序章)在りし日の小さな村① 幼き日の思い出
崩れた土壁。
倒れた牛からだくだくと流れこぼれる赤黒い物。
どこかで火も上がったのだろう、苦い炭の香りに脂の焦げた臭い。
最近こそ見ることも少なくなってきたが、未だにあの頃の悪夢にはうなされてしまう。
あの日、僕は全てを失った。
「はーっはっは! よくきたなゆうしゃよ」
「かくごしろ、まおう!」
「おぉい、ジン坊。あまり森の方へ近づくなよぉ」
「ちげぇよ、おとぉ! おれはジンじゃなくてまおうなんだ!」
「そうかそうか。魔王様よ、もう少しこっちの方で遊べよぉ」
今日も村の外れにある広場で小さな勇者たちと小さな魔王が元気に暴れまわっている。
ベルオーネという王国の外れにある小さな村。
一応、村長家の名にちなみ、ルアバの村という名がついている。
周囲に点在する、数世帯ばかりが集まったような集落よりは大きく、この地域のまとめ役のような役割を持った村だ。
特産と言えるような産業もなく、各家で畑や狩りをやり、自給自足に近いような貧しくも平穏な生活を送っている。
そんな小さな村で、僕は育った。
僕の名は、エルード。
今年で十歳となる、司祭の息子である。
「……ふむ。ただの冬の障りのようだね。薬湯を出しておくから、暖かくしておきなさい」
「ありがとうございます、司祭様」
「司祭様、ありがとー」
昨晩から熱を出したというネネが帰っていく。
ネネは僕よりひとつ上の女の子だ。
活発な女の子で、村の女子たちのリーダー的存在だ。
男子グループのリーダーであるジンとはよく対立しているが、村のほとんどの男子にとって、ネネは憧れなのだ。
ただの風邪とはいえ、この田舎には高価な薬などはおいていない。
余程熱が酷くなった時には、解熱の薬剤があるが、実際には村長家にしか使うことは無いだろう。
司祭である父は、教会の教えを受けて治癒魔法を使うことが出来るが、小さな骨折程度の傷ならばともかく、大怪我や病気は専門外となる。
せめて薬湯の効果を期待する他はない。
ネネたち親子が帰っていくのを、父、いや司祭様が見送り、静かにドアを閉めた。
──コツ、コツ
階下から階段を上ってくる靴音がかすかに聞こえた。
ガサゴソと手にしていた本を机の下へ隠し、子供用の聖典を開いた。
「はかどっているかい、エルード」
「はい、司祭様」
部屋へ入ってきたのは、この村へ派遣されている司祭であった。
父は、親子としてより子供と司祭という立場を重要視しておる。
こうして二人きりのときでも、父と呼んだことはほとんどない。
僕が生まれるよりもずっと昔のこと。
王都の方で随分な争いがあったらしく、その余波を受けて、父はこの村へと飛ばされたそうだ。
その事があってか、それとも元からそういう質だったのか、夕方の食事よりも後、祭服を脱いだ時以外には、父と呼ぶことを禁ずるような人物だったのだ。
助祭だった母は、そんな父に愛想をつかし、僕を置いて他の町の修道院へと移っていったらしい。
だとしても、僕にとっては優しく、皆に慕われている立派な父だった。
確かに、周りの子供たちと一緒に遊ぶことも許されなかったし、毎日聖典の勉強ばかりさせられるのも退屈ではあった。
それでも、勉強を頑張ればこうして褒めてくれる父の事は大好きだったのだ。
「よろしい。それじゃあ、大の聖典第五章、聖パウロの悲劇より、パウロを迎えに来た守護精霊は?」
「ざわめく湖のレギューロです」
父の質問に淀みなく答える。
四大精霊とその眷属を信奉する聖教会では、民間への説法に使う大の聖典が五巻八章、教義と信仰が記述されている小の聖典が三巻十章。
それと司教以上の高位僧官にのみ開かれる、秘術や禁術が記された外典三巻五章が存在する。
「よろしい。ただし、レギューロ様、と直しなさい。では、聖イルルースを導いた守護精霊は?」
「……陽光のアイシローネ様、凍てつく眠りのシャローネ様です」
少し間を開けて答えたが、この答えは間違いだ。
二柱の精霊の名が逆になっている。
「ふむ、惜しいがお二人の御名が逆だな。だがよく頑張っているね。このままよく勉強しなさい」
父には大の聖典の四巻を覚えているところだと話してある。
だが、本当は大の聖典どころか小の聖典も全て覚えてしまっている。
自分で言うのもなんだが、どうやら記憶力だけはかなり出来がいいようなのだ。
だというのに、勉強の進みを遅く報告しているのには訳があった。
父が部屋を出ていったことを確認して、隠していた図鑑を引っ張り出してくる。
『系統別魔物図鑑』
そう、父に嘘をついてまで確保していたのは、これを読むためだ。
百年もの間続いた魔族と人類との戦争も、ときの勇者様の活躍により集結したのが既に三百年も昔の話。
魔族はある日突然に現れ、世界中の人々を恐怖に陥れた。
人間よりはるかに優れた身体能力や魔力を持つ魔族の猛攻は凄まじかったが、教会を通じて神託の降りた勇者たちの活躍により、人間側の勝利に終わった。
