第3話 秘密の外側
「ただいまー……って、誰もいないけどね」
高城琥珀はため息まじりに靴を脱ぎ、ふわりと部屋着のワンピースに着替えた。夜勤の疲れがどっと押し寄せる。白衣の下に着ていたTシャツをランドリーバスケットに放り込み、髪をひとつにまとめると、キッチンで紅茶を淹れ始めた。
香り高い茶葉の湯気が部屋を包み込む。
「とりあえず、ひと息……」
マグカップを抱えてPCデスクに座ると、深く息を吐いてログインボタンをクリックする。《Astral Phantasia》の世界が、今日も静かに迎えてくれた。
ログイン後、すぐに空無を見つけて、声をかける。
「やっほ、空無ちゃん。今日も平和?」
『こんばんは、こはくちゃん。こっちは今日も平和だったよ。そっちは?』
「今日は、現実の患者さんたちがちょっと……大変だった。まあ、仕事だからしょうがないけどねー」
そんな何気ない会話、ゲーム内の今日はギルド内が大騒ぎしてたーとか……話して2人で盛り上がってた。数分交わしたあと、琥珀はちょっとだけ迷ってから、思い切って話を切り出した。
「ねぇ、空無ちゃん。前に“こはくちゃんにはちょっとだけ話してもいいかも”って言ってたじゃん? あれって……何の話?」
画面の向こうで少し沈黙が落ちる。チャット欄が一瞬、静まり返る。
『……うーん』
さらに数秒後、ようやく返ってきた返事は、冗談めいたやわらかさに包まれていた。
『じゃあ、特別に。こはくちゃんにだけ言うからね? ぜーったい秘密だよ? 他の人にバレたら……ちょっと恨むからw』
「うん、わかった。口にチャックしておく」
少しおどけてみせながらも、心の奥ではドキドキしていた。まるで、秘密の宝箱の鍵を手にしたような気分。
『私……結婚してるの。子供も、ふたりいる』
その瞬間、琥珀はモニターの前で固まった。
「……え? 本当に?」
『ほんとだよ。嘘ついてもバレるしねw』
「ずっと、大学生くらいかと思ってたw。ていうか、空無ちゃんって、ぜんぜんそんな雰囲気ないから……」
『よく言われるよ。それにね、私、リアルじゃ“母親”で“妻”でいなきゃいけない。でもさ……ただの“女性”に戻りたいときがあるんだ』
空無のチャットはゆっくりだった。ひとつひとつ、言葉を選ぶように、慎重に。
『誰かに必要とされて、愛されて、守ってもらえるような、ただの一人の女の人に。そう思うの、変かな?』
「変じゃないよ……わかるよ、その気持ち。……少しだけど」
ほんとうは、あまりわかっていないかも。私はそんなに恋愛経験ないし……彼氏と別れたばっかりなんだよなぁ。だからもっと聞きたかった。人のことってすごく気になる。子供は何歳? どんな人と結婚してるの? でも言葉を飲み込んだ。空無が話さなかったことは、きっと“聞いてほしくないこと”なんだろう。
「子供、学校行ってる?」
そう尋ねてみたとき、空無はすこしだけ間をおいてから答えた。
『うん。でも、それ以上は秘密。……ごめんね』
「ううん、聞かないほうがいいってわかったから」
少しだけ寂しい気持ちになった。でも、それ以上に「信じて話してくれた」ことの方が、嬉しかった。
『あとはね……ゲームの中で誰かに好かれてる、かも』
「え!? それって……私が知ってる人?」
『んー、それは……また今度言うねw』
「なんだよー、気になるじゃん」
『ふふ、言わないの。……というか、私、年齢とか聞かれてもいつも“私は秘密でできてるから聞いちゃダメ”って返してるの。だから誰にも何も話してないの』
「……秘密、か。今日、少しだけ聞けてよかった」
琥珀は、ほっとしたような、ちょっとだけ切ないような気持ちでキーボードに手を乗せた。
「……空無ちゃんは、そうやって“秘密”でできてるかもしれないけどさ。それでも、話してくれてありがとう」
モニター越しに、空無のアバターが小さく頷いた気がした。
***
ログアウトの時間が近づいていた。いつものように、さよならの挨拶を交わそうとしたそのとき——
『……実はね。今日、ちょっと泣いてたんだ。リアルで』
「……えっ」
『見えないけど、こはくちゃんには、なんとなく……バレてるかもって思った。だから、話そうかなって。ちょっとだけでも、軽くなるかもって』
琥珀は画面を見つめたまま、そっと口元を押さえる。涙がにじんでいた。
「……私、秘密にしててもいいと思う。でも、話すことで心が軽くなるなら、私に話して。……フレンドそんなにいないし、秘密が漏れる心配なんて、ないからさw」
自虐まじりに笑ってみせると、空無の返事はなかった。
けれどその沈黙は、否定ではなかった。たぶん、静かに“ありがとう”って言ってくれていたのだと、琥珀は思った。
───
次回、第2章へ続く。
空無(=結子)の視点が、静かに開かれていく。