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イジメが普通に毎日あった私が『介護福祉士』になっても続き、双極性障害1型になってたと気付いた後も祖父の介護をしていた日常暴露話

私の名前は 藍色(偽名) といいます。

福祉高校を卒業後、国家試験を約3度目で合格し『介護福祉士』を修得しました。

元々高校卒業と同時に訪問介護2級(ホームヘルパー2級)を修得しており、先ずはその資格にて18歳卒業してから介護福祉士としての仕事の道へと歩き始めました。


元々子供の頃からお婆ちゃんやお爺ちゃんとは直ぐに仲良くなり、歳を召した方が大好きでした

その為、「なら介護福祉士になろう!」と中学生の頃ふと将来の事を決め、そのまま無事高校も合格し就職も出来、順分満帆に事が進んでいるとあの頃は喜んでいました。

…そうあの頃は、の話です。


第一幕〔老健〕


高校を卒業し、皆バラバラに別れて仕事場へと就く事になります。

初めて就職したのは、老健Aと老健Yでした。

就職先は原付きで一本道で通える所を選び、其処で社会の厳しさと社会の屈折された人間関係を学んだ最初の介護の仕事となるのでした


元々子供の頃からお年を召した方が好きで、良く仲良くなる事が多かったでした

それだから介護をしようと中学卒業の進路を考えついた私はK高校の福祉科を受験する事になり、見事受かる事が出来、訪問介護2級と国家試験資格を手に卒業まで至る事が出来、最初の就職先が決まり介護の仕事へと道を歩む事になります。


最初の老健Aでは、一緒に就職した子が居ました

ですが直ぐにその子の悪い噂が流れてきたのです

働く階が違うのですが少しのミスも情報が流れてきて皆さんボソボソと話す様になりました

そんな日常に嫌気も差し、嫌な予感もしていました

次に新しく入ってきたのは豹柄のエプロンを付けたおばさんが就職してきました

最初は変な人だと思っていました、理由は介護はそういう刺激があるような髪色や服装はNGの世界だからです

なので嫌な感じはしていたのですがそれが見事に的中し、私へのイジメがその人から始まっていきました

『若くて鈍臭い』と言われてから怒鳴られる毎日、またそれに輪を掛ける様にまた新人の身長180近い人が入ってきました

その方は最初は良かったのですが、私が、仲良くしているのが気に食わないのかその豹柄おばさんに洗脳され、2人からイジメられる日々になりました。

流石に苦しい毎日で上司に相談するが

三日坊主でまたイジメが始まり、勿論仕事に支障が出る毎日。

そして仕事をしている人はやってはいけないですが、熱がKT39.5℃を超えながらの仕事も余儀なくされました

それが終わったと思うと急性胃腸炎になってしまい休む事になり、私はこれ以上は仕事側にも自分的にも限界だと辞表を出しました

ですが社会にもルールがある様に、一ヶ月してから辞めなさいと言われ、しかも辞めると仕事が増えるからと事務の叔父さんにも怒鳴られ身も心も疲れ果ててしまいました…今思えばここでは主任さん以外は敵だったのだととても悲しく最悪な初めての仕事現場でした。

そして最後の日、偶然一部始終をみてしまった虐待。患者様の家族にはいい顔をして、トイレの誰も見ていない所でバチーンッ!とホールに鳴り響く音、そう虐待をトイレの密室で行っていたのです、あの豹柄の、おばさんは。

その事を主任へ伝え、もう二度と立ち寄る事のない施設を後にしました。

ここでは本当に色々な人間関係の屈折したやり取りと感情を学んだとそう感じた初めての一つの介護でした。



****


第二幕〔老健Ⅱ〕


次に仕事を選んだのは同じ原付で行ける前の職場の近くにあるY施設でした。

前の職場とは違い、若い人が多く最初は楽しく仕事が出来ていましたね

ですが何処でも一人は居る嫌な人物は此処では『主任』でありました。

理由はやはり前回と同じ私が鈍臭いかららしいです

私の仕事性格は自分のペースでゆっくり覚えていくタイプなので主任とは性格が何処か合わなかったのでしょう…仕事をしていても文句を言われ、歩いていても文句を言われ、私がやってないのにあんたがやったんでしょと嘘を付くなと言われました

