序章)在りし日の小さな村② 深森の幻獣王
「グルルルル」
現れた幻獣王は、目の前にまでやってきた。
灰鉄暴熊
鉄の体毛と巨体を持つCランクでも上位の魔物であり、比較的人里に近い森においては、生態系の頂点に立つ存在。
慎重な性格で、固有能力である幻覚魔法で獲物を孤立させてから襲う。
ただし、一度自分の優位を確信した後は、非常に獰猛で攻撃的になる。
利き腕の振り回しと掴みかかっての噛みつきに注意。
どうやら、いつの間にか幻獣王の幻覚魔法の影響で山道を外れてしまったようだ。
しかし、こうして図鑑に載っていた情報を思い出せたのはいいのだが、状況は何も変わることはない。
魔物で言うCランクとは、訓練された戦闘を専門とする兵士が一体に対して数人がかりでようやくというレベルのバケモノなのだ。
村の子供一人でどうにかなるような相手ではない。
そもそも、図鑑にもあるように、どうにもならないからこそ、こうしてこいつは目の前に姿を現したのだから。
「う、うあぁ」
「グルッ、ガァァッ!」
あまりの威圧感に、ほんの半歩後ずさりした。
森の王は、その一瞬の気の揺らぎを見逃さない。
3mはあろう巨体にも関わらず、狼さながらに高く飛び上がり、凶悪な爪を持つ両腕で掴みかかってきた。
──ズガァァッ
間一髪。
その一撃を避けることが出来たのは、ただの偶然だ。
あまりの恐怖に足がもつれ、横へ倒れ込んだにすぎない。
恐る恐るつい先程まで自分がいた場所を確認すると、木の根や石が詰まった硬い地面が、大きくひび割れて陥没していた。
その破壊力にぞぉっと血の気が引く。
あのまままともに食らっていたなら、あの鋭い爪で引き裂かれるまでもなく、ミンチになっていただろう。
ぐるり、と巨体の向こうにある首が振り返る。
分厚い肩の肉に邪魔されるだろうに、それでも顔を回し、赤く光る二つの瞳で獲物を睨みつけたのだ。
「あ、あ……」
もはや叫び声すら出ない。
目の前には、大人たちの胴回りほどもある右腕が、そしてひとなででもすればズタズタにされるだろう鋭い爪が地面にめり込んでいる。
幻獣王がわずかにそれを振るえば、それは現実となるだろう。
しかし、またしても幸運の大精霊が味方してくれたようだ。
幻獣王は、右腕を振るわず、その巨体を大きく反らし、左腕で叩き潰しにきたのだ。
ほんの僅かな違いではあったが、身体を起こすという動作が入った分だけ、僕にも動く時間が出来た。
そうは言っても、わずかに数瞬のこと。
転んで四つん這いになった僕にできることといえば、たった一歩、腕を動かしてほんの少しだけでも逃げようと足掻くだけのことではあった。
だが、その数瞬の時間こそが、僕の運命を変えたのだった。
「ぬぅうぇぇあ、りゃぁっ!」
突如、僕と幻獣王の間のほんの僅かな空間に、鈍色の壁が降ってきた。
正しくは、あまりの距離の近さに壁に見えた、幅広の大剣、そしてそれを振るった少年が降ってきたのだった。
「ちぃっ! おい、動けるならとっとと行け!」
少年は、そういうと剣を構え直し、僕と幻獣王の間に割り込んだ。
どうやらこの少年は、僕を助けてくれるらしい。
「あ、ありが……」
「早く行け!」
「はいぃぃっ」
少年の怒声に、四足のまま、文字通り獣の如く慌てて距離をとった。
「グルルルル」
「……死ねぇ!」
ここでようやく振り返り、助けてくれた少年を見た。
おそらくは冒険者なのだろう。
声の感じから少年、と言ったが、かなりの大柄で、背格好だけなら村の大人と大差ない。
だが、顔つき自体はむしろ子供のようで、僕よりも幼くも見えそうだ。
この辺りではあまり見ない黒い髪は、適当に切りそろえたらしくざんばらに、身につけている防具も決していいものには見えない。
ただ、くすんだ身なりとは裏腹に、炎が燃えているような赤い瞳とギラりと輝く大剣だけが印象的だった。
「うらぁぁっ!」
少年が大剣を振り回す。
決して洗練されているようには見えない剣捌きではあったが、それでもその重量に振り回されているようにも見えない。
少年の持つ剣は、一般的な冒険者が持つような片手剣ではなく、騎士が持つような両手剣だ。
大人の身長ほどもある巨大な剣で、本来ならば長い柄を両手で持ったり、刃の根元を握って間合いを変えたりする、取り回す難易度の高い重量級武器だ。
信じ難いことにこの少年は、そんな重さの武器を軽々と振るい、ときには片手で振り回して自在に操っている。
