87・草歩の知らぬ世界
しばらくみつめあった後、草歩は目をそらし、
「ピョン、お喋りで僕の注意をそらそうとしてるの?」
とピョンの言葉にまともに答えずそう受け流した。
ピョンは桂馬を3三に跳ねてきた。2五の歩を狙ってこちらの飛車先を逆に利用しようとする攻撃的な手だ。
普通に強いじゃないか。駒組みも隙がないしどうしてこんなに成績が悪いのだろう、と草歩は不思議に思う。
2五桂跳ねを防ぐ手段はないが、端を攻めさせておいてこちらは玉頭に飛車を回って責めるか、中央の銀出を優先して対抗するか。
「兄貴は優しいから人を助けようとする。でも、その同じ優しさが、自分のために人が傷つくことを怯えさせる。だから自分が犠牲になって誰かのために命がけで戦うことは怖くなくても、その戦いが原因で結果的に誰かが、それも大事な人が犠牲になることは何よりも怖いんですミ。
だから戦わない。だから逃げる。
自分が他人のために命を投げ出して、大切な人を傷つける結果になるとしたら、それは愚かで決して自分を許せなくなる行動だから。
だからジュハクさまが『あいつ』と戦うことになったことが自分のせいだと思った兄貴は自分自身が許せなくて、それでもう二度と同じことをしないと思ったんですミ。
だから逃げて、隠れて、世間とかかわらず『あいつ』に見つからないようにした。
僕のために」
ピョンは草歩をじっと見つめたまま言った。
そこまで、わかってくれていたんだ。胸が熱くなる。僕の臆病さをなじってるだけじゃなくて、なんで逃げたかをちゃんとわかって追いかけてきたんだ。
草歩は目を合わせずに答える。
「まだ続けるんだ?」
「一人ごとですミ。兄貴が辛かったように、僕も辛かった。兄貴が僕のことを考えて逃げてるのはわかってたけど、それを一言も言ってくれないのが悲しかったミ。だからこうして追いかけてようやく会えたんだから、独り言くらいすきなだけ言わせてもらいますミ。僕だって兄貴のことは考えてミすよって」
草歩は銀を5六に上げて戦型は整った。あとは相手の出方を見たいところだ。ピョンは歩を5四に突いて5三に銀、4二に金がいて、王を銀金2枚の美濃囲いに囲っている。
こちらは銀冠なので、やはり向こうに2筋を攻めさせている間に玉に近い方からせめるか。草歩は7七の桂を跳ねる。
皇棋の相手とピョンの言葉の相手となかなか忙しい。
でも、嫌な気分じゃない。
ピョンの本気さや皇棋の楽しさ、誰かに自分が共感してもらえているという充足感が心をいっぱいに満たしてくれる。
「だったらどうだっていうのさ」
草歩は答える。
「もしピョンのいうことがあってるとしたら、僕が君と一緒にいられないことはわかるはずじゃないの?今だってそのために君と戦っていることだって」
ピョンが2五に桂馬を跳ねて草歩の歩を取った。
きた。戦いがはじまった。後は大切なのは、どこで『不殺友愛』を使うかだ。角を使うか、桂馬を打つか。そこが勝負を分ける。
桂馬を跳ねながらピョンはいう。
「そうだとしたら、どうしても言いたいことがあって僕はここにいるんですミ。
いいですか。人に対する優しさから出る兄貴の力は本当にすごいと思いますミ。でも、力を正しくつかいながら、そこに生じる誰かの痛みに気を回しすぎて、同じ優しさから力を使うことをやめてしまうのは間違っていミす。
それは優しさじゃない、弱さだミ。
『あいつ』に立ち向かえる兄貴の力や勇気は、誰にも真似できない大事な力なんだミ。この世界を変えてくれるかもしれないと感じられる希望だミ。そんな力を持ちながら、それで周りの誰かが苦しむかもしれないからと言って使わないことを選ぶなんて絶対にダメだミ。
僕はそれを言いたかったミ。兄貴の力は希望なんだミ。この真っ暗な世界を照らす光。
ピーグイから助けてもらった僕だけじゃない。トード親分やフロッガも、きっとあそこにいたチェスナさんも、自分を助けようとしている兄貴の思いには救われたはずだミ。それにジュハク様だって、兄貴の勇気と思いやりに感じ入ったからこそああして自分で『あいつ』に戦いを挑むことを決断されたミ。
だから、あえて言わせてもらうミ。
そうやって逃げることは、自分の力を隠すことは、周りのだれか、まして僕なんかが傷つくかもしれないと思って戦うことをやめてしまうことはこの世界にとって何よりも大きな損失。それは兄貴には許されないことなんだミ。
お願いだミ、ようやく見つけた希望の輝きを消さないで。その勇気と力を正しく使って下さいミ。
兄貴、そのためなら、僕はそれこそ何回死んだって、『あいつ』に捕まってどんな目にあったって、拷問されて串刺しにされたって全然構わない。それでこの世界が救えるのなら」
ピョンの言葉は最後は、こみ上げる涙を飲んだような潤んだ響きを帯びて、その魂の叫びが透明な光の帯、眩しい一つの純粋な結晶となって草歩の胸に突き刺さった。
生きること。
死ぬこと。
意義。
決意。
日本に日本人として平和に暮らして、紛争も人種差別も、貧困も独裁も暴力も支配も、逆に高潔も自己犠牲も闘争も和解も、『世界』について何も知らず、自ら戦争を放棄し他国に守られる体制の、揺りかごのごとき庇護のうちに育った草歩には決してわからぬ、平和と希望のためなら己の身など厭わぬ尊い信念がそこにはあった。
それは草歩がやろうとしていた誰かのためとか自分のためとかいう個人的な欲求や態度を超えた渇望、必然的な本能とでも呼ぶべき個を超越して人に備わったこの世界をよくするために生きること、そのために死ぬことそのものに草歩には見えた。
胸が熱くなる、などというレベルでは済まない、人格の根本を揺るがすような衝撃が草歩を襲った。