その為、私は仕事中は早歩きから走って仕事をする様になりました

それでも頑張っていられたのは若い人達が居てくれたからこそ本当我慢できていましたね…。

ですが人間にも身体と精神が悲鳴を上げる様に私をまた急性胃腸炎へと体調を崩して入院してしまいました

此処で驚く出来事があり、今でも覚えてます

普通の人は病気だったと思うのが普通でしょう、ですがその主任は『仮病』だと言い、個室へと連れて行かれ30分以上暴言を吐かれました。

正直この人は何を言っているのだろう…

という戸惑いと、仮病で休んだと思っているのかという怒りと悲しみで心をぐちゃぐちゃにしていきました。

もう一つ、仕事で楽しみだった事が100歳のお婆ちゃんと一緒に話したり、食事介助をする事でした

会話も楽しくて時間を忘れるくらい名前も呼び合いました

…今でも亡くなった衝撃を覚えています。

退職をした後、悲しい出来事を知ったのです

私が退職した次の日の朝、100歳のおばあちゃんは亡くなっていたと、私が退職書類やお菓子を持ってきた時に聞き、唖然として言葉が出なかったのを覚えています

何故亡くなったかはプライバシー上言えませんが、その隣にいた友人(職員)が「貴方がいたから行きていたのかもね」と言われまたも悲しみとショックで言葉が出ませんでした。

