82・ピョンの心配
男は自分の見ているものが信じられなかった。
猛り狂っていた解放軍の兵士たちが、武器を収め潮が引くように丘を下っていく。捉えていたアーキーやフーコーも解放してその場に残し、ボロ布を纏った集団は屋敷のふもと、農場の奴隷たちの住む建物の近くまで下がっていった。
たった一人のあの少年が、自分の前に身を呈して獣人の棍からかばってくれた少年が全てを変えた。理解できないがそうとしか思えない。
フードをかぶっていた長耳の子に付き添われながら、赤牛の獣人には不満そうながらも敬意を払って扱われながら、彼らとともに丘をおりていったちっぽけなあの子供が。
一体何ものなんだ?
「何があったんですか?」
腕を押さえ足を引きずりながらフーコーが近づいてきて男に尋ねた。彼も状況がわからないようだ。狐につままれたような困惑し切った顔をしている。男は首を振った。
「さあ、わからん。君が滝壺から助けたあの少年が、どうやら私たちを救ってくれたらしい、と言うことくらいしかな。人助けはしておくものだな、フーコー」
フーコーはそれを聞いてニヤリとわらう。
「もしかして精霊様の使いとかじゃないですよね。どうもあの子はこの世のものじゃないような雰囲気があって」
「ふっ、確かにな。あの少年には人を引き付けてやまない魅力がある。その正体がわからなかったんだが、この世ならざるもの、か。いいえて妙かもしれん。まるでこの世界に生まれたのでないような。
まあ、冗談が言えるなら大丈夫そうだな。満身創痍を絵にかいたように見えるが」
フーコーの腫れ上がった顔や破れた服を見て男は顔をしかめる。それを自らの痛みとして受けたように。
いつの間にかそばに集まっていたボロボロのアーキーやフーコーの手下たちを見回して男は言った。
「皆、本当によくやってくれた。おかげで家族を守ることができた。どういうわけかはわからんが、奴らは一時撤退をしてくれたようだ。我々も引き上げよう、そしてできるだけ体を癒してくれ。今後どう転ぶかはわからんが、少なくとも休める時に休んでおこう」
車椅子を押そうとするアーキーを制して、「せめて自分で帰る」と言った男は、再び丘の下を見やった。
今はどこかに紛れてしまったあの少年に、心の中で奇跡を起こしてくれた感謝を送りながら。
あの後、兵を引くように言ったのはピョンだった。
草歩は一言も発していない。立ちはだかった草歩の姿から意図を汲んだピョンが赤松に何か言葉をかけると、赤松もすぐに従った。もしかすると草歩を探していることはすでにピョンが伝えていたのかもしれなかった。
奴隷解放軍の中枢をなすトード一家を助けた恩義ということで、草歩のことは他の兵士も知っているようだ。
みんなにじろじろ見られるのはちょっと恥ずかしい。なにしろ今自分がきているふわふわでキラキラした格好はボロ布を巻きつけている兵士の中ではちょっと間抜けな感じに浮いてしまうからだ。
彼らが丘を下りるのと一緒に、草歩はピョンに見張られるような形で連れられてきていた。無理やりではないけれど有無を言わせぬ雰囲気がピョンの態度にはあった。もうこれ以上草歩の自由にさせる気はないというような。
「ブフー。いいか、少しここで待機する。これは仁義によるものだ、不満を言っちゃあなんねえ。方針が決まったら行動を起こすから、お前ら体を休めておけ」
赤松の命令で兵士たちは広がってそれぞれ休み始めた。赤松以外にもベロリや他にも顔をみた覚えのある一家の子分がいたが、彼らも草歩に会釈して感謝を示してくれた。何にもできてないつもりでいたけれど、思わぬ形で自分が認められて正直嬉しい。
でも。
草歩にはすこしショックだった。こんな戦闘組織にピョンがいるなんて。
伺うような草歩の目線にはかまわず、ピョンは赤松と何か相談をした後に草歩のところに近寄ってくると、腕を引いて少し離れた木陰に連れていった。
仕草に迷いがなく躊躇いもない。きっとピョンと出会って驚いている草歩と違って、ピョンはずっとこの時のことを考えていたのだろう。草歩とあったらどうするか、何を言うか。そんな態度だった。
