96・再び
それから数ヶ月が過ぎた。
解放軍は再び訪れることはなかった。無事に厳しい冬を乗り越え、春の兆しが野に訪れていた。
男は食事を終え、一人でいつものテラスでパイプを吹かしていた。すっかり雪の溶けた農地を奴隷たちが耕す様子を眺めながら。固い象牙の吸い口を噛み締めてほとんど無の状態で反射的にスパスパと舌を心地よく刺激する煙を味わい、ぼんやりと風景を見下ろしていた。他人からはうつろとも無為とも見えかねぬ状態だが、男にとっては至福の時だ。
特に近頃の心を痛めることの多い日常では貴重な時間だ。この数ヶ月で男の髪は白いものがかなり増えていた。
そんな白日夢のような霞の精神を楽しんでいた男の目が不意に険しく細められる。
意識が明確にとらえる前に本能が反応していた。軽く舌打ちをして、男は微睡のような心地よさを破ったものの正体を探って視線を動かす。
遠く幾重にもうねり重なって続く丘の、針葉樹の森の中を見え隠れしながら地の果てまで続く一本道に動くものが見えた。
遠い。そしてすぐに丘に隠れてしまいはっきりとは見えなかった。
だがすぐに男は車椅子を動かした。
針の先のようだったがそれでも脳裏に焼鏝で痛みとともに刻み込まれた姿だ。間違いようがない。ギザギザの輪郭を持ったチラチラはためく姿。
あいつらだ。奴隷解放軍。ボロ布を纏うことを誇りにする集団。
玄関に向かうと男の様子をみたアーキーが、常に落ち着きと礼儀を失わないメイドの鏡らしく顔にこそ出さないがその緊張を感じとったことがわかる。扉を開けてくれ、外に出た男の後ろに控えた。
男が口笛を吹くと、家の裏からフーコーが飛ぶように姿を現した。
「どうしました?」
まだ肌寒いというのに肌着一枚で腕まくりをし、全身から湯気を立ててフーコーが聞く。アーキーはそんな彼に、どこから取り出したのか銀の水差しから注いだコップの水を差し出している。
「まだわからん。だが、備えてくれるか?」
それだけで全てが通じた。コップの水を飲んだフーコーは眉をひそめ、まどろっこしそうに直接水差しの水をがぶ飲みしたあとに口を拭いながら家の中にかけこんでいった。
あれから再びの襲撃に備えてできるだけのことはしてきた。
フーコーとアーキーも今は回復している。戦える手下も増やした。なにより奴隷たちに話をして、自分たちと戦ってくれることになったのが大きい。もちろん女子供は戦力の外だ。男でも戦いたくないものは参加する必要はない。それでも40人以上の奴隷が、有事にはこちらについてくれると言ってくれたのはうれしいことだった。
彼らにとって、私の存在は敵ではなかったのだ。
敷地の外に柵を張り巡らせ、所々に弓を打てる高台も作った。
男のいる玄関の上に張り出したテラスから、手下の一人が角笛を吹くのが聞こえる。奴隷たちが作業の手を止め、こちらに顔を向ける。幾人かの手下を引き連れてフーコーが家から飛び出して丘下の農地に駆け下りてゆく。
だが。
男の顔は浮かないものだった。
あれからさらに拡大した解放軍の勢力は、以前ここを襲撃した時とは比べものにならない規模だという噂を耳にする。そしてその大きくなった軍勢を維持するために各地で行われていると聞く略奪の様子も。
つい最近も、皇王軍との大きな衝突があったという噂だった。もはや個人に対応できる枠を超えているのかもしれない。
男は力なく拳を握る。
そして自分の後ろに控えるアーキーにいう。
「ユンカに、伝えてくれ」
「かしこまりました」
うなづいて立ち去るアーキーを見た男は目を伏せる。
エリヤが、心配だった。
ユンカが部屋に入っていくと、エリヤはベッドに体を起こし毛布の端を握りしめて身をこわばれせて固まっていた。骨張った手に筋が浮いて白くなっている。
身につけている寝巻きはダブダブでまるで子供が大人用の服を着ているかのようだ。落ち窪んで青ざめた眼窩に、
飛び出しそうなほどに大きく目を見開いて。
エリヤはげっそりと痩せていた。ゆったりした服が隠しているが、アバラがうき腰骨が飛び出るほど体重が落ち、ただただ神経を尖らせて周りに怯えている様は、まるで保護された捨て猫が毛を逆立てて震えているようで見るものの胸に刺さる。