…人の命は本当いつ途絶えるか分からない、こんな呆気なくお別れを告げなくてはいけないのかと家でずっと泣いていました。

本当に一目でも会いたかったと、今思えば本当に辛い1日にでした。


少し戻りますが、ここの施設はサービス残業が最低3時間〜6時間ありました。

そして日勤は普通にサービス残業が当たり前にあり皆さんもよく愚痴を吐いていましたね

しかも此処は隣がショートステイで、急性期を見ながらショートステイも一緒に仕事を行っておりました。

私はこの頃此れが普通なんだと認識していました、まだ社会に出て一年経ってないですから此れが自分の世界の視野になっていましたね

一応大手の会社でしたからこんな事はないと思いたかったですが結果的に違法行為をしていたのですね、残念です

そして此処での毎日は、検温・血圧を10人測り、十五分以内で看護師に電話をするというハードな事もありました

看護師さんは待っているだけで、今では意味が分かりません、少しでも遅れれば催促の電話が来るのでバタバタ走り回る毎日で、2週間で5キロ痩せたのを覚えてます

その為、此処も仕事を若い人皆で止めよう!と言い皆で辞めていきました。




****


第三幕〔グループホーム〕


また次の就職先は、グループホームでした。

最初は先ず掃除から始まりました、この時給料は変わらずその1日は働いた他の人達と一緒の金額だったので少しいいのかな…という罪悪感がありました

なので本格的に始まったら仕事を頑張ろうと気合が入っていましたね

そして食事担当、ホール担当、お風呂担当の三つに分かれている事を教えてもらい少しづつ覚えていき、職員の皆さんとも仲良く楽しく仕事ができる様になっていきました

でも最初は何処も優しいですよね、そして慣れ始めた頃から大変な日々を過ごす事になりました

先ず第一にぶつかった壁が料理。

毎日一から十まで手作りで、栄養も考えなきゃいけないこのバランス栄養料理には、作るだけで精一杯でした

ですが今ではいい勉強だったと思います、知らない人に、また多人数分作る機会なんて当然あまりある事ではないので本当に大変でした

次は入浴係も時間と食事に合わせて人数も一人で考えて変えていかなければだったので汗びっしょりでしたね

グループホームにも吸引機があり、痰を取る経験を施設でしていたのでとても役にたちました


そして月日が流れ、グループは2階まであるのですが、一階と2階の入れ替えが始まりました

ここからです。また平穏な日々が終わってしまったのは…

ここでも上から来た人から鈍臭く、家事もまともに出来ないのかと文句を言われてしまい、洗濯物のシワが伸びてないと何かにつけて言われる毎日が始まりました

料理なんか「もうどいて!もうあたしがするから絵本の朗読でもしてな!」

と言われてしまい、夜勤の引き継ぎの人達にも白い目で見られてしまい、恥を受ける的みたいな日もありました、流石に恥ずかしくて涙が出そうでしたね

その事を上司に伝えても『言われる方も悪いでしょ』と言われ相談にもならず、次の日のぴったりに仕事場に来て靴を履き替えていると

「まったくあの子はもう!駄目な子だよ!」

と大声で叫んでいるのが聞こえてしまい、あぁ此処には味方は居ないんだと涙が出そうでした。

そして1ヶ月後、国家試験も通り介護福祉士を得たのですが、此処ではやっていけないと思い結局辞める事になります。

辞めなければこの現状では自分が壊れてしまうと思い、切り出したのでした。




****


第四幕〔大手の病院〕


最後の仕事場は病院でした。

最初は戸惑いました、昔から看護師からの理不尽なイジメや格差が酷いとタクシー会社にも届く程でしたからです。

ですが今までの経験もあり、取り敢えず先ずは入って就職して働いてみないと分からない為、不安ですが無事正社員として働かして頂きました。

その代わり他にも免許を取ってほしいと要望もありました。最後まで持ってる免許だけでしたが…

4回目のこの大手の病院は何時もなら持って4ヶ月でしたが、この後長く勤める事になります。

最初の頃は、先輩の金魚のフンの様について行き、ノートを取り、1日のスケジュール表をコピーしと他の仕事場と違い大変だった記憶があります。

それから半年が経ち、やはり前の会社同様仕事がスムーズにいかない事があったり、その点を責められまたイジメが始まりました。

また私がどんくさいからと言われる前に先に先にと仕事の内容順序を考え、また走って行動をするのが日常になりました、なので座るのはパソコンを触る時にたまに座ってました、立ってパソコンしてる時もありましたから。

なので仕事は走るが定着した頃でした。

そしてその頃から人への(特に職員)不信感というものが元々持っていましたが心の中で大きくなっていきました。

さして更に半年後には忘年会が城山観光ホテルであり、新人皆はやはり踊らされたり出し物を強要されました、これは何処も似たような物だと思います。

でもそのかいあって社員で友人が出来たのも事実です。気が合う男性とも会う事が出来ましたが直ぐ破局。束縛が強すぎてついて行けず、更には1時間電話で説教され、それきり自然消滅しました。そして男性への不信、男性恐怖症に近い症状を発症してしまいました。

相手もいたたまれないのか少しして仕事を辞めと行きました。

そこから2年が経ちました。

当病院が新しく病院を設立。三大病院の一つとなり、私も新しい病院へ異動になりました。

私は回復期Aの5階へと配属、最初は友人も居ましたし少し楽しみにしていました、それに皆さんもスタート地点は一緒、だから力を合わせて頑張っていけるのではと期待を胸に仕事をする準備をしました

が、そこで躁うつ病をお持ちの方が入ってくるとの事でドクターストップもかかっているのに1ヶ月後に正社員としてくるとの事でした、ですのでそれまでは平和だったという話です。

不安は的中、直ぐ切れて怒鳴ったり、遅れが見えようならまた罵倒されたり、終わってない業務があれば

「この時間何してたの」「まだおわってないの!?」「なにかんがえてんの!?」「こっちに負担かけないでよね!」

と叫ばない日が無い日々の毎日でした。

ですが助っ人は現れるもので、色々あり一時の間女性の助っ人が来てくれました、しかもそのうつ病の人とは友人関係で間に何度も入り、おしぼりを配るのが遅いとバッ!と取り上げ「遅い!!貸して!」と言ったものだからその友人は主任に相談たら、薬が合っていないのが判明。

それ以降少し態度も何もかも柔らかくなり、そのNさん(うつ病)も友人も笑って過ごし、仕事がやりやすくなり、私もやっと普通にやりやすくなり、私もそのNさんと話が普通に出来る様になりまして、本当に友人様々でした。

