83・逃げること、逃げられないこと
逃げている。
そうピョンに言われて、草歩は自分の心が何一つ動かないのに驚いた。改めて言われても、そうだ僕は逃げている。当たり前のことじゃないか。何を今更、という気持ちだった。
そんな草歩の反応を見てピョンは寂しそうに続ける。
「こう言ってもわからないんですミね。別に逃げることを悪いとは言わないですミ。勝てない相手や手の施しようのない絶望的な状況から逃げることはミしろ立派なことです。自分の弱さや環境の悪さを測れる正常な判断ができていると思いますミ。
でも、人は絶対に逃げられないものがあるんですミ。どんなに目を瞑って耳を塞いで考えないようにして、一生懸命逃げても決して逃れることができないもの。そして逃げれば逃げるほど追い詰められる結果になるものが。
それは『自分自身』ですミ。
兄貴がいくら逃げても何にも変わってないのは、自分から逃げてるからだミ。だから僕を見ただけでそんな情けない顔をして、誰かに責められてるみたいな卑屈に目を泳がせて。
見たくないミ。僕はそんな兄貴は見たくない」
草歩は拳を握る。
今度は怒りが湧いてきた。何を偉そうに。何もしらないで。
だがそれを言葉に出すことはしない。草歩は思いを飲み込んで、ピョンをただ見つめた。
「言い返さないんですミか?喋れないんですミか?」
ピョンに何を言われても、草歩は話すつもりはなかった。それが一番いいと決めていた。
だが、そんな草歩の様子を見てピョンは安心したような顔になる。
「よかったミ、やっぱり兄貴だミ。そうやって逃げ回ってたって、ちゃんと考えているんですミね。しゃべらないのは、『あいつ』が怖いからでしょう?」
今度は草歩は驚く番だった。
そこまでわかってくれているのか。何にも喋っても説明してもいないのに。普通だったらただ不機嫌に黙っていると思ってもおかしくないのに。
そう、草歩がエリヤさんの家にお世話になってからずっと無言を通していたのは、決して病気や精神的ショックのせいではない。それが最善だと思っていたからだ。
ジュキの『厩戸の見識』の能力から隠れるため。
本来は民の声を聞くために与えられた『皇棋指南役』の能力で、どんなに遠く離れていても望んだ相手の呟きを聞くことができるとジュキは言っていた。そしてその力で炭鉱で騒ぎを起こした草歩の居場所を知ったのだ。
だから能力から隠れるために草歩は一切喋らなかった。名前も教えなかった。そうすることで身を隠そうと試みていた。
さすがピョンだ。いつも本当に驚かされてばかりだ。誰よりも僕のことをわかってくれ、誰よりも励ましてくれる。
でもだからこそ。大事なピョンだからこそ。
草歩は黙って首を振る。もう、何も僕には期待しないで欲しい。
「隠さなくたっていいですミ。それに心配しないでください、僕と喋っても大丈夫だミ」
と言ってピョンはフードの首元に手を入れてゴソゴソを何かを手に掛けると、首にかけていたそれを頭から抜いて差し出した。
ピョンの手に握られていたのは紐の先に飾りのついた首飾りのようなもの。石か何かを彫ったような複雑な柄をした、緑青色の丸い飾りがぶら下がっている。
「あのとき、ジュハク様から渡された『公儀隠遁の護符』ミ。世界にこれ一つしかない『皇棋指南役』の能力から身を隠せるお守りで、ジュハク様はこれを持ち出して隠れて暮らしていたんだミ。だからこれがあれば喋っても大丈夫。
大事な大事なものだから、兄貴がいなくなって困っていたんだミ。ジュハク様からの贈り物、ようやく渡せるミ」
ピョンが笑顔でそれを渡そうと草歩の胸元に突き出してくる。
そうだったのか、師匠はそんなものを僕に。そこまでして僕を守ろうとしてくれたんだ。トー伯斎師匠の優しさが、改めて草歩の傷をえぐる。
