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78・痛み

 オークスが本当には何を言いたかったのか。それはわからない。


 エリヤはそう解釈した。彼女の持つ頭で、常識で、理性で。それを自分に対する個人的な恋愛感情だと。そしてこういう手段でしか訴えかけることもできないオークスの臆病さを軽蔑した。


 だがわからない。

 オークスが、『愛』という言葉に何を求めていたのか。こういう方法を取ってでも彼とって必要だったその『愛』とは何か。


 それは永遠にわからない。が、ともかく。

 人には決して、暴力を通してでは他人から得られないものがある。


 『高潔』だ。


 脅してなだめすかしてねだってゆすって、もしかしたら一時的に自分の虜にはできるかもしれない。隔離して依存させ、相手を自由にできていると思うことはできるかもしれない。


 だがそれは歪んでねじ曲がった病理的な執着にすぎない。苦痛から逃れるために選ばれた代替行動にすぎない。


 清らかさや純粋さや真心とは無関係なただの逃避。そして、真に幸せを知っている人間はそれに気づきそれを軽蔑する。


 だからエリヤの口から発せられた言葉も、自分の愛を大切にしているからこそ自然に出たものだった。自分が愛を与えるのは自分が大切に思う人間に対してだけであり、また自分を大切に思う人間に対してだけである。それが相手の自分への『思いやり』に対する最低限の礼儀だと知っているから。


 ヨフカを愛し、ヨフカの底知れぬ思いやりに感謝すればこそ、簡単に他人に自分の心を与えるわけにはいかないのだ。それがたとえ上部だけのことであっても。


 それが高潔さであり、暴力では決して得られぬものだ。


 オークスはエリヤの眼差しから単なる拒絶よりももっと深い軽蔑と卑下を感じとる。それがまるで意外なことであるかのようにオークスはショックに目を見開く。


 「この、救いようのない高慢な貴族の女め」


 オークスは俯き顔を覆い表情を隠す。己の浅ましさに対する侮蔑を認識した、心の底の怯えが現れるのを隠すように。


 そして受けた胸の痛みを自分の行為や思考を振り返ることに使わず、全てを生まれのせいに置き換える。

 エリヤの心が手に入らないのは、相手と自分の生まれのせいである、と。


 「よくもそんな上からの言葉を発せられるな、私の、魂をかけた懇願に哀れみも持たずに。人を人として見ることができない奇形の精神!奴隷を物として扱える歪んだ価値観!おまえのような奴に我らの祖先が苦痛によって生み出した富を自由にする権利はない!」


 再び顔を上げたオークスは怒りに燃えた溶鉱炉の鋼鉄のごときドロドロと周りを焼き尽くす熱気を帯びていた。


 「何もない人間の苦しみを少しは知れ!お前にこんなものを身につける価値はない!!」

 そしてエリヤの華奢な肩を鷲掴みにすると、胸元にしていたネックレスを引きちぎる。


 「この宝石も!」

 そしてカーディガンに手をかけ紙でも破く様にブチブチとむしりとる。


 「この高価な上着も!」

 「やめて!!」


 エリヤの抵抗などオークスには子供が暴れるほどにも感じない。その毛むくじゃらな手が夜着の胸元にかかったのを感じたエリヤは必死の思いで爪を彼の目に向かって振り下ろした。


 「!!」


 顔を庇ったオークスの動きが止まる。まぶたが切れ、血が流れていた。指先についたそれを確認したオークスの目が残忍に冷えて固まったのをみて、エリヤは暴れるのもやめて身をこわばらさえる。殺される、そう思った。


 オークスはふっとわらう。

 「そうかい、こっちがせっかく教えてやっているのにな。こういうのがお好みか、この礼儀知らずの雌馬め」


 そして大きく分厚い手のひらでエリヤの頬を打った。


 「バチン!」


 首がねじれそうなほど振られ、視界に火花が散る。そしてじんじんと痺れずきずきとした頭痛を伴う激しい痛みが頬を覆い広がってゆく。


 「ぐう」


 悲鳴もでなかった。抵抗する気もうせ、力なく手で体をかばい目を細めて相手を見つめる。怖い。どこかから聞こえる笑い声が耳に軋む。見下ろす男の怒号が心を砕く。


 「どうだ!しつけのなってない動物には痛みでおしえるしかないか!言う気になったか!?俺を人間として見る気になったか!?」


 掴まれた肩を激しく揺さぶられ、目の前のギラギラとした突き刺すような二つのまなこに耐えられず、エリヤは泣きそうに顔を歪める。


 オークスは胸の苦しみを相手にぶつけながら、身を焼きこがすような切実で行き場のない激しい感情を全て怒りに変えて叫ぶ。


 「まだわからないか!この!!」


 ほとんどソファに押し倒したエリヤにのしかかりながら、再びオークスは腕を振り上げる。エリヤは顔をくちゃくちゃに歪めてきつく目を閉じる。


 だが予感していた炸裂するような痛みは訪れず、恐る恐るエリヤは目を開いた。


 振り上げられたオークスの腕を、ヨフカが掴んでいた。いつの間に目を覚ましたのか、顔は赤く汗はとまらぬようだが、堂々と立ち上がってオークスを見下ろしている。


 「妻を離せ、オークス」


 ヨフカが掴んだオークスの腕をねじり上げてゆく。丸々と太い手首にヨフカの鉄芯のような指が食いこみオークスはわずかに苦痛に眉をひそめた。


 野生の熊のような体をした圧倒的に大きな相手だが、ヨフカがそれを物ともしていないのにエリヤは驚いた。そして改めて夫への尊敬を意識する。


 そう、この人は本当に強い。パパに皇棋は自分より本当は強いはずだと聞いていて信じられなかったが、そうだったんだ。これだけ体格さがあっても皇棋レベルが高ければ力でも相手を上回ることができる。そして強いからこそ、この人は誰に対しても公平で対等でいられる。それだけの自信があるから。


 オークスもそれを感じ、分がわるいと思ったかエリヤから手を話すと体をソファから起こした。

 ヨフカはまだオークスの腕を掴んでいる。


 「エリヤ、すまない。こんなことが起こるはずじゃなかったんだ」

 肩越しにそうエリヤに声をかけたヨフカはオークスに向き直る。


 「何をしているんだ、オークス。君はこんなことをする人間じゃないだろう?もっと立派なことをなす男じゃないか」


 そして肩に手を置いてじっとオークスの目を見て言う。

 「僕らは仲間だろう?」


 その目。真っ直ぐで純粋な目。汚れを知らぬ目。強い目。

 己が恵まれていることを誇らず、奢らず、ただひたすらに人を助けようとする純粋な目。


 オークスは思う。

 それが俺を苦しめる。それが俺の劣等感を刺激する。


 こいつは、今この状況、妻が暴力を受け、家が荒らされ男たちがメイドを連れ去ったこの状況で、まだこんな目で俺を見る。


 怒りではなく、同情と哀れみの入り混じった包み込むような優しい目で。


 「ああ、ヨフカ」

 オークスは腕を相手の手から振り解こうとするが、一見優男などこにこんな力があるのか鉄輪でもはめられたように動かない。


 二人は睨み合う。一方は相手を思いやり、一方は相手を妬み憎み嫉んで。

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