その時はですが。

次にあったアクシデントは6〜7回人の退職がありました。

原因は分かっていますが、出来るだけでその人達をフォローする側に私は回っていましたね。

私みたいにフォローをする方もいらっしゃいましたが、言い方は居なくなるもので寂しかったですね、そしてまたうつ病が悪化していってるのか私加えイジメが始まりました。

前に居た友人さんは自分の階へ戻る時期があり帰りました。

その頃からだったのでしょう、じわじわと自分がうつ病になりつつあるのが今では分かります。

理由は躁うつ病の危険値まで上がったとドクターストップかけられている人がいたからです。




****


第5幕『見えないイジメ、見えるイジメ』



月日は経ち、あれから2~3年は経ちました。

また当病院は建物の増築を始め、回復期専用の別館を作りました。

5回所属は変わらず、そして私達はそのまま移り、また1からバタバタと仕事始まって行きます。

2年が経つと、人事異動が始まり2人2〜5階の中から私達5階に移ってきました。

また此れが波乱を呼ぶ合図だとも誰も知らずに…


少し前に戻り、接遇委員会に入った私はそこで新しい友人に恵まれまれ、行事を任されていたのですが2人で執り行うのでした、ですが中々上手くいかず苦戦苦闘したもので、事務の方が手伝って下さり、パソコンで簡単に資料を作って下さいました。

それはとても良かったと友人と事務さんに感謝を覚えてます。

ですが本題は此方で、その子は回復期2階で働いており、相談をされました、イジメです。

此処ではイジメが無い階が無いのかと無性に腹立たしくなりました。

上司に相談しても右から左。

先輩はイジメの主犯格なので無理。

その為名前とあだ名を教えてもらいました。

名前はTさん、通称ボス。これはやばいんだろうと直ぐ察しましたね。

だって周りから言われてるという事は本人以外もイジメを受けてる可能性が高いからです。

そして丁度2階に用事があり背の高い人がおりその人に此処にボスが居るんですか?と聞きましたが、「なにそれうける〜居ないよそんなの」

と優しい笑顔で返答され、この人は違うかなと内心安心していました。

がまさかボスの正体がこの人なんて思いもよらなかったでした。


話を戻します。

その2年後来られたのが男女ひとりづつでした。

男性は問題なかったのですが、女性がやばい人間でした

最初はとても優しくて相談にも乗ってくださり、笑顔が素敵で話も聞いてくれて安心は安心してましたね、今では油断していました。

洗濯も

「私がやるよ」とか「おむつ持って行くから休んでて良いよ」

などとても優しかったです。

ですが、1年後を境に恐ろしく変化していきました、ボスと呼ばれる所以がほとほと身にしみましたね。

元々Nさんだけでも精神削られるのに、Tさんから私と他の人達に暴言を吐くようになりました。

ただNさんと違うのは巧妙な手口と言いますか、誰も居ない所で閉じ込めたりして罵倒浴びせる形でしたね、だから看護師の人達にはいい顔しかわからない、今思えばもう辞めていいレベルだったのでしょう、そうおもいます。

暴言は大人言葉から子供言葉まで幅広く罵倒されました。

「バーカバーカ」「来るな、あっちいけ!」「出来ないなら帰れ!」

と患者さんの前なのにそれでもお構いなく罵倒されまして、患者さんに大丈夫?と心配されるぐらいでした

その為患者さんも居心地悪く、黙ってるのが当たり前になりましたね。

お風呂介助とは何でしょう?

そう問いたくなります。

そして介護だけでなく看護師も被害者が出ました。

お風呂場から駆け出してデイルームの端へと主任さんも走って行く姿が見え、聞こえてくたのは

「何で…なんで入浴介助であんなに言われなきゃいけないの!?」

とシャクリを上げながら主任さんに背中をさすってもらいながら大泣きしていました。

介助の手が足りなく看護師が入ったが、凄い暴言を吐かれた様で、それから二度と入浴介助はされませんでした。

どうしてもの時は気が強い人が介助に入ってましたね、上の人には弱いらしく何事も無かったとか…


毎日の日課には、リーダーという立ち回りを指導する役柄と、入浴係が分けてあります。

の為、帰りの夜勤さんがその役割を決めてくれるんですが、出来るだけTさんとNさんの入浴は避ける様に相談して当たらない様に分けてもらってましたね、でないと暴言恐喝など精神廃れる為ある意味大変な役割です。

