episode26「うるうびと」
「入ってみる? ラブホ」
キャットさんは立ち止まってこちらを見ている。僕は数メートル離れた位置で彼女を見つめていた。
夕暮れ時。
薄暗い往来で、彼女の白い肌だけが浮かび上がって見えた。
心臓はドギマギした。あまりに激しく動くもんだから10個になっちゃったんじゃないかと錯覚してしまうくらいだった。
明らかに顔は熱くなっていた。明らかに息は荒くなっていた。
視線は彼女の体を上から下まで観察し、ヘソ出しシャツの奥にあるもの、ミニスカの奥にあるものを想像し、これから起きるであろう薄暗い部屋での”行為”を想起させる。
そして、イメージを思い浮かべた脳はドーパミンを分泌し、10個になった心臓を一番星目掛けて吹っ飛ばそうとする。
「えっと……、えっと……」
言葉がうまく出てこない。「いいですよ」の5文字を発音すればミッションクリア。ユートピアへの切符を手に入れることができる。
きっとモテる人ならなんの躊躇いもなしに言えるんだろう。
「い、い…………」
けど、僕はできた男じゃないから、高鳴る心拍を耳元で聞きながら言葉を吐き出そうとした。
「い……、いい————」
あと、いくつ心臓があればよかったんだろう…………。
「にゃ〜んてね!」
吐き出されようとした声を、彼女は一言で遮った。最初は聞き間違いだと思った。運悪く僕の耳が起こした幻聴だと思った。
けど、彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべると、大通りに向かって歩き始めた。僕は慌てて中腰になりながら彼女のことを追いかけた。
「冗談だよ、冗談〜。君が入るにはまだ早いにゃよ〜」
それっぽいことを言ってくれるけど、頭に入ってこない。年齢とか関係ない。僕が首を縦に振ればきっと……
なんて考えていると、キャットさんが身体を寄せてくる。ただでさえ僕の脳内は”パターン・ピンク”の非常事態だというのに、香水なのかフェロモンなのか、よく分からない匂いを嗅がされたら、大変なことになりそうだった。
耳元で、彼女は囁いた。
「まだ、ね」
たしか、こんなことを言ってた気がする。運よく僕の耳が起こした幻聴でなければ。
けど、当時の僕は確認しなかった。まだ見ぬ世界の扉の前に立ったことと、甘い吐息に耳をくすぐられて、文字通り頭が真っ白になってしまったんだ。
それから僕らは会話することなく大通りを進んでいった。いや、正確には違う。彼女の方から何か話しかけられたけど、僕は「うん」とか「すん」とかしか返事しなかったんだ。理由は言わずもがなだ。
僕はずっと俯いていたから彼女がどんな顔をしていたか知らない。けど、今となっては見ておけばよかったな、と後悔している。彼女の顔は赤かったのか、それとも普通だったのか。それだけでもわかれば、彼女のあの言葉が本気だったかどうか少しはわかったかもしれないのに……。
「じゃあ、ボクはここでね」
スクランブル交差点の前で僕らは別れた。
「は、はい……」
僕は最後まで彼女の顔を直視することができず、手を振るだけになってしまった。彼女が離れていくのを確認してから顔を上げると、そこにはもうKPOPアイドルの姿はなく、空白地帯のない雑踏だけが広がっていた。
— — —
僕がこれを書いているのは、ブライアンに会えたことやムーブ先輩と会えたこと以上に、最後のキャットさんの言動が頭から離れなかったからだ。
こうして書き出せば何かわかるかも、と思ってキーボードを叩いてみたけど、分からずじまいだ。
——ねえ、未来の僕。それとも何かの間違いでこの無題のブログを開いた誰かさん。
僕は、あのときどうすればよかったんだろう。
もし、わかったらコメントで教えてほしい。
2045年6月18日
豊田輝
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久しぶりに開いたけど、面白いことが書いてあったな笑
あのときの彼女がどんな気持ちだったか、ここで明言するのは避けるけど、一人だけ補足したい人物がいる。
タッチだ。
このブログを読んでいる人は、タッチが極悪非道のゲス野郎と思うかもしれない。確かに、彼の本性の一つはその通りだが、一言で済むほど人間というのは単純じゃない。そうだろう?
別側面の彼が垣間見える出来事を僕はあのオフ会の日に体験したんだけれども、書かれていないから、ここに追記する形で彼の名誉挽回を図ろうと思う。
まあ、誰が読むかは知らないけどね笑
さて、何から話そうか……。




