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66・逃げた先の夢

 「まってくださいミ!」

 走る草歩の足音が追いかけるピョンの耳に聞こえていたが、それが突然途切れた。


 ただでさえ先のみえない夜の森を涙で潰れた視界で走り続けた草歩の足は、先にある切り立った崖を踏み外した。あるはずの地面に向かって踏み出された一歩は支えを失い、草歩の体は地面が抜けたように、そのままなす術もなくピョンの視界から消えた。


 ピョンは慌てて崖っぷちに駆け寄るが、下を流れる川の音は聞こえても谷は月明かりの影に沈み水面はみえない。このままでは降りることもできずピョンは思わず拳で木の幹を叩いた。


 

 ザバアアッ


 突然落ち込んだ凍えるような濁流が草歩の体を押し流す。もまれ回され沈められ突き上げられ。わずかに浮かんで必死に呼吸しては、また波に流されて水中できりもみになる。


 ほんの束の間水面に浮かぶと見える、両脇にそびえる切り立った崖がものすごい速度で流れてゆく。そしてまた激しい波に呑まれ闇へと沈む。


 濡れた服が体にまとわりついて自由を奪い、凍るような寒さが筋肉から力をうばう。


 流されるうちに草歩は、ふとこのまま死んでもいいのかもしれないと思う。人には散々、命の大切さを訴えておきながら無責任だけど、このまま死ねばもしかしたら、元の世界に戻れるかもしれない。


 抵抗を諦め、力を抜いてみる。

 闇の中を夢でもみているかのように、浮いたままにどこまでも落ちてゆく。


 ごぼりと限界になった胸から酸素が溢れる。

 このまま。


 だが本能はそれを拒絶した。


 草歩の意思とは関係なく、腕が足が全身が、狂ったように激しく水をかきはじめる


 水面にでて少しでも息を吸おうと体が必死にもがいている。上下もわからぬ暗黒の波の底に引き摺り込まれるのに逆らおうとあがいている。


 耐えきれずに吸ってしまった肺に水が入って焼けるような痛みと酸欠の苦しさに悶絶しながら、草歩は、それでも自分は生きていたいのだと思い知らされた。


 死にたくない。

 草歩は最後の力を振り絞って泳いだ。


 人を傷つけて、助けられてばかりで、後先考えずカッコつけて尻拭いもできない情けない自分だけれど。

 ちっぽけで何の力もないアリンコみたいな僕だけれど。


 生きていたい。


 半狂乱のもがきでわずかに色の明るい方に向かってかい進み、奇跡的に水面に顔を出した草歩は咳き込みながら激しく呼吸をする。そして束の間息を整えて、目の端に映った川縁の崖に向かって泳ぎ出す。


 その耳に、川の流れとは違う激しい爆音が聞こえてきた。


 世界を覆いつくす叩きつけるような時雨。バケツをひっくり返した雨よりも圧倒的に重みのある重みのある炸裂音。


 見ると先がなくなっている。川が、途中で途切れている。


 抵抗する間も考える間もなく断ち切られた水縁に飲まれた草歩は、そのまま空中に投げ出された。

 白く拡散する水しぶきと共に、瀑布ばくふを落ちた草歩は、水面に叩きつけられ滝壺にのまれた。


 泡立つ水が草歩を包む。先ほどまでとは比べ物にならない、猛り狂う恐ろしいまでの大渦に草歩はもみくちゃにされて一切逆らうことができない。


 身の回りはただただ白い。

 その白い闇が意識を飲み込む。


 