いい先輩はいらっしゃるんですが、また頑固でTさんNさんは聞かなかったそうで、大喧嘩したそうです、その後そのいい先輩が

「〔自分が出来るから他人も出来る〕そう思ってるんでしょうね…」

と悲しそうな表情を今でも覚えてます。

それから新人が入っても、1人辞め、元々居た1人も2人辞めていき、と良い人が辞めていきました。

結局の所私みたいに我慢するか、耐えられず辞めていくかの状態でしたね。もう何も言えませんでした。


そして私にもとうとう来てしまったのです。

母には「注意散漫や疲れがピークじゃないか」とこの話の後言われました。


ある日、私は次の日頭の中で明日休みだと何故か考えており、確認もせず実家に帰ってその次の日出かけてしまいました。

そこへスマホが鳴り、電話越しは主任さんでした。

その時はまた仕事変更かなと考えていたのですが、主任さんが

「◯◯ちゃん、今日遅出だけど遅れてる?」

と言われ、えっ!と叫んでしまいました。

実は今日主任さんに聞くと遅出で11時出勤だったらしく、私はもう一度聞き返したのですがやはり遅出でボー然としてしまいました、私は遅れた事も時間を間違えた事もありませんでしたし、最近イジメは加速していましたが…

私は何時も、明日、明後日、明明後日まできちんと見なきゃ気がすまない性格なんですが、こんな日に限ってそれを怠った事にショックを受けました。

主任さんが

「16時までに来れる?」

と言われ、半乾きの制服に実家からのタクシーで行きました。

そこからです、また事件が起こったのは

その日はTがおり、そして嫌な予感的中でした。

Tさんは皆一人一人に話を盛って話したらしく、私が話しかけようとしたその時、その人を連れていき私に見えるようにボソボソと話し始めました。

その後裏の薬剤庫でTさんと2人きりになると、後ろを向きながら

「もうあなたの味方は居なくなったね」

と言いさっさと居なくなってしまいました。

その意味なんて分からない筈も無く、私が悪いのは事実。目をつぶって皆に平謝りしていきました。

そして夜勤にはNさんが来ており、分からない事を聞いても

「しらな〜い」

とぷいっと向き風呂場のTさんの所へ歩いていき、仕事もしないで2人で私の悪口を永遠と食事が来るまで話をしていました。

その後も中々誰とも話せず、でも仲が良い人は話してくれました、本当に嬉しかったのを覚えています。

…ですが最後まで冷たいままの皆でしたので、今までのイジメも脅迫も、理不尽な暴言も流石について行けず、長く働いた10年以上の仕事に終止符を打とうと家に帰り、主任さんへと電話をしたのでした。






****


第6幕『限界に比例して限界』




主任さんに電話をし、今日あった事をゆっくり涙が自然と落ちながら話をしました

すると主任さんは

「明日から休んで良いよ」

「辛くてこれないでしょう」

と初めてかもしれない優しい言葉に号泣してしまいました。

今までは信じてもらえず仮病だなんだと言われたりした経験があった為、私にはあり得ない驚きと嬉しさでこんな人居るんだと胸が締め付けられたのを覚えています。

それから先ず1年の休暇を取り、次に傷病手当を1年貰ったら良いよと行ってくださいました。

その1年の休暇は有給を使ったことが全然なく全部使おうと主任さんが言ってくださりました。

私は今でも有り難いと、有難うと言えます。

本当、本当に有り難うございました!


そして私はもう一つ理由があり、立ち上がる事が出来なくなり床を膝で歩く事しか出来なくなっていまい毎日が激痛の毎日でした。

これは足底腱膜炎らしいでした、筋膜炎ではなく、腱膜炎なのでレーザー治療費が15000円いるそうで今はできそうになく、あまり足をつかないように日常を過ごしました。

そこでいきなり母が、「一度精神病院に行かない?」と言われ前々から私の性格が変わってきているという事に不安があったらしく喧嘩はしましたが、自分でも怒る事が頻繁だと思い、信頼できる病院を紹介してもらい、検査してみると、0〜80点のテストにて70を超えて限界の域だと言われ、病名も調べてもらい「双極性障害1型ですね」といわれました。

