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80・永遠の隔たり

 「オークス、君は立派だったじゃないか」

 オークスのヤツデのように大きな手に首を締め上げられながらヨフカは言った。


 背にナイフが刺さり力一杯殴りつけられ首を締められていることよりも、傷ついた相手の心をいたわることが大事だとでもいうように。


 「人は自分でしかいられない。その通りだ。


 だからこそ君は僕よりも立派だったじゃないか。そうだ、僕は恵まれている。恵まれた人間が綺麗事を言うのは簡単だ。恵まれた人間が人に気を遣うのは当然だ。恵まれた人間が才能を発揮する環境を得るのは容易いことだ。


 だから、君は僕よりも立派だった。


 時間も環境も整わない中で勉強し意識を高め、世の中を変えるために動くことは誰にでもできることじゃない。君は君だからこそ、その努力は誰よりも価値があり、その行動には説得力があり、その言葉には重みがあった。


 君は貴族ではないからこそ、多数の同胞を率いて先頭に立つべき力があったのに。


 僕の妻が何を言ったとしてもそれがなんだ?君は誰よりも誇るべき君じゃないか。人にどう見られるかなんて些細なことだろう?自信を持ち、逆に相手を哀れんでやればいいじゃないか。僕になりたいだって?君に憧れる労働者たちの眼差しを知らないのか、オークス。僕のような人間は彼らに真に信頼されることはないんだよ。


 ここに来た他の奴らも、僕を敵とおもえばこそ君に従った。君だからこそ従ったんだ。君が命じるなら犯罪であれ高貴な思想であれ従うんだ。


 なぜその力をちっぽけな嫉妬に使ってしまったんだ」


 泣きながら自分の首を締めるオークスの首に、ヨフカも手を伸ばし両手で締め付ける。自然と涙をこぼれさせながら。


 「すまない。君の努力を報いず、君の振る舞いを顧みず、君の生まれをあざわらう世界ですまない。そんな世界で君の友でいたかったのは本心だ。いつか公平な世界を作りたかったのも本心だ。


 焦ってはいけないんだよオークス。


 いつか恵まれぬものの努力が、恵まれたもののそれよりも高く評価される世界を、いつか平等な視点を持つ人間の言葉が、不平等で歪んだ価値観を持った人間の言葉よりも重みの持つ世界を、いつか語ることよりも、行う人間に注目と尊敬の集まる世界を、そんな世界をつくるのであれば、それは思いやりによってしかなされない。


 君は僕をうらやんでそれを放棄した。

 君は他ならぬ自分を裏切って、人を傷つけることを選んだ。


 だから君が僕を殺すというのなら、僕も君を殺そう。

 僕の妻を傷つけた男が反省も後悔もしないのなら、命を持って償わせてやる!!」


 真っ赤な顔をして獣と首を締め合うヨフカの顔は、エリヤが知る夫のものではなかった。優しく余裕とユーモアがあって常に笑顔を絶やさぬ男。


 今の彼は自分には決して見せない、本質的な人間としての苦痛と後悔と怒りと絶望を剥き出しにしている。目の前にいるけだものに、エリヤから見れば忌むべき相手でしかないその男に、本気で憤り本気で涙を流している。


 一体ヨフカはどうしてそこまで?あんな野獣。あんな畜生。あんな醜い生き物のために必死になれるの?


 あんなやつ、人間ではないのに。


 さっきからめまいが止まらず動くことも話すこともできない。いつの間にか数十センチ離れたソファの先で、火のついたようにモモナが泣き出しているが手を伸ばすことができない。泣き声も壁に挟まれた別の部屋での声に聞こえる。


 男たちはいつの間にか再び殴り合い、取っ組み合いお互いをねじ伏せ合い。まるで子供の喧嘩ね。朦朧とした意識の中でエリヤは思う。


 理想だの権利だの価値だの、目の前の相手をどう見るかなんて偉そうに人に指図するものじゃないわ。私は嫌い、私は好き。それでいいじゃない。


 ああ、ヨフカが毛むくじゃらな獣に馬のりになって殴りつけている。勝ったのかしら?

