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97・帰還

 男が見つめる丘のはるか下、農地を囲う柵の前に現れた集団は、予想していたものとは異なっていた。


 ボロ布こそ纏っているが、少人数の統制の取れた一団で解放軍の旗も掲げていない。威圧感もなく戦いにきたと言うよりはまるで招かれてきたというような落ち着きを見せている。


 ついに門の入り口にたどり着いた彼らと、フーコーを中心としたこちら側の警備兵がなんらかの話し合いをしているであろう様子を遠くにじっと見つめていた男の元に、一頭の馬が駆け上がってくる。


 じりじりとした気持ちで待っていたところにようやく伝令からもたらされた知らせに、男は目を見開いた。



 ボロ布を纏った二人の男が、フーコーに先導されて屋敷へと続く坂道を登ってゆく。集団の残りは敷地を区切る柵の門前で、陣と言うよりはただ野営の手配をしたといった休息のための薪拾いやテント張りをしながら大人しく待っている。


 フードを被ったボロ布の二人のうち一人は小さく細身であったが、もう一人は妙に人目を引く雰囲気を醸し出していた。先導する大柄で筋肉質なフーコーに比べても遜色のない立派な体躯、柔らかな歩き方や背筋の伸びた凛とした気配。


 畑で作業している奴隷たちも興味からちらりと目をやっては、その姿を認めると思わず手を止めて見入った。彼には見覚えがある。はっきりと思い出せないのだが、そのどこまでもまっすぐな気質を窺わせる態度に。


 誰かに似ている、そう、確かあれは。しかし、記憶にあるはずの姿と今目の前にいる人物がどうもうまく結びつかない。一人を思い出すと何故かまた別の一人が浮かび上がり、記憶と感情がバラバラになる。


 奴隷たちは皆、不思議な懐かしさと微妙な違和感を感じながら、その正体を掴めずに首を振りまた己の作業に戻っていく。


 フーコーがちらりと後ろを振り向きながら、家の前にたどり着いた二人に屋敷に入るように玄関へと続く短い階段を示す。階段を登る二人の前に両開きの扉が開かれて、メイドのアーキーがお辞儀をしながら出迎える。


 「おかえりなさい」


 深く頭を下げ、アーキーがそう声をかけた。再び上げた顔には、礼儀からではない心からの親愛の情が見てとれる。


 「ただいま」


 先頭の男がやわらかい笑みを浮かべて答えながら、纏っていたボロ布を肩から外しアーキーに手渡す。受け取った彼女の表情が驚きに変わる。


 これは。


 記憶の中にある彼の姿との食い違いが、めまいのように現実認識を阻害する。そのくらい意外な姿で彼がそこにいる。


 決して彼が彼でなくなったわけではない。面影どころか、本人だと言うことははっきりとわかる。でも、それでも信じられない。これはまるで。一瞬、自分が時間の境を飛び越えてしまったのかと疑いたくなるような。冷たい冬の間こもっていた屋敷ごと、世界の流れから切り離されておいていかれてしまったのかと思ってしまうような。


 そんな姿で、彼はそこにいた。


 彼もアーキーの驚きをわかっているようで、後ろでボロ布を脱いでいる仲間のウサギの獣人と顔を見合わせて苦笑したあと、はにかんだようにアーキーを見つめた。


 そのまっすぐな、意思の強さと深い優しさを持った目は、前と変わらずにまっすぐにアーキーの心を掴む。でもそこに、もっと胸の奥を突く眩しい魅力があった。不意に、思っても見ずに自分の心臓がドキリと跳ねあがりアーキーはたじろいだ。


 自分の頬が赤くなっていないか焦る。これは、まさか。でもきっとそのまさかだ。輝くような快活な魅力と懐に飛び込んでくる率直さが、あの頃のまま、そこに男性的な成長の気配が色気となってあふれんばかりに振り撒かれている。本能的にあらがいようのない、今まさに成熟しようと奮闘している青い果実の激しい生命力。まさか異性として彼を意識することになるなんて、それだけでも考えられないことだった。


 あれから幾月も経っていないはずなのに。


 不意に彼は、あの時の無邪気さと屈託のなさで再会の喜びをしめし、大きく腕を広げると驚くアーキーの体をがっしりと抱きしめた。


 泥と汗の奥にある、白いバラのような甘い香りが脳を鼻梁の奥から直接刺激して、アーキーは呼吸も苦しくなるほどに思考の全てをその芳香に奪われる。くらむ視界と意識をなんとか踏ん張るのに必死な彼女を、硬すぎず、だが十分すぎるほどに筋肉質な両腕と胸が思わぬ強さで包み込みさらに冷静な思考力を奪う。


 「ハぁっ」


 あまりにも無防備にさらけ出された男性的な魅力が、暴力的といっていいほど彼女の本能を刺激してアーキーは身を硬らせ喘ぐように息をすることしかできずにいる。それにあまりの落差、この間まで自分の胸元までしかなかったはずの彼に、今、自分の方が小さくなってしまったかのようなたくましさで覆いかぶさるように抱きすくめられている。


 戸惑いと、身のうちに起こる予想もしなかった熱に浮かされるような感覚、肌から伝わる熱とあいかわらず鼻梁の奥を支配し続ける色香。耳にかかる彼の口から漏れる吐息の音とくすぐったさに体が反応し鳥肌が立っている。心より前に悦んだ自分の肉体が、さらに何かをせがむように全身を必死にそばだたせているのがたまらなく恥ずかしい。


 違う、違う。


 アーキーは意味のわからぬ様々な感情の嵐にいきなりのうちに突き落とされて、ほんの束の間、人目もはばからず泣き叫びたいような激情に囚われた。だが、彼の腕にしがみついてなんとかそれを乗り切ると、後に残ったのは喩えようのない安心感だった。


 こうして自分を包み込んでくれて、どれだけ寄りかかって身を預けても、自分の心の奥の全てをさらけ出してぶつけても、決して揺らぐことのない公平な精神とたくましい肉体を持った存在を身近感じる幸せ。世界の悲劇や不幸にもただ否定するだけでも目を逸らすわけでもない、それに立ち向かい、かつ己を見失うことのない人と大地に根差した強さ。


 アーキーは自分がいかに不安でささくれた気持ちでいたかに彼の腕の中で初めて気づいた。


 奴隷解放軍との戦い、エリヤ様の衰弱、公平さへの微かな疑問、主人の態度、世界の流れ、モモナ様の孤独、ユンカの痛み、そして己には何も変えようのないという圧倒的な無力感。


 普段誰にも言うことができず、自らもはっきりと自覚すらしていなかった様々な痛みや苦しさが後から後から吹き出してきてアーキーは止めようがないほど激しく身を震わせる。


 彼女のそんな様子に驚いて彼は腕を緩めようとするが、アーキーは手にしていたボロ布が床に落ちるのも構わず今度は自ら彼に両腕を回ししっかりとしがみついた。そして厚く大きな背に指を立てる。彼から決して振り落とされないように。生きることの荒波から自らの身を守るために。


 「抱きしめていてください、もう少し」


 彼の胸に頭を埋め、アーキーはメイドとしての恥じらいを捨てて呟いた。


 再び自分をしっかりと締め付ける暖かな腕の感覚に包まれて、そこにある確かな安心感におもいきり身を委ねて心を預け、いつの間にか流れ出した涙がいままで決して届かなかった心の奥の傷を癒してくれるのを感じながら、アーキーはこの時間がいつまでも続けばいいと願った。


 彼は変わらぬ優しさでそんなアーキーを抱きしめ続けた。

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