まさか自分がうつ病?なんて考えて無くて、あっても半分だろうと踏んだ所が重い双極性障害1型だと分かり驚き過去を遡りました。

直ぐ切れたり、怒鳴ったり、感情が収まらない、悪い事だけ考える、そして殺人までも手に染めようとしていました。

結局私はうつ病からの派生、〔うつ病エピソード〕〔適応障害〕〔双極性障害1型〕

をもつ事になったのです。


足も限界、うつ病にも掛かっていたなんて全然想像できてませんでした。

先ずは歩ける様に先生に教わったストレッチを毎日しています。まだ放射線はお金がないので貯めてからいこうと考えてます。

トイレに歩いていくまでは2ヶ月近くは掛かりました。トマトをグチャッと潰した感覚が足裏に残る感じでした。

お風呂も椅子に這いつくばって座りズキンズキンとしながら入浴したものです。

母も実家に帰ってきなさいとの事で帰り、食事には困りませんでした。

父が元々プロコックで日本中を回っていたのでどんなものでも作ってくれて助かりました。


足の方は歩ける様に少しなってから行きましたが、ヤブ医者が多く、H病院だったのですが

「よくありますよ〜僕もありました」

と冷湿布だけで返され、次は

「冷湿布は足の皮付きが厚くなるから温湿布がいいですよ」

と違う事をいわれ、先ほど言っていたストレッチを教える先生はまだマシで日々続ける様になりました。

それでも何年経っても足の痛みが数カ所に増えていった為、必死にすがる様に、スポーツ病院、整骨院を3〜4箇所巡りやっと分かったのが、

「首・肩の痛みは足からきて、足の痛みは股関節から来てますね」

とやっと原因が突き止められました。また加えて足に老化現象が見られていますといわれました、此方は何も説明がありませんでした。

ですが、やはり違う視点から見てもらうのは大事だと、とても今以上に納得のいく結果を頂き良かったと胸を撫で下ろすのでした。

ただ何処に任せて良いのかまだ検討中でしっかり調べてから治していきたいとおもいます。

足の病気は〔足底腱膜炎〕〔後脛骨筋膜炎〕〔腓骨筋膜炎〕

てんぺいそくの方は気を付けて下さい。




****


最終幕『家族の癌』



足も精神病院も通いながら(特に精神病院)治していこうとした所、前々から祖父の様子がおかしく、車の運転中も目がぼーっと見開いた状態だったりしっかり運転しているのか気になっていました。

そしてある日の事、事故に遭いそうになったり、信号赤で進もうとしたり、最悪なのが階段から落ちた報告で私は飛んで駆けつけました

ですが逆に大声で今まで聞いた事のない声で怒鳴られ私は何が起きたか分かりませんでした。

流石にこれはおかしいと次の日掛かり付けの病院に行き、結果を聞くと〔悪性リンパ腫〕という癌の一種でした。

血管の中につぶつぶの浮腫が出来てしまうというあまりない事例の癌でした。

それから今村総合病院へ移り、其処で何としてでも治そうとしてくれる名医に会い、本人には本当に酷でしたが沢山の抗がん剤を何回かに分け、何ヶ月か掛けてやっとの思いで悪性リンパ腫は治り、克服できました。

後は体力改善、リハビリなどの為に他の病院へ転々としていかなければならなくなりました。


※一定の入院先が決まるまで6ヶ月以降は入院させていただけます。個々の病院では差があります。


病院生活も体調は落ち着き、施設へ移る事になりました。

家も近くで、私も研修に行った所でしたので大丈夫だと思い、S園へ入居し、何かあれば直ぐ駆け付けたり面会も気軽に出来たので本人も喜んでいました。


話が変わりますが、まだ悪性リンパ腫だと分かっていない時、祖父が救急車を呼びT病院に行った所、「足が腫れる様にむくむ、また冷や汗が大量に出る!」

とDr.に必死に伝えたが

「何も浮腫んでないじゃない!冷や汗はただの汗!それぐらいで来るな!!」

と叫ばれながら追い出されました。

今思えばその症状は悪性リンパ腫だったのです

冷や汗が大量に出るのは悪性リンパ腫の数少ない症状の現れだったので今思えばあのDr.がしっかりと診察をし、患者の声に耳を向けていてくれれば!