外の世界を知らない10歳の子供である僕には、その常識離れした光景が、かの勇者と魔王との決戦であるかのようにも感じられた。
「うらぁぁっ!」
「ゴォアァァッ」
──ガギィィン
甲高い激しい衝突音が耳を貫く。
少年の大剣が激しい気勢と共に振り下ろされたかと思えば、幻獣王が鋼の毛をもつ右腕でそれを弾き飛ばす。
少年の体はまるで蹴鞠のように飛んでいくが、宙で剣を振るって体勢を変え、叩きつけられるはずだった岩場を蹴って再び宙へ舞い踊る。
そこへすかさず、幻獣王は少年をたたき落とすべく左腕を大きく振るう。
少年は空中で身を捩り、僅かに肩先に爪を掠らせてそれを避けた。
ぱっと鮮血の花が散るが、あの剛腕を受けてそれならいい方だろう。
さすがに飛びかかった勢いは殺されてしまい、少年は幻獣王の肩を蹴って地に降りた。
見ているだけで息をもつかせぬ激しい攻防。
パッと見には、無傷の幻獣王に対して、致命傷こそないが細かな傷が増えていく少年が不利なようにも見える。
だがよく見れば、それほどの戦闘を行っていても、少年の息はほとんど上がっていない。
反対に幻獣王の方は、ダメージこそ見えないが、いっこうに倒せない相手に苛立ち、攻め手が単調になってきている。
そして、
「うらぁぁっ!」
「ギャオォッ」
いかに鋼のような体毛を持っているといっても所詮は生き物。
毛の流れに逆らうように突き出した大剣が、ついにその巨体を刺し貫いた。
魔物の体から流れるのは、黒い血液。
闇色の血飛沫を撒き散らしながら、幻獣王はよろめく。
「う、うぉ!? ちぃ、暴れんな」
明らかに致命傷。
だが、それでもまだ絶命には至らない。
幻獣王は身を捩り、少年を振りほどくが、首元に深々と刺さった大剣はそのまま抜けることはなかった。
首に剣が刺さり息も絶え絶えとなっている幻獣王と、無手となった少年。
既に勝負は決しているとはいえ、次の一手で全てが決まる。
幻獣王は、渾身の力を込めて少年を襲うだろう。
その一撃さえ凌げば、少年の勝ちは揺るがない。
だが、唯一の武器を手放した今、それを凌げるかは賭けだ。
「グルルルル」
幻獣王が両手を持ち上げ、二足で立ちはだかる。
少年もまた、無手のままその正面へと立ちはだかる。
ジリジリと時が流れる。
ヒリヒリと空気が焼ける。
子供にだってわかる。
この緊張感が弾けたとき、その一瞬でこの戦いに決着が着くのだ。
じりっ、と小石が擦れる音がする。
幻獣王か、少年か。
どちらか分からないが、足に力を込め、相手に飛びかかるその準備をしているのだ。
見ているだけで息が詰まる。
目の前が赤くなる。
そして、その時は来た。
「ガオォォ」
先に動いたのは幻獣王だ。
両手を大きく上げたまま、狼の俊敏性で飛びかかる。
短い時間ではあったが、これまでの戦いを見てきて、幻獣王の動きは、大きく2パターンだ。
両手で押さえ込んでの噛みつき。
凶悪な剛腕による殴りつけだ。
だが、首元の大剣をかばい、少年を近づけないようにするならば、押さえ込みはない。
あとは、左右どちらの爪が来るか判れば。
その時、あの辞典の文章が思い浮かんだ。
『利き腕の振り回しと掴みかかっての噛みつきに注意』
そして、最初に飛びかかられた時、幻獣王は近い方の右腕ではなく、わざわざ立ち上がって左腕で攻撃してきた。
「左だぁっ!」
無我夢中で叫ぶ。
その声に反応し、少年がわずかに右の方へと身体を向ける。
幻獣王の左腕、すなわち右側からの攻撃をくぐり抜け、その懐へと飛び込むことに成功した。
そして、
「うらぁぁっ!」
少年が幻獣王の首元に刺さった大剣の柄を殴りつける。
大剣が大きく横へずれ、黒い鮮血が大きく吹き出す。
さしものの幻獣王も大きく身をそらし、そのすきに少年が大剣目掛けて飛びついた。
「とどめぇっ!」
「ゴガァァッッ!」
少年は大剣を両手で掴み、そのまま下へ振り抜いた。
体躯を大きく袈裟斬りにされた幻獣王は、断末魔の叫びの後、ようやく倒れ込んだのだった。
あまりの光景に呆然としていると、倒れた幻獣王の亡骸のそばから、あの少年が這い出てきた。
ここから見ていると、あの巨体に押しつぶされたかのようにも見えたが、どうやらすんでのところで回避出来たようだ。
「よぉ、大丈夫か?」
黒髪の少年は、そう言って歳相応の笑顔でそう笑いかけた。