68・ただの子供
やがてモモナがまたパタパタと戻ってきた。
「フーコー!はやくはやく!」
ドアを大きく開けて、廊下の向こうの誰かを手で招いている。いい匂いと共にやってきたのは大きな男の人だった。手にトレイを持って、その上に湯気の立つお椀を乗せている。
「そう焦らせないでくださいよ、お嬢様。こぼれたら大変です」
そういいながらフーコーと呼ばれた男の人は、洗い晒しのシャツにズボンという質素な格好で笑顔を浮かべてモモナに続いて入ってきたが、首輪をしているのが目についた。
この人も奴隷なのだろうか?
「はい、奥様どうぞ」
「ありがとう、フーコー」
受け取るモモナの母親は彼に暖かな目を向ける。フーコーも彼女に対して心からの思いやりとしか思えない笑顔を見せる。二人の間には卑屈さや高圧さなど身分の違いを感じさせるところがない。今までに草歩が見てきた様子とは違っているようだ。
フーコーは草歩を見てほっとしたような顔をした。
「気がついてよかったよ。私が通りかからなければどうなっていたか」
「そうよ、彼が川に浮いていたあなたを見つけたの」
そうだったのか。父さんの背中だと思っていたのは、この人だったんだ。
草歩はフーコーに頭を下げる。フーコーはにっこりして、モモナの母親にお辞儀をすると部屋を出ていった。
「さあ、口をあけて」
モモナの母は膝に乗せたトレイのお碗から、湯気の立つおかゆのようなとろりとしたスープをスプーンですくって草歩をうながす。
草歩が口を開けるとスプーンをフーフーと吹いてから、それを食べさせてくれた。おかゆと違って少し粒々に弾力があるけれど、同時にお米よりも舌触りのとろけるような感触がある。薄味だけれど微かに動物的な旨味と香ばしさ、ほんの少しの酸味もあってものすごく美味しい。
思わず目をまんまるに見開いた草歩にモモナも母親も満足そうな笑顔を見せた。
すぐに飲み込んだ草歩は、お腹が空いているので差し出されたスープを勢いよく食べてゆく。時々口の端から溢れると、モモナの母親はすぐにフキンで優しく拭ってくれる。草歩はご飯をねだる雛鳥のように次々と口に運ばれるスプーンにぱくついては、口を開けて次の一口をおねだりをした。
「よかった。これだけ食べられれば大丈夫そうね」
そんな草歩の様子を見たモモナの母親はお碗からスプーンを運びながらいう。
「食いしん坊だね!」
モモナがベッドに肘をついて草歩を見ながら笑う。口をもぐもぐさせながら草歩は顔が赤くなるのを感じて困ったように笑い返した。ちょっと意地汚かっただろうか?
「いいのよ。たくさん食べてね」
モモナのお母さんはあくまで優しく、草歩はそれに甘えてお腹いっぱいにご飯を食べた。
モモナの家族の暖かさに包まれて、草歩は何も考えずに日々を過ごした。柔らかい布団とおいしい食事、それにモモナのお母さんの愛情が、草歩の疲れ切った体と心を癒してくれた。
3日もするとすっかり体調が回復し、草歩はベッドから起き上がった。
モモナのお母さんに言われてフーコーが草歩をお風呂に案内してくれた。お風呂なんてどれだけぶりだろうか。たしかトー伯斎師匠の家でピョンと一緒に入って以来だ。
湯気に充された広い浴室。石造りの大きな浴槽にはたっぷりとお湯が沸いている。
体を流して足先からお湯に入り肩まで浸かる。はあ、と大きなため息をついた。
全身がほぐれてゆく。心が溶かされてゆく。ああ、幸せだ。
そのはずなのに。
さっきまで病気で忘れていたいろいろなことが、元気を取り戻しつつある草歩の頭に溢れ出す。
苦しむチェスナ。睨むトー伯斎師匠。ニタニタと笑うジュキ。
ああ。考えたくない。