…こんな悪性リンパ腫3〜4ステージにならなかったと私は確信しています。

中々評判が悪いとは聞いていましたが、ここまでとは思っておらず、ましてやDr.の言う事(専門職)

なのだからと聞いてしまっていたあの頃に戻りたいと今でも思います。

やはり不信に思う事は口に出さなければならないとそれからはよく質問する様になりました。

同じ人間なのですから、貴方は医者ですか?と言われても、貴方は命を左右していい神ですか?と問いたいです。

結局は鵜呑みにして悪化したわけなのですから、しっかりDr.に診察をする様にして欲しいですね。

それに加えて、私達家族も小さな見落としをしていたと今では後悔しています。

1年前に、寝汗が酷いと祖父が言い、精神から来るものかと精神病院に行き、薬だけ貰いましたが、あまり効果が無くそのまま分からず、まさか重い病気の初期症状だとは気付かず、一時様子を見ていた矢先祖父が自分の体調がおかしいと救急車を呼び今みたいに追い返されたのでした。

ですが捨てる神もいれば拾う神もいて、今村総合病院を付き合いの長いDr.に紹介して貰い、そこで3〜4ヶ月集中抗がん剤治療をして貰い、悪性リンパ腫を取り敢えず治す事が出来て今に至ります。

後、再発の可能性も低くは無いので気を付けて見ていただいていました。

それから最初に紹介していただいたT病院の裏にあるA施設へと入る事になります。

まだこの頃は冷遇されているとも知らず、後から知って激怒したのを覚えています。

清潔感は無くヒゲは生え、フケだらけ、いつ風呂に入ったの状態、服はぐちゃぐちゃ、適当に車椅子へ座らす等などとても酷いものでした。

直ぐ冷遇を受けていたのだと知り、家で介護をする為に家に移る事を決意しました。

それにそこの、職員は私の母に暴言、脅迫など謝る素振りもせず、祖父と母共に酷い扱いをされてきました。今考えても訴えていいレベルだと思います、虐待にあたるのですから


そして此処からまた色々体験していく自宅介護が始まりました。


先ず磁力でケアマネージャーを見つけ、清潔の為にお風呂を利用する目的でデイケアを開始し介護を始めました。

…ただ問題が二つ、介護が出来るのは現在私一人だという事。

祖母は肺がんで手術をしたばかりで、後元々身体もそこまで強くなく介護は出来ません。ただ何かあれば連絡してくれた為助かりました。

後は料理は母と父が作り大丈夫でしたが、私が躁鬱を持っている為度々喧嘩になってしまうのが問題でした。

『適度な距離』が大切なんだと私は勉強になりました。

その為、また施設に入る期間を作り、また自宅介護に戻りを何度か交互に続けていきました。

家ではちょっとした戦場状態。

自宅介護は初めてで最初は少し手は焼きました、現場とは違い、『家族の介護』に変わる為また違った大変さを感じました。

一番は本人の我儘、食事介助(良くなってからは自己にて摂取可)オムツ交換と破棄、整容等ありました。

一番は我儘で身体の弱い祖母と祖父が喧嘩をよくしているのが此方もヒヤヒヤしながら間に入り介護をしていました。


それから定期検診日、女性のDr.に変わったのか逃げたのか前のDr.は外れていました。

身体障害者手帳を作る作る詐欺で逃げていきました、今思えば酷すぎます。Dr.自体失格行為です。

それはさておき、肺のレントゲンを撮りましたが、白い点が出来ているのが分かりました。

ですがその女性のDr.は

「まぁ大丈夫でしょう」

と返されてしまいました。

ですがそれが大きな医療診察ミスに繋がり大変な事になりました。

その頃、祖母にも肺癌が見つかり手術にて肺の右下を取り、何とか良かったのですが、祖父の肺がんらしき白い影は次の定期検診で早く進行が進む癌だと分かり、ステージ3〜4になっていたのです。

本当に唖然としました。Dr.も

「もう切ることは出来ない」

と言われ、肺の上側にあるリンパにも癌が転移していました。

母は悪性リンパ腫の症状じゃないかと、再発したんだと、そして癌が小さい時に女性のDr.が放置した事に怒りとまた自分達も気づかなかった事にショックを隠しきれませんでした。

