第1話 琥珀
「あー。疲れたよぉ」
静まり返った玄関に、少ししゃがれた声が響く。 夜勤明けの高城琥珀は、コンビニ袋を片手に、玄関横の壁をまさぐった。
カチッ。
小さな音とともに明かりが灯り、真っ暗だった視界が一気に広がる。 ベージュの壁紙、濃い木目のフローリング、エスニックなラグが敷かれた廊下。 朝とまったく同じ表情で出迎えてくる。けれど、なぜかその変わらなさが、今日は少しだけ寂しく感じた。
「今日は寝坊してベッドメイクしてなかったわー。テンション下がるぅ……」
シワだらけのパーカーを脱ぎながら、琥珀はリビングへ向かう。 コンビニ袋をキッチンのカウンターに置き、ポストに届いていた郵便物を手に取った。
「高城琥珀様……あー、またDMか。エステのチラシに、回転寿司のクーポン……。 同窓会の招待状とか来ないかな……」
ふっと笑って、首を振る。
「来るわけないか」
気づけば、誰かとちゃんと話したのって何日前だっただろう。 職場では患者と話すことはあっても、自分の名前を呼ばれることなんてほとんどない。 家族とも疎遠。友達も、年々減っていく。
——“高城さん”って呼ばれるのは、仕事のときだけ。
“琥珀”って名前、今も誰かの記憶に残っているのかな。
「とりあえずコーヒー淹れよ……」
キッチンの戸棚からお気に入りのマグカップを取り出し、ドリップパックに湯を注ぐ。 ふわっと広がる香ばしい香り。深く息を吸い込むと、ほんの少しだけ肩の力が抜けていく。
その間、冷蔵庫からコンビニのサラダを取り出して、ポンとカウンターに置く。 「……あとで食べよう」 そう言って、そのままコーヒーだけ持ってPCデスクへ。
カチッと電源ボタンを押すと、モニターが柔らかな光を放ち始める。 キーボードの前に座るこの時間だけが、現実のすべてを忘れられる唯一の瞬間だ。
《Astral Phantasia》——アストラル・ファンタジア。
美しくて、少し残酷で、それでも自分が“自分”でいられる世界。
IDとパスワードを打ち込む指先が、自然と軽やかになる。
ログイン画面に現れるのは、自分の分身ともいえるアバター。 “白い髪の旅人”という設定で作ったキャラクターは、現実の自分とはかけ離れていて、どこか憧れにも似た存在だった。
「やっと会える……かな」
カップに残ったコーヒーをひと口だけすすると、琥珀はゆっくりとログインボタンをクリックした。 ウィンドウの中の世界に、意識がゆっくりと沈んでいく——。
***
アストラル・ファンタジアに初めてログインしたあの日。 まだ操作もおぼつかないまま、初期村の酒場のベンチに座っていた琥珀に、声をかけてきたのが《空無》だった。
『……迷子?』
画面に表示されたその一言に、思わず吹き出した。 「いきなりそれ?」って心の中でツッコミながらも、どこか安心している自分がいた。
口調は淡々としていて、無愛想そうな名前のわりに、案内はやたら親切だった。 初心者用の装備の付け方、クエストの進め方、ショートカットキーの使い方まで、全部ゆっくりと丁寧に教えてくれた。
——あのとき、空無ちゃんがいてくれて良かった。
初めての戦闘。初めてのパーティチャット。 ひとつひとつが新鮮で、気づけば、ログアウトの時間を忘れていた。
ある日、ダンジョンからの帰り道。 雑談の延長みたいな流れで、琥珀がリアルの仕事の愚痴をぼやいたあとだった。
『リアルが嫌いすぎてさ、ゲームの中では違う自分になりたかったんだ。 男のフリ、しようとしたんだけどさ……会話ついていけなかったw』
その言葉に、琥珀は思わずPCの前で吹き出してしまった。
「あー、そういうとこだよ空無ちゃん……」
それまで「君」と呼んでいたのに、思わず「ちゃん付け」してしまっていた。 でも、不思議としっくりきた。
現実で名前を呼ばれることはほとんどない。 でも、この世界では違う。名前で呼び、名前で呼ばれる。 言葉にしなくても、そこにちゃんと“誰か”がいてくれる気がする。
《Astral Phantasia》。 この世界でなら、誰かの隣にいられる——そんな気がしていた。
でも——
空無ちゃん、なんでリアルが嫌いなのかな。 こんなに可愛くて、優しくて、素直で、時々ちょっと抜けてて。 ゲームの中での“彼女”しか知らないけれど、その言葉の端々から、リアルの彼女がとても不器用に生きていることだけは感じた。
「……いつか話してくれたらいいなぁ」
マグカップを両手で包みながら、小さく呟く。
“可愛い子”って言葉が浮かんだ瞬間、自分でも苦笑いした。 顔も知らない。年齢も知らない。 だけどこの世界では、そんなの関係なかった。
空無ちゃんは、誰よりも丁寧に接してくれる。 言葉の選び方も、チャットの打ち方も、どこか優しくて、ふわっとしてて。 誰かの心に寄り添いたいって、自然に思える人だ。
……いや、人“らしさ”を持ったアバター、っていうべき?
でも、それじゃあ何かが足りない気がした。
顔も名前も知らないからこそ、純粋に心に触れてる気がする。
SNSで騙されてしまう事件が世間では沢山あるけれど、みんながみんな犯罪者な訳じゃない。
ゲームの世界は一緒に戦う、仲間になる、色んなイベントを一緒にクリアするからこそ、信頼が築けて、心をつい許してしまうのかもしれない。
「私も気をつけないと……みんな画面の向こうは詐欺師かもしれない……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
それでも私は知らないうちに、空無という人物にハマっていっていた。
ふと、ウィンドウの通知が点滅した。
《空無ちゃんがログインしました》
……やっぱり、嬉しいが勝つんだよねw
私は自然と顔が綻んでいる