 夢の中で草歩は、父の背中におぶされていた。


 まだもっと幼かった頃。遊びに行って疲れ果て眠ってしまった草歩をおんぶしてくれた大きな父の背中。


 夏の日で太陽はまだ残っている。セミの泣き声に包まれて駅から家までの路地。電車の中ですでに眠ってしまった草歩は履いていたサンダルも脱がされている。


 父さんの背中は暖かく、1日着ていたシャツは少し汗ばんでいて、母とは違って硬くてがっしりしている。ずり落ちそうになる草歩を時々おぶせなおす時に意識が目覚めかけるが、そのあとに続くゆったりとした上下に揺らされる動き、父の歩きに合わせた振幅のある揺すりの心地よさにすぐにまた深い眠りに落ちる。


 ああ。

 帰ってきたのか。


 自分が夢を見ているのか現実なのかわからない。


 まだ明るかったはずなのに、辺りは闇に包まれている。自分の服が濡れているのが気持ちがわるい。でも冷たいというよりは、自分の体温が苦しくらいに熱いので生温いという感じだ。


 ともかく今、僕は父さんの背中におぶされているんだ。大きな背中。汗の匂い。全部夢だったんだ。

 草歩は夢のなかで、父さんの首に回した腕を抱き寄せる。


 父さんはたちどまり、軽くおぶさり直して抱えたお尻をポンポンと優しくたたく。

 よかった。


 草歩はほっとしてゆっくりとまぶた を閉じた。



 頭が締め付けられるように痛い。


 体が熱いのに同時に寒くて震えが止まらない。時々息がくるしくて、無意識に呻き声が出てしまう。


 それに嫌な夢を見た。一人で見知らぬ世界にとばされて、知り合いがみんな悪魔に囚われていってしまうそんな夢。


 額に乗せられていた、すっかりぬるくなった濡れタオルをだれかが交換してくれる。きっと母さんだ。


 絞ったタオルに変えてくれたその手を、草歩は力の入らぬ手で掴む。目を開けようとするがわずかに開けた視界は朦朧として、橙色の明かりと自分を覗き込む影しかわからない。それにまるでメリーゴーランドのように部屋がぐるぐると回っている。


 草歩が掴んだ手はしっとりと柔らかい。そして、草歩が握るのに答えて握り返してくれた。

 ああ。母さん。


 反対の手が草歩の額を撫で、頬を撫でてくれる。火照った顔に、ちょっとひんやりとした母さんの手が気持ちいい。


 よかった。思わず涙が伝っていた。

 怖い夢を見たんだ。でも、全部夢だった。


 力が抜けた草歩の手を、母さんが毛布の下に入れなおす。

 草歩はそれから、ほんとうに久しぶりに心から安心して、深い深い眠りの中に落ちていった。



 目を覚ますと知らない部屋だった。

 大きな木のベッド、白く清潔なカバーのついた掛け布団。枕もふかふかで柔らかい。


 ベットサイドのテーブルには柄の入った陶器のお盆に乗ったガラスの水差しとコップが乗っている。テーブルもそうだが部屋にしつられられた家具の表面はツヤツヤしていて、形もちょっとヘリに掘り込みがあったり、足が丸くなっていたりと意匠が凝らされている。


 床の絨毯もクリーム色にブルーで複雑な植物の柄が入っていて、ふかふかして見える。

 天井も高いし、なにしろ部屋が大きい。


 喉が乾いていたので水をもらおうと体を起こす。しかし少し頭がふらついて、草歩は額を抑えてふーと大きくため息をついた。


 布団をめくって気がついたけれど、草歩は服も着替えていた。


 白くて滑らかに光を反射するスベスベのパジャマ。襟もとにはひだがこんもり盛り上がったデザインがあって、その下にはリボンまで付いている。袖もふわっとして先が緩くツボまり、ひだが付いている。肌触りがとても気持ちいい。初めて着るけれど、シルクってやつじゃないだろうか?


 ふと視線を感じて顔を上げると、わずかに開いたドアの隙間かオレンジの髪をした子供が半分だけ顔を覗かせていた。白い肌にそばかすがあって男の子か女の子かわからないけれど、人間の子供だ。


 誰だろう?

 だがまた頭痛に襲われて、草歩は布団にうずくまった。

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