ですが病院に行きたくても今いる施設内でコロナ渦で外出も出来なくなりそうでしたので、もう施設を出て病院に行くという計画に至りました。

…ですが今となっては切る事も抗がん剤も歳が歳で止められ、しかも怒鳴られました。

N病院の下っ端のDr.はどうしても決定権がなく上がダメっ言ったらただ従うだけで祖父の体力の事も何もかも知らないのに諦めろと言わんばかりに療養と1年宣告させられました、しかも患者本人の前で堂々と…何を考えて本人の前で言ったのかと最悪な医師だと言う事は分かりました、二度と行きません。

せめて1ヶ月は家で介護をし、病院に行く事になりました。

現在では1ヶ月1ヶ月を目処に見て、いつ亡くなってもおかしくない状態みたいです。

病院に移ってからは、本人も不安と寂しさがあるみたいで面会を現在進行系で1ヶ月単位で会いに行っています。


ここからは私の私話なのですが…

祖父は私には本当に甘かったと今でも思っています。

車で何度も仕事中に学校の送り迎えや、魚釣り、公園花火大会にプールに好きな物は何が何でも探して買ってきてくれる祖父でした。

今でも無理して買ってきてくれたのだろう、ピンクのくまをわざわざ探して病院にお土産として買ってきてくださいました。

…何十年経った今でもまだ持っています。

喧嘩も我儘も本当に沢山言って、なかなか素直じゃない私を大切にしてくれたんだと思います。

…なので死期が近いなんて考えられない気持ちです。

祖父は、一から3〜4人で会社を作り支えY葬祭という会社に懸命に勤めてきました、私から見てもそう思います。

少し頑固な所があり、社長さんとも喧嘩は途絶える事無かったとか、でも社長さんは色々良くして下さったとも聞いています。

こうしてみると祖父は波乱万丈な人生をしてきたんだなと母から聞かされた昔の話も含めつつそう思います。

私も仕事を一年休みを頂きましたがそこで母が祖父の家に帰りたいを叶えてあげたく自宅介護がしたいと言い出し私も足が痛いながら介護をする事になりました。

…今思えば私の介護の仕事はもしかしてこの時の為のものだったのかな、と今ではそう思っています。

介護と言っても違う体験でもあり、また私がモラハラいじめを受けていた経験があったからこそ優しくなるきっかけくれたのだと今となっては私の人生に必要不可欠だったのかと、嫌な事もあったけど良かったと思う様にしています。

今も介護は好きです。

患者様の『有り難う』を貰えるだけで介護してて良かったと、また頑張れるとあの頃も今もそう思っています。

それは介護は大変です。

でもそれ以上楽しい事嬉しい事もあると私はこれからも信じて、また最後まで祖父を見守って行きたいとそう思えるのです。

最後に一つ、余命宣告され1年以上経っており、また元気にしています。

なのでN病院はヤブ医者だったと、正直切って欲しかったと最後に恨みがでます。

最後の最後に裏切られたと思いました。

Dr.は先生です、ですが命を勝手に決め付けて縮めるのは神の行為です…先生は神ですか?

違いますよね、そう胸の中で泣き、病院に送り出したのでした。

2021年の事でした。


先ず最初に、この小説を閲覧して頂き有り難う御座いました。

私は元々小説を書くのが好きで趣味として中学から書き続けています

今回はイジメから介護の実話談と又語り書きとして書かせて頂きました。

何故この話を実話談にしたかというと、同じ境遇の人もも大勢いるのではないか、又同じ様に人間関係で苦しんで学校、仕事、また家族の介護をしている人へメッセージを送りたかったからです。

よく子供の頃親から

「イジメを苦に死んじゃ駄目、あんな人達の為にあんたの人生を終わらせていいの?」

とよく言われたものです

辛かったと言えば辛かった…だけど

「社会人になれば自由になれるから」

という言葉に少し期待し、18歳を迎えました。

ですが社会も甘くなく、それっもいじめはありました。

でもそれ以上に相手の気持ちを考えられる人間になったと今ではたった一つの『自信』として自負しています。


今からまだまだ祖父の事や、仕事を再度始めた事など現在進行系で色々ありますが、また少しづつ第二弾として小説を書けていけたらと思う限りです。

今はただ、言葉に左右された人生だからこそ逆に言葉で伝わるものもあると思い頑張って人生進んでいこうと思います。

長々と有り難う御座いました。


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