 相手が動かなくなり、ようやく顔を起こしたヨフカがこちらを向いて微笑む。笑ってる。よかった。


 そしてまたがっていたオークスから離れこちらを振り向いたとき、虫の息だったはずのオークスの手がヨフカの背中に回って何かをした。


 赤い雨。


 ヨフカの背中から天井に向かって高く吹き上がった血飛沫がエリヤの視界を真っ赤に染める。


 ああ。


 熱い、ヨフカの命そのものが宿った血液が無数の滴となって体に降りかかる。ヨフカはエリヤに笑いかけたまま、ゆっくりと前のめりに倒れてゆく。後ろに見えるオークスの手にはナイフが握られている。


 赤い。赤い。あかい。あかい。アカ。


 やがて視界が真っ赤に染まり、音がまゆに包まれたかのように静かに消えてゆく。


 そしてそのまま赤い闇にエリヤは沈んでいった。



 闇の中で幾度となく聞いたのは、獣の喜びに満ちた叫びと嘲笑。胸の悪くなる卑屈で歪んだ勝利の雄叫びと暴力衝動の伴った咆哮。


 人が人でなくなった時に、この世で最も醜い悪鬼に変化して発する邪悪な喜びの歌だ。



 ハッとエリヤは目を覚ました。短い時間であったことはすぐにわかったが、全身にべっとりと油汗をかいていた。

 自分はベッドに寝ているのか?ユンカが心配そうに顔を覗き込んでいる。


 ああ、ユンカ。


 エリヤは思い切り彼女を抱きしめた。

 「ごめんなさい、ごめんなさい、ユンカ。辛かったでしょう?苦しかったでしょう?許してね。こんなことにあなたを巻き込んで。パパがいれば。パパが」


 痛いほどに抱き竦められ困惑しながらもその愛情に苦しげな笑顔を浮かべてユンカは答える。


 「エリヤ様、私は大丈夫です。エリヤ様こそ辛い思いを」

 エリヤは首を振る。


 「ママ、大丈夫?」


 その声を聞いてハッとしてエリヤはユンカから顔を移す。そこにはモモナが立っていた。五歳の娘。愛しい我が子。


 だが頭が混乱する。そうか、あれは夢。


 あまりに生々しかった。事件以来一度も思い出していなかった悪夢。ふっと力が抜ける。笑顔の彼。最後の彼。


 そうか。やっぱりヨフカは死んだんだ。


 自分を見ながら急に涙を流した母親を見て、モモナはベッドに乗り上がり、ユンカとだきあったままのその体にしがみついた。

 「ママ、大丈夫だよ。モモナがついてるから」


 エリヤはモモナに腕を回ししっかりと抱きしめる。

 「ありがとう、モモナ。愛してる」


 お腹に顔を擦り付けてくる感覚が心地いい。この子がいなかったら、私に生きている意味はない。


 それに、そうだ。


 「ユンカ、あの子は?どこにいるの?」

 ユンカから体を離してエリヤは尋ねる。あの子を見ているとヨフカを思い出す。辛いけれどそれよりも胸が躍るような気持ちになる。


 だからこそ不安だった。そして言いにくそうにしているユンカの顔から、エリヤは自分の最悪な想像が当たっていたことを知る。


 「行ったのね?あの、獣たちがいる場所に」

 「はい」


 ユンカがうなづく。

 「お止めしようとしたのですが、すみません」


 無理だろう。ヨフカだってそうしたはずだ。あの場に行ったのも戦うためじゃないはずだ。きっと相手を信じて話あってとめようとするだろう。自分の命など顧みずに。


 背中を刺されても、まだ信じたあの人のように。


 「バカな子」

 思わずエリヤは呟いた。


 小さくて自分の自由になるからいて欲しかったけど、結局男っていうのは。

 エリヤはモモナを抱く腕に力を込める。


 相手が人かどうかもわからずに信じるのだから。自分が優しいからといって相手もそうでないとわからないのだから。いつ手をかむ猛獣かわからず人扱いして寄り添って。


 彼らは人ではない。


 あの後、目を覚ました時には全てが終わっていた。体に残った傷痕から状況は察したが、それについてはどうでもよかった。ヨフカが殺されたことに比べれば。


 逃げたオークスはパパに捕まった。パパは彼とその仲間を文字通り八つ裂きにした。もちろん裁判の結果だ。貴族たちは事件に震撼していたので見せしめの刑が課せられたのだ。


 だが私は、あのケダモノが人間扱いされているのが許せなかった。


 だからパパにお願いして、その首を剥製にして壁にかけてもらった。永遠に恥をさらし続けるように。そう、あれはパパに駆られた一匹の、ただの獲物に過ぎない。あいつは人間ではなく動物だと言うことが誰にでもわかるように。


 今でも暖炉の上にかかっているはすだ。あの子にも教えておけばよかった。


 それからすぐに『皇棋指南役』がかわって奴隷制が復活すると、パパは労働者全員を奴隷にした。オークスの事件を知っているものは、断れば仲間だと思われかねないので渋々ながらも従った。


 ずっとそうしていればよかったのだ。自由なんてあたえようとしたから、必要のない苦しみや悲劇を生んだんだ。


 ようやくモモナを安全に育てられる世界になったっていうのに、また奴隷解放運動だなんて。


 ああ。なぜ神は私をこんなにも苦しめるのか。

 モモナをだきながら、エリヤは自分の運命を嘆いた。

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