ユンカには何度目にしても息を呑むほどにその姿は痛々しい。
「何があったの?」
いくら広い屋敷の隅にしつられた寝室とはいえ、普段と違うことが起きたのはわかっているようだ。ユンカはなるべく刺激しないようにゆっくりと近づき、寄り添うようにベッド横に体をかがめる。
震える手にユンカが手を重ねただけで、びくりと弾かれたようにエリヤはそれを払って毛布の下に潜り込ませた。
「エリヤ様、なんでもありません」
柔らかい笑顔でユンカが言うが、エリヤはそれを強く否定する。
「嘘。聞こえたのよ、角笛が。そうでしょう?」
ギラギラとした目で、視線を泳がせてユンカを見ながら、怯えたような睨むような表情に深刻さを増してエリヤがいう。
「来たんでしょう。あいつらが」
そして言ってからまるで悪夢に囚われたように両腕で頭を覆い身をかがめると、激しく体を揺さぶり始める。
「ああああああっ!!!!!あああああああああっ!!!!!!」
ユンカはたまらずその体を抱きしめるが、そうされることすら恐怖の対象なのか、胸に感じるエリヤの薄い皮膚に包まれた骨ばった体は、和らぐどころかユンカの抱擁に石のように強張って、彼女から逃れようと全身を消え入るほどに小さく竦めてよじって手をすり抜けようともがく。
その傷ついた子猫そっくりな、世界の全てを拒絶する仕草はユンカには見ていられぬほどの辛さだ。
「エリヤ様」
あの日から、エリヤ様の何かが壊れてしまった。
ヨフカ様を失った時に受けたショックを、奴隷に対する怒りと身内への愛情というかりそめの安定でなんとか保っていた精神。それが、自分を取り巻く絶対に安全だと思っていた居場所が最も憎むべき奴隷にたやすく壊されてしまうという恐怖から、エリヤ様はひとときも休まることができなくなってしまった。
いつかまた必ず彼らがやってくるという恐れ。
そしてそれに対して自分は何もできないという絶望。
強く尊敬すべき存在であった夫を殺した奴隷たち、彼らを人ではなくただの獣と考えることで存在価値をゼロにして、意識の外に追いやって平静を保っていたがゆえに、逆に自らが獲物になった時に、その獣としての恐ろしさが無限大に拡大されてしまったのだ。
戦うことを考えることは、相手のことを考えることだ。
自らを脅かす相手のことを考えて初めて戦って勝つ可能性、逃れる必要性に思い至れる。そしてそれが恐れを克服する唯一の手段でもある。
だがエリヤはそれを否定したために、戦うことすらもできないのだ。オークスのこと考えることは彼女にはあまりにも恐ろしく汚らわしく不気味でいむべきことだから。だから今やってくる奴隷たちも、向き合い戦う相手ではなく、ただ恐ろしい汚らわしい存在。
彼女を脅かす、絶対に太刀打ちできない悪夢。彼女の住む世界の外にいる争う術のない悪鬼でしかない。
「ああああああああああああああっ!!!!!!!!」
毛布に頭を埋めて痙攣したように身を震わせて叫ぶエリヤに、ユンカは何もすることができない。触れることも声をかけることも、エリヤの恐怖を刺激するだけだ。
それが辛い。
ふと、微かに開かれた扉の隙間から小さな目が覗き込んでいるのに気づく。
ユンカは立ち上がり扉に近づくと、開いてその小さな人影を招き入れる。可愛らしい顔に不安を張り付かせたモモナ。
ユンカはしゃがみ込み、モモナを胸に抱きしめる。モモナの腕が自分の背に回されるのを感じて、ユンカは自分が癒されるのを感じる。
それは一種の代替行動だ。エリヤを癒すことができない自分に感じる情けなさを、モモナを癒して自分を慰めている。それはユンカにもよくわかっている。本当はモモナを慰めてもしかたない。モモナはエリヤが苦しんでいることに苦しんでいるのだから。
でも人は、できないことにもがき苦しむよりも、できることに癒しを求めるしかないのだ。
だからモモナもユンカも、自分がエリヤの恐怖を取り除けない苦しみを、お互いに寄り添って、ただ堪える。
今はただ、いつかすべてがよくなることを信じて。




