王子が婚約破棄を宣言しましたが、理由の「顔」は数学サロンが論破するようです
「レイフェーナ、お前との婚約を破棄する」
婚約者のアルフォンス王子から告げられたのは、婚約破棄の宣言でした。「ついにやってしまったか」とわたくしは目を伏せます。周りにいる仲間たちは、先程の和気あいあいとした様子とはうってかわって目を見開き、静まり返っています。
「アルフォンス王子、理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
理由次第で対応を変えるとか、そういうわけではありません。
どんな事情があれど、婚約を破棄したほうが有責なのです。それを、この馬──王子が知っているかは置いておいて、ですが。
わたくしが何故問いかけたかというと、単なる好奇心です。わたくしの全てを嫌っている王子が、何を理由として婚約を破棄するのかが気になったのです。
王子は「よくぞ聞いてくれた」というように堂々と言い放ちました。
「それは勿論、顔だ」
わたくしは思わず頭を抱えたくなりました。何故その回答で胸を張っていられるのでしょうか。
「容姿を理由にした契約の破棄はできませんよ。リルノース国憲法の第25条に反します」
「そういうところもだ。何かにつけ頭がいいことを自慢しようとする!」
いいえ、貴方が婚約を破棄することを危惧して調べておいただけです。
心のなかで呟いている間にも、王子の主張はとまりません。
「私の婚約者であるくせに、私より高い成績を修めるし、ときどき送られてくる手紙にも私がしらない言語を使って頭脳マウントをとってくるではないか!」
……それは聞き逃せませんね。
周りを見ると、仲間たちがわたくしの方を向いて興味津々な顔をしています。
「差し出がましい発言をお許しください。──レイフェーナ様、一体何語でお手紙をしたためたのですか?」
サロンに同席していた青年が、わたくしにそう問いかけました。わくわくした気持ちを隠せていません。彼はエルヴィン、趣味は言語学です。
「もしやレイフェーナ様、最近流行りの古代精霊語で?」
「いやいや、この間は遊牧民族の言語にハマっているとおっしゃっていたぞ」
「最近発表された人工言語、ルファンティアの線もありましてよ!」
サロンのみんなが好き勝手に想像を広げていきます。
彼らは全員王立貴族学院の学生で、趣味は言語学です。
そう、ここは言語学の趣味を持つ学生が集まった言語学サロン。毎日のように言語に関する議論とマシンガントークが交わされています。
……王子ですか? う〜ん、なんでついてきたんでしょうね。
どうやらあまりにもわたくしが楽しそうな様子でサロンに向かうので、いろいろ疑ったのではないかと思います。しかし、それならこの場で婚約破棄を宣言する必要もなかったような……
まぁ、仕方ありません。王子ですから。
期待に満ちた目でこちらを見ているみんなに、わたくしは口を開きました。
「なんてことはない、ただの筆記体ですよ。私達の話す、ツァイゲル語の筆記体です」
わたくしとしてはみんなが残念がるような返答のつもりだったのですが、さらに沸きました。「さぞお綺麗なのだろう」だとか、「一度見てみたいものだ」などという声が聞こえてきます。
……一般的な文字ですよ。
一方の王子は顔を赤くして慌てた様子です。ようやく気づいたのでしょうか、自分の勉強不足に。
「い……いや、習っていない! 筆記体など授業では習わなかった!」
サロンの空気が一気に凍りつきました。誰しもが、王子の方を見ています。その目は、「ありえない」という感情をありありと映し出していました。
誰も喋らないので、仕方なくわたくしが沈黙を破ることにします。
「お言葉ですが、王子。筆記体は学院初等部の最初の方で習ったはずですよ」
そう。筆記体は初等部に入りたての小さな子どもたちでも書けるし、読めるのです。まさか、一国の王子が読めないなんて思いもしませんでした。
「……私達の国の王子は、自国の筆記体を読めないというのか……?」
誰かがぽつりと呟きました。言語学を追究する身として、信じがたい事実なのでしょう。わたくしもさすがにこれは想定外です。
ざわめきの波は広がり、サロンの面々が顔を見合わせながら囁き合います。
王子は口をぱくぱくさせながら、必死に言葉を探しているようです。
少し、ざわめきが大きくなってしまいましたね。これでは他のサロンの迷惑になってしまうでしょう。
わたくしは騒ぎを収束させるため、口を開きました。
「王子、これはどういうことでしょうか?」
王子は顔を強張らせ、必死に言い返しました。
「そ、それはだな……!」
「ほう、それは?」
今や、サロンの誰もが王子に良い印象を持っていません。
「王族には、王族専用の教育というものがあるのだ! 筆記体なんかに時間を割いている暇は……!」
王子の言葉に、そこにいた全員が反応しました。
「筆記体なんか、ですか」
「自国語の筆記体が重要ではないと」
「どう考えても暇ですよね?」
……それ以上はマズいですよ。こんな王子でも一応王族ではあるため、不敬罪が適用されてしまうので。
あきらかな敵意に、王子は怯みました。
そのときのことです。
「なにやら騒がしいようだが」
扉の方から、ノックと落ち着いた声が響きました。どうやら騒ぎを終わらせるのが少々遅かったようです。
そちらを向くと、想像した通りの数人の学生が立っていました。
「申し訳ありません、少し議論が白熱してしまいまして」
王子が筆記体を書けないどころか読めませんでした、なんて言えません。一応わたくしの元?婚約者なので、そんな話が広まったらわたくしの恥です。
「議論、ですか」
一人の青年が、わたくしの方へ歩み寄ってきました。彼、カールは数学サロンのエース格の実力者です。
わたくしは口ごもりました。あまりこの騒ぎを自分の口から言いたくありません。
「カール様、アルフォンス殿下がレイフェーナ様の顔を理由に婚約破棄をなさったのですよ」
わたくしの近くにいた女の子が代わりに伝えてくれました。あとで感謝を申し上げなければですね。
「顔を理由に、ですか?」
カールは心底不思議そうな顔で、わたくしと王子の顔を交互に見つめました。
彼らが数式を前にしたときのような、真剣な視線です。
それからカールは少し首を傾げました。
「本当に顔が理由なのですか? レイフェーナ様の顔は極めて整った顔立ちですが」
「そんなわけあるか! いつ見てもむかつく顔立ちだろ」
王子の間髪入れない返答に、カールは小さく息を吐きました。
「美醜の好みは一人一人違いますし、そもそも人を容姿で判断するべきではありませんが……
レイフェーナ様の顔の縦と横の比は、見たところ理想とされる、1:1.618で、所謂黄金比です」
その場にいた王子以外が息を呑みました。かの有名な絵画「カタ・リナ」にも用いられたとされる黄金比。それがわたくしの顔にあるというのですか?