二人きりになって改めてピョンと向かい合う。
擦り切れたフード付きのローブを被り、綺麗なベージュの毛なみはホコリにまみれている。それでもたった数週間しかたたないのに、体つきがしっかりして強くなったように見える。背も少し伸びただろうか?痩せたみたいだけど、その分首や肩ががっしりとした印象だ。
でも草歩はどうしてもピョンのことをまともに正面から見ることができない。ピョンを見ていると心が苦しくなって、自然に目が泳ぐ。
できればもう合わないでいられればよかった。いくら期待されても、もう僕は二度と何かをするつもりはないんだ。
「さすが兄貴ですね、あんな風に戦いを止めるなんて」
ピョンがにっこりと笑う。いつものまっすぐな笑顔で。
その笑顔が草歩の胸をするどく打つ。その顔はきっと今の臆病な僕でなくて、ピョンを助けた時の無謀で恐れをしらなかった僕に向けられているんだ。
君が純粋に僕を褒めるほど、その表情が暖かく僕を包むほど、同時に激しい痛みに襲われる。無力な自分にさらされる。
僕は何もできないただの子供だ。
ほんの一瞬のやりとりで、草歩はここにくる前の苦痛を思い起こさせられていた。エリヤさんやモモナに癒してもらった傷口が簡単に開いて血を流す。
もう耐えられないんだ。
草歩は力なく首を振った。それを見てピョンは悲しげな、いたわるような顔をしてため息をついた。
「思ってた通りだミ。もっと言えば、思ってたよりも悪い見たいだミ」
ピョンが草歩の体を眺めまわして言う。
「僕は兄貴が死んでたらとは考えませんでしたミ。兄貴がひもじい思いをしたらとは考えませんでしたミ。兄貴は強いから。いざとなったらなんでもできる人だから。
だからまず心配したのは、一人で森の奥に籠もって見つからないことだったミ。でもそうだったら、兄貴はもっと成長していたでしょうミ、一人で自分や起こったことと向かい当あって。
次に心配だったのは、誰か悪いやつに利用されることだったミ。兄貴は真っ直ぐだから、簡単に人に騙されるから。僕のことだって何も聞かずに信じてくれたんだミ。でも、それでもきっと兄貴はその相手を改心させて、成長できていたでしょうミ。きっとそれを通じて自分の役目を改めて考えられて。
そして一番心配だったのは、誰かに助けられて、そこに隠れて暮らすことだったミ。それが当たってしまった見たいだミ。それも一番悪い、金持ちの何不自由ない奥様にペットみたいに飼われる暮らしだったミたいだミね」
呆れるようなピョンに視線が痛い。でも草歩は何も言い返す気にもならないでいた。その通りだもの。
ピョンは続ける。前のピョンだったら考えられないほど、遠慮のない物言いで。
「なんですかそのひらひらした服は?赤くてすべすべしたほっぺたは?サラサラで艶々の髪の毛は?可愛がってもらってた見たいだミ?甘やかしてもらってたみたいだミ?いいもの食べて柔らかい布団で寝て、優しくされて。
それで幸せでしたミか?それで楽しかったですミか?
だったらどうしてそんな顔をするんですミ。
僕と別れてから時間がたって、温もりに包まれて癒してもらったはずなのに、なんでそんなに傷ついた顔を、あきらめた顔を、無力な顔をするんですミ」
ピョンは草歩を見据える。
「教えてあげミしょうか?僕に会いたくなかったと、二度と思い出したくなかったと考えていそうな、ここで一生暮らしていくのが幸せなんだと考えていそうな兄貴に教えてあげましょうか?そうやって生きるのがどうしてそんなに辛いかを?」
草歩は自然と耳を塞ぎたくなって、それを必死に堪える。聞きたくなかった。ここから走り去りたかった。現実と向き合いたくなかった。
しかし。
他ならぬピョンの、親友の言葉から耳を背けるわけにはいかない。それだけの分別を草歩はもちあわせていた。
だから耳を塞ぐ代わりにまっすぐにピョンを見た。今日初めて、赤くて美しい憂いのある瞳と目を合わせて。
「それはね、兄貴が逃げてるからですミ」