ピョンはどうしているだろうか?ピョンはまた僕に戦えというだろう。ジュキを倒せと。でも、もういやだ。僕のせいで師匠は。
僕にはむりだ。
いつの間にか涙が溢れてくる。お湯をバチャバチャと顔にかけるが、一度始まった嗚咽はおさまってくれない。
「ああ、ああああっ」
顔を覆って草歩は泣いた。病気は治ったのに、心の傷は癒えてはくれない。
後ろで扉が開く音が聞こえる。草歩は慌てて顔を拭って息を整える。
足音もなく湯船のそばにやってきて草歩の横にかがみ込んだのはモモナのお母さんだ。今日は白いゆったりしたワンピースドレスを着ている。髪をゆるく後ろで束ねて心配そうに草歩を覗き込んだ。
「大丈夫?体洗ってあげようとおもったんだけど、泣いてたの?」
見られていた。恥ずかしくて草歩は首をふった。モモナのお母さんは笑って、そう、と言って草歩の頭を撫でる。
それから彼女は草歩を浴室の椅子にすわらせると、後ろから頭を洗ってくれた。
「目をとじててね」
細い指が器用に頭を動き、自分ではできない力のこもったマッサージをしながら髪の根本から洗ってくれる。とっても気持ちがいい。リズミカルに頭を揉まれているとほんわりして落ち着いてきた。
お湯でザバーっと泡を流したあと、体もスポンジで洗ってくれた。母さんに洗ってもらうのさえ小学校の前が最後で、それに加えて相手がよその女の人でちょっと恥ずかしかったけれど、いつもモモナにそうしているであろう有無を言わせないやり方で、草歩を背中から包むようにして洗い始めた。肌を擦るスポンジの感触と円をかくような動きが心地よくて、恥ずかしさはすぐになくなった。手足を付け根から指先と指の股まで野菜でもあらうように丁寧にこすり、首やおなかもゴシゴシ洗って最後に背中を流してくれた。
ボーッとした頭でもう一度お湯につかって上がる。
モモナの母さんは大きな分厚いバスタオルで草歩を包み、髪をわしゃわしゃやって拭き取ると、腕を上げさせて体もしっかり吹いてくれた。乾いたタオルのフカフカの感触。
そうして新しい服、今度はブルーの襟元にフリルのある柔らかいシルクのシャツと、やや腿のあたりが膨らんで膝で絞られた半ズボンを見せられた。絞りの先にもフリルがついていて、高級そうだけどどこか可愛らしい格好で普段の草歩だったら絶対に着ない服だ。
でも、モモナやこのお母さんと一緒にいるんだったらこれがふさわしい気がして、草歩はむしろ嬉しいとおもった。
膝をついて草歩の目線の高さになったモモナのお母さんが、草歩の足を上げさせてパンツをはかせ、シャツをきせ、スボンも履かせてくれ、シャツのボタンを襟元まで止めてくれた。それから足に長い白靴下を履かせた。
そうやって仕上がった草歩を見て、
「よし」
と笑って肩をポンと叩いた。そしてその後、目を細め眉をゆるく寄せていたわるような表情になって
「大丈夫?」
と優しくきいた。
その顔と、見透かすように透き通った青い目を見ていたら、急にまた草歩の目から涙が出てきた。草歩は慌てて後ろを向いてゴシゴシと袖でぬぐう。
モモナのお母さんは草歩を自分のほうにむかせる。そして「いいのよ」といって抱きしめた。
草歩は彼女の胸に包まれて、最初こそ涙を堪えようとしていたけれど、背中からギュッと抱きしめられて頭を撫でられ、堪えきれなくなって大きな声で泣き出した。
彼女の体に両腕を回してしがみつき、顔を胸に埋めて叫ぶようにしながら、訳のわからない混乱した感情をぶつけるように泣いた。
「あああああああっ。ああああああっ」
そのすべてを受け止めるようにモモナのお母さんは優しく頭を撫でてくれた。
そうだ、僕は子供だ。
この世の中を変える力なんてない、ただの子供なんだ。