かつての勇者たちの伝説は、英雄譚として語り継がれ、娯楽の少ないこのような田舎にも語り継がれている。
貧しい村の暮らしに不満を持つ若い男たちは、現代の英雄である冒険者へと憧れを持った。
己の身一つで強敵に立ち向かい、まだ見ぬ未開の地やそこをねぐらとする魔物との死闘に心を躍らせるのだ。
かくいう僕もそのひとりだ。
何年か前に村を訪れた冒険者一行に触発され、以来、胸を躍らせる冒険の数々を夢見ている。
だが、子供のふとした妄想に、いつも物静かな父がはっきりと幻滅の表情を浮かべたのだ。
若者に人気の冒険者。
だが、現実は悲しいかな。
田舎からのこのこと出てきた若者は、まともな剣どころか、革靴のひとつさえ用意できない。
冒険に旅立つ以前、町のギルドに登録することすら出来ずに、野盗の餌食となるか、はたまた自らが野盗に身を落とすことがほとんどだという。
父はそういったことを、まだ幼い子供にこんこんと言い聞かせたのだ。
それ以来、僕は村の子供たちと勇者ごっこで遊ぶことを禁じられ、立派な神官となるための勉強に精を出すこととなったのだが、子供心に反抗心などもあって、村にやってくる行商に頼み込み、少ない小遣いを貯めてこの図鑑を買ったのだ。
勇者の英雄譚や冒険者の物語ではなく、より実用的な魔物図鑑や薬草の辞典を求めるあたり、我ながらよくやったものだと思う。
こうして、いつの日にかやってくるかもしれない独り立ちの準備に勤しんでいたのだ。
その日は、数日後に控えた村の祭りの準備に大人たちは追われていた。
秋の実りを司る、豊穣のフォーリア様を祀る為、篝火の準備や供え物の飾り付けを行い、また周囲の集落からも嫁取りの若者たちが訪れるので、空き小屋の整理など、やることは山のようにあるのだ。
祭りの準備が押していて、父を呼びに来たようだ。
さすがの父も、ここ数日は僕の面倒を見ている暇もないらしく、
「他の子供たちと山の恵みを集めてきなさい」
「はい、司祭様」
そう言って村の集会所へと出かけて行った。
村の子供の遊びといえば、勇者のごっこ遊びばかりではない。
野原や山に入って山菜を採ったり、魚やうさぎ、野鳥などを捕まえてくるのも立派な遊びである。
当然、獲物は家庭に持ち帰られ、その日の夕食が少し豪華になるという訳だ。
特に、いくらかの食料を祭りのために供出しなければならないこの時期、家庭の食糧事情は、子供の狩りの腕にかかっているといっても過言ではない。
そうして僕も珍しく、山への立ち入りが許可されたのだ。
わが家も、村唯一の司祭という立場上、食事のほとんどを村人からの寄付で賄っている訳だが、一応僕自身もこの例から漏れることなく、狩りの経験は積んできている。
さすがに普段からわんぱくに暴れ回っている他の子供たちとは比較にならないが、狙い目の狩り場の一つや二つは知っているのだ。
「あれ、みんなは来ていないのかな」
違和感を感じたのは、山に入って半刻もした頃だった。
他の子供たちも先に山に入り、それぞれに木の実や野草を採り、狩り場に罠をしかけに向かっているはずだ。
だが、辺りに気配を探ってみても、他に誰かがいるような感じがないのだ。
ふと、妙なざわつきを感じた。
首筋にチリチリとした違和感を感じる。
そんな、本当に一瞬の事だったのだ。
「あれ、えっ……。そんなわけ」
つい今の今まで、慣れ親しんだ山道を歩いていたのだが、その様子が一変したのだ。
こんな倒木は、この道にあっただろうか。
こんな大きな岩、見たことがあれば目印にしていたはずだ。
周りの木も、記憶にあるよりずっと背が高く生い茂っている。
振り返ってみれば、先程まで歩いていたはずの山道すら姿を消し、ただの森と化しているのだ。
「まさか道に迷って……」
それはそれで大問題なのだが、その考えを頭の中で否定した。
これでもこの地で育った山の子である。
慣れた山道を間違うことも、まして山道からそれで山の中へ入ってしまうことも考えにくい。
そんなことをすれば、間違いなくそれは死を意味しているのだ。
だが、これが良くなかった。
原因はともかく、実際に今、自分は位置も分からぬ山の中で迷ってしまっている。
頭の片隅をよぎった死という文字が、急速に体の自由を奪っていく。
膝が震える。
嫌な汗が額から流れ、頬を伝う。
背筋に冷えた井戸水のような冷たい感覚が流れていく。
これは、もう……
絶望から膝が崩れ、その場にへたりこもうとしたその時、森の奥の方に動く黒い物が小さく見えた。
一瞬、助けを呼ぼうとして、その姿がどうやら人のものでは無いと分かると、背筋が凍りついた。
ゆっくりと大きくなってくるその黒い物を見て、僕はあるものを思い出した。
──その姿は、熊のように大きく、その体毛は鋼のように硬い。
狼のようなたてがみと俊敏性を持つ、森に住む最上位の魔物。
灰鉄暴熊。
またの名を、
「……深森の幻獣王」
あれほど読み込んでいた魔物図鑑の一頁を思い出したのだ。