「黄金比は人間が最も美しく、安定していると感じる比率で、正確に言うと1:2分の1+√5です。a:bが黄金比ならば
a:b=b:(a+b)が……」
さすが数学サロンのメンバー。語り始めると止まらなくなってしまいました。
「カール、止まってくださいませ。その……黄金比が数学愛好家にとって魅力的な題材であることはわかりました」
わたくしがストップを掛けると、カールは咳払いをしました。
「つまり、少なくとも数学的には婚約破棄の理由にはならない上、容姿を理由に人を貶すなど言語道断、ということを私は言いたいのです」
サロンのみんながざわめきます。
「さすが数学サロンのエースだ……」
「数学の才能だけでなく、道徳心にあふれていらっしゃる」
それに対して、王子には厳しい目が向けられます。
「それに対して、王子は……」
「人の容姿を貶す発言を堂々と言うなんて」
サロンの視線が、一斉に王子へと向かいます。
「それ、は……」
たじろいだ王子は、言い返そうとしたものの言葉が出てきません。
そのとき、カールが静かに口を開きました。
「アルフォンス王子」
それはまるで、何かの宣告のようで。王子は肩を震わせました。
カールは王子に呼びかけながらも、向いているのはわたくしの方です。その頬が心なしか赤く見えるのは、気の所為でしょうか。
「王子がどうお考えかは私の知る限りではないのですが。
……少なくとも私は、黄金比などは関係なく、レイフェーナ様をとても魅力的に感じています」
サロンが、一斉に沸きました。
わたくしの顔は、一気に耳まで熱くなります。
……それは、それはつまり、そういうことなのですか!?
おそるおそるカールに目を向けると、彼の優しい瞳がキュッと細められました。
婚約者があんな様子だったので、このように真っ直ぐな言葉を頂いたことは初めてです。
「あ、あの、ありがとうございます」
そう感謝を伝えるだけで、精一杯でした。なんだか、胸があたたかいというか、なんとも言えない心地よさを感じるのです。
いつまでもこの気持ちに浸っていたいような気がしますが、そのような場合ではありません。まだ、処理することが残っています。
サロンのみんなからの視線を感じながら、わたくしはアルフォンスに言いました。
「……王子、今度保護者も交えて一度話し合いをしましょう」
「な……何故だ!? 私は悪くない!」
……まだ、そのようなことを言うのですね。
「何を言っているのですか、貴方が始めた物語ですよ」
アルフォンスは口を閉ざしました。
きっと、彼はこのままの地位を保つことはできないでしょう。
王子が退室させられたあと、わたくしはサロンの部屋のバルコニーに出て頭を冷やしていました。
……いえ、頭よりも顔を冷やす方が先ですね。顔から赤みが引きません。
外で活動している運動系のサロンの様子を眺めながら、わたくしは顔を押さえたりして動揺を鎮めます。そこに、背中から声がかかりました。
「レイフェーナ様」
顔を見ずともわかります。カールです。わたくしはゆっくりと振り向きました。そこには想像した通りの顔が、少し困ったような様子でこちらを見ていました。
「先程は失礼しました」
なんと礼儀正しいのでしょうか。例の王子と比べると、本当に輝いて見えます。
……いえ、比べるのは失礼ですね。主にカールに。
「いえ、助けられたのはわたくしの方です。本当にありがとうございます」
わたくしはそう言いながらも、あまりカールの顔を直視できません。
「助けた、というより……私が貴女を見て、思ったことを話しただけです」
カールはそう言ってから、少し声を落としました。
「それに、先程の言葉も、偽り無い私の本心です」
また、頬が熱くなるのを感じました。折角冷えてきたところだったのです。
わたくしの視線は忙しなく彷徨い、無意識のうちに手がぎゅっと握られました。
「これからも、よろしくお願いします」
わたくしが絞り出せたのは、ただそれだけでした。
その言葉に秘められた意味は、まだわたくしにはわかりません。
ただ、この日から日常に鮮やかな彩りが加えられたのは、間違いないでしょう。
お読みいただきありがとうございました。




