人が少女に聞く。少女の瞳に怯えはなく、ただ森の奥を見つめている。
「怖いですよ。だけど逃げはしません。旅人さんは、本当に私に着いてくるんですか? 死ぬかも知れませんよ」
次は少女が旅人に問う。旅人はただ笑って、
「旅って実は危険が多くてね、死なないための知識と技術を沢山持ってるんだよ」
そう言った。
「なんで、ですか? なんでここまでしてくれるんですか?」
「……君が自由の色を持ってたから、最初は気になったんだ。でも、それは切っ掛けでしかなくて、多分、俺は誰が贄になってても同じ事をしたと思う」
旅人はそう答えて、続ける。
「ただ、勘違いをしないでね、俺は死なないよ。俺の目的はここにはない」
「目的って、旅をしてる理由ですよね……何か、ううん、やっぱり聞きません。さぁ、行きましょう」
少女は頭を振って、進み出す。少女の心にはまだ旅人と一緒に居たいと思う気持ちがあったが、それが大きくなる前に早く贄になってしまいたかった。
「俺の目的はね、自由を見つける事と、もうひとつは人探し。趣味でお節介な人助けもしてる。君に着いていく理由は人助けだね。ただ、俺の偽善による俺の為の人助けだから余計なお世話でも、助けられてね」
少女の後ろから追いかけてきた旅人が笑い、少女も旅人の言葉に笑った。瞳から溜まった涙が零れる。
「ふふ、私、助かるなんて思いませんよ。だって今まで贄になって帰ってきた人は居ませんから。でも……嬉しいです」
「俺って、信用ないな、まぁ、昨日今日あったばかりの奴を信じられるわけないか……あっはっは、まぁ、助かったら信用してね」
そうして、少女と旅人はどんどんと森の奥へと進んでいった。
森からは少女と旅人の楽しげな会話が暫く続き、やがて聞こえなくなる。ニルヤの森は魔物のような口を広げて、ただ佇んでいた。
ニルヤの森には人食いの魔物がいる。この噂が何処からか広まり国から討伐隊が結成されるのは何年か後の話。