episode3「鋼の羽根」
それから1時間、僕はカウントダウンを眺めていた。
エックス・ワールドには”メモリ”と呼ばれるHPやMPを合わせたような数値があって、0になると強制的にログアウトさせられて1時間ログインできなくなってしまう。と、スーが教えてくれた。
スーっていうのは、エックス・ワールドで僕が初めて知り合ったユーザーだ。大きな音がしたので、様子を見にきたところ僕がいたから声をかけてくれたらしい。実際のところはわからない。何せ、僕は彼女の顔を見る前にログアウトしてしまったから。
カウントダウンが終わり再びログインすると、先ほどとは違う場所にいた。建物の地下らしく、窓がない。日差しの代わりにネオンライトの明かりが煌々とフロアを照らしていた。
後で知ったことだが、あそこはデビアンの人たちがデフォルトでログインする”ログイン・ステーション”という場所だった。ステーションというだけあって、駅のプラットフォームのような構造をしていた。現在進行形でログインしている人がいるんだろう。次々と青白い光を発して、人々が現れていた。
「来ましたね」
10メートル先に少女が1人、立っていた。青白いミディアムヘアに紺色の学生服風の軍服を身に付けていて、赤い瞳と黒のネクタイを歪曲させる胸、ミニスカートから伸びる白い足が印象的だった。
彼女の格好に不審な点はなかった。けれども、顕になった女の子の太ももは不登校思春期男子の僕には刺激が強かった。衣装に目を奪われていると、彼女はスタスタとこちらまで歩いてくる。
僕から少女までの距離は1メートル。ここだけの話、ほんのりいい匂いがした。
「デビアン副司令官のスー・マードックです。あなたは”sl”さん、ですね?」
僕は無言で頷いた。このゲームには公式で設定できるユーザーネームというものがない。ゲームから与えられたオリジナル・コマンドがユーザーネームのような役割をしている。
「単刀直入に尋ねますが、アナタはエックス・ワールドが初めてですか?」
「……は、はい」
僕の返答にスーは眉を顰めた。
「でしょうね。じゃなかったら全”メモリ”を消費してコマンドを発動する人なんていません。というより、むしろ安心しました」
「安心、した?」
スーは顔を近づけた。僕は思わず一歩後退りする。
「slさん、私と特訓しませんか?」
「特訓……?」
「はい。アナタのコマンドは無限の可能性を持っています。最初はギャグコマンドだと思っていましたが、相手を一撃でログアウトさせるポテンシャルを秘めています。それは、あなた自身が一番よく分かっているでしょう?」
僕の脳裏に巨大なSLによって貫かれた高層ビルが思い浮かんだ。
「うまく使いこなせれば、前線を張れるプレイヤーになれます。どうですか? 強く、なりたいですか?」
最後のセリフに僕の心は動かされた。
————強くなれる。
僕にとって馴染みのない言葉だった。
僕は勉強ができないとか、運動ができないとか、そんなことはなかった。人並みの点数が取れて、人並みのタイムが取れた。僕は決して落ちこぼれじゃなかったんだ。
でも、それ以上がなかった。
どれだけ勉強しても、どれだけ練習しても、何回も自販機に跳ね返される100円玉のように、”上”に行くことができなかった。
人には何事にも”限界”があると思う。それはきっと遺伝とか、生まれた環境とか。自分ではどうすることもできない先天的な要素で決められているんだと思う。そんな”限界”がこの世界には確かに存在する。
僕の”限界”は、技術を身につけた時点で達することが多かった。
だから……、そう。
嬉しかったんだ——彼女から”強くなれる”と言われて。
「いいよ、わかった」
僕は力強く頷いた。スーは優しく笑みを浮かべる。
「では、さっそく特訓……といきたいところですが、その前に名前を決めましょう。呼び方はエスエル、で大丈夫ですか? 他に呼んでほしい名前はありますか?」
僕はスーに連れられる形で歩き出した。エックス・ワールドのユーザーネームはオリジナル・コマンドであるとさっき書いたけど、コマンドネームを文字った愛称を名乗るプレイヤーもいる。
せっかくなら僕はオリジナリティあふれる名前で呼ばれたいと思った。slコマンドを開発した人には申し訳ないけど、なんか安直すぎるだろ?
連想ゲーム感覚でSLに近いものを思い浮かべる。
「じゃあ、”車掌”は?」
スーは考えるそぶりを見せると、笑みを浮かべた。
「SLを操る車掌、ですか。いいと思いますよ」
女の子に褒められたことなんて、これまで右手で数えるくらいしかない(いや、数えることすらできないかも)。僕は嬉しくなって、心の中でガッツポーズをとった。
同時に、気になる。
「そういえば、えっと……スー、さんはどんなコマンドを使うんですか?」
僕もこのゲームを始める前にいくらか勉強をしてきた。エックス・ワールドに登場する”コマンド”は、Linuxというコンピュータで使われている命令文が元になっており、能力も現実のコマンドに沿ったものになっている。
僕のslコマンドも実在するコマンドで、実行すると画面いっぱいにSLのアスキーアートが走るだけの機能を持つ。それ以外には何もしないから”ギャグコマンド”って呼ばれてるんだ。
一方、”スー・マードック”というコマンドは聞いたことがない。愛称を使っているんだろう、と僕は予想した。
果たして彼女は「スーで大丈夫ですよ」と言うと、立ち止まって僕のことを見た。2、3歩進んだ僕は、振り向いて彼女のことを見る。
「私のコマンドは……」
僕らはログイン・ステーションを出て、廊下にいた。ネオンライトの紫の光が、彼女を美しくも怪しくも照らしていた。
「私のコマンドは、”sudo”。指定したプレイヤーにroot権限を付与するコマンドです」