そんな師匠を僕は。
草歩は身を引いてそれを拒んだ。そして口を開く。実に数週間ぶりに。
「そんな、ピョン。これは受け取れない。それに僕はもうこれは必要ない。誰とも喋らなければいいし、ここにいられないんだったら一人で暮らすから。君が持っててくれ。そうすれば君がジュキに捕まることはないんだろう?それが一番いい」
「何を言ってるんです?これはジュハク様が兄貴にって託したものなんですミよ?それを断るなんて許されないミ」
ああ、やっぱりか。
あの時ピョンから逃げ出したときの苦しさがまざまざと脳裏に蘇って息が詰まる。もうやめてくれ。そうやって僕に何かを押し付けないでくれ。
「じゃあ、僕が君にあげるよ。それでいいだろう?悪いけど、僕は師匠の期待には添えない。だから受け取る資格がないんだ。わかってくれ、ピョン。僕には過ぎた期待なんだよ」
「そうやってずっと逃げるんですかミ。これを託した師匠の気持ちと向き合おうともしないで」
ピョンが痛いくらいに真剣な眼差しで見つめてくる。それは鋼の枷となって心臓を締め上げる。記憶の彼方から蘇ってきた恐怖と共に、否応なしに背負わされる重荷となって草歩の心と体の自由を奪う。
目の前にさらにぐいと掲げられた護符が、まるで己の運命を縛り付ける呪いの象徴に感じられて、草歩は悲鳴を上げてそれを振り払った。
「もうやめてくれ!僕を放っておいてくれ!逃げたっていいだろう?相手は悪魔みたいなやつだし、ここは地獄みたいな世界なんだ。僕に何かできるなんて思わないでくれよ!もう無理なんだ!」
草歩は頭を抱えて叫んだ。
エリヤさんにも言えなかったことを。ずっと胸に抱えていた思いをピョンにぶつけて。
「怖いんだ、苦しいんだ、もうたくさんなんだよ!僕はただの子供だ!!」
ピョンは突然何も言わずに草歩にしがみついてきた。もう逃さないと言わんばかりに。逃れようと暴れる草歩の体に回した両腕で力一杯、苦しいくらいに抱きしめてくる。
草歩は気持ちが抑えきれずにピョンの背中を叩き、服をひっぱり、顔を抱え、体を揺さぶって、掴んで離してくれないウサギの子供に感情を叩きつけた。言葉にならない呻きをあげながら。
どうしてほっといてくれないんだ。どうして一人隠れさせてくれないんだ。どうしてピョンはいつだって僕を信じているんだ。無理なのに。もう、いやなのに。
ピョンもそれに負けずに腕に力をこめ、草歩の胸に押し付けた顔をさらにぐいぐいとすり寄せて、絶対に逃さないという決意をしめす。
「なんなんだよ、もう」
涙こそ流さなかったが猛烈な興奮を他者にぶつけた後の激しい虚脱感とむなしさが訪れて、急に力を抜いてピョンに身を任せた草歩は呟いた。ピョンは変わらぬ力強さで草歩にしがみつき続けている。
こんな性格だったのか、と草歩は呆れる。
そう言えばまだ会ったばかりなんだものな。知らないことばかりだ。まあ、奴隷になってまで父親に会いにいくんだから、執念深いのは当たり前か。
そんなことをぼんやり考えているとピョンが言った。
「逃げないでくださいミ。逃げないで聞いてくださいミ」
「うん、わかったよピョン。君の勝ちだ」
草歩の苦笑を耳にして、ピョンはようやく体を離した。
「また逃すわけにはいかないですミから」
そして呟くように言う。
「兄貴、兄貴が本当に逃げたいなら、僕は止めないですミ。だから、一つだけ教えてください」
「何を?」
さっきからそう言っているじゃないかと思いながら草歩は尋ねた。ピョンは一度目を閉じて息を整えたあと、顔を上げてこう言った。
「兄貴は本当に、心の底から、もう戦いたくない、と思っているんですミか?」




