60・地獄への飛翔
「兄貴!?何を言ってるんですミ、ダメだミ、『あいつ』と戦っちゃ!!」
ピョンの叫び声が遠くに聞こえる。
「ぐぐ、草歩、やめろ」
這いつくばったままのジューミーが、体を起こそうと必死の、しかし無駄な抵抗を試みながら警告する。
「な、何を言ってるケーン、草歩。お前、死ぬ気ケーンか?」
蒼兄のかすれた声が後ろからかすかに耳に届く。
草歩は自分の決断が間違っていることはわかっていたが、他にどうしようもなかった。このままこの状況を無視できわけがない。
「早くチェスナへの命令を解け!」
草歩は叫ぶ。
『あいつ』はニヤニヤと笑いながら目の前のチェスナを見下ろしている。膝をついたチェスナは草歩の方を見下ろしてはいるが、本当にその目に映っているかはわからない。呆けたような顔のままうつろな表情でじっと身動きもせずに前を向いている。
「早くしろ!!」
ぼんやりとしていたチェスナの顔が、すこしずつ戸惑いと困惑に変わる。口をパクパクと動かして、入ってこない空気を求めるように胸を上下させる。しかしあくまで命令に逆らうことはできない。腕一つ、指先一つ動かせずに、ただ酸欠の苦しさに表情を歪めてゆくだけだ。
次第に体が震えだし、酸素を求めて口だけを喘がせる。牙を剥き出し、舌を突き出して、何とか一息でも吸おうとする様子が痛々しい。全身の筋肉が無意識のうちに痙攣し、首筋が浮き出して肉体が警告している。お腹のあたりが横隔膜を動かそうと別の生き物のように大きくうねる。
しかしそれも一切の無駄だ。顔が青紫にくすみだし、舌が口の中でブルブルとふるえ暴れ始めた。
「ふざけるな!!」
草歩は叫びながら、自分の無力さに涙を流す。
悔しい。
僕は本当に無力だ。
喉が枯れるほど叫んでも、『あいつ』はニヤニヤと笑っているだけだ。やがて白目をむき泡を吹いたチェスナの頭に扇子を置くと、
『吸え』
と言った。
ガクリと前に倒れ込んだチェスナが、背中を跳ね上げるほど激しく咳き込みながら呼吸を始める。
よかった。
この世界の真実が、草歩に今わかった。
全ての人間が、今の僕のように自分が何の力もない存在だと思い知らされている。
そして自分や家族に『あいつ』の興味が向かないよう、頭を低くしてやりすごそうということだけを考えている。一旦『あいつ』に目をつけられたら、自分が想像する最悪をたやすく超える悲劇しかおこらない。『あいつ』に逆らおうという人間がいないのが当たり前だ。
僕がバカだった。
『よし、では『神前宣誓』を行おうか?』
ドラゴンが炭鉱の穴の淵に降り立つ。そして伏せた龍の背に胡座をかいた『あいつ』は肘を片膝に乗せて頬杖を突きながら言った。
『穴底へ降りるのは俺には相応しくないのでな。ふむ。よし、ジューミー、立て』
『あいつ』の命令を解かれたジューミーが、抵抗の反動でやや息を荒げながらゆっくりと立ち上がる。
『そのコドモを、こっちへ投げてもらうか。お前ならできるだろう?』
ジューミーが『あいつ』を睨みながら草歩に近づく。
『すまねえな、草歩。今の三は、『あいつ』の命令には逆らえねえ』
ジューミーの太い腕が草歩の体を抱え上がる。
ピョンが絶望の顔を草歩に向ける。ごめん、ピョン。僕は何かを間違えた。
ジューミーが軽々と草歩を、丸太を抱えるかのように右肩に担ぎ上げて左手で草歩の胸を抑えると、ぐいと体を逸らし大きくのけぞり、そしてバリスタがその力を解放するような凄まじい勢いで全身をかがめ草歩を放り投げた。
射出された大弓の矢のように草歩は飛び上がり、穴の上で放物線の頂点を迎える。草歩が閉じていた目を恐る恐る開くと足元に大穴がポッカリと口を開けていた。
飛んでいる。
左右を見れば世界の地平線が丸く見える。美しい夜空に異世界の森が静かに眠っている。雲が薄く遠くの山にかかり。満天の星空との境を飾っている。冷たい空気を切り裂いて、草歩は月夜に浮いていた。
次第に落下し始めた視線の先には、穴のなかで戦うトード一味と奴隷たちの様子や、穴底で見上げているジューミーやピョンの姿、そして落ちゆく穴の淵に、二頭のドラゴンがいるのが見える。
チェスナはまだ苦しそうに俯いている。『あいつ』は草歩を見上げていかにも面白い見せ物をみるように目を細めている。
さらに落ちる草歩が、着地を心配し始めたころ、『あいつ』が隣の龍に乗っていたジーフィダーケに向かって扇子を振った。
ひざまづいてうなづいた龍人が、その羽を広げてこちらに向かって飛び上がってくる。
ああ、このまま僕は『あいつ』に負けて、そして。
草歩は戦う前から深い諦めに心を落ち込ませ、どうにでもなれ、と目を閉じた。
その時。
龍人がやってくる方向とは違う方からの衝撃が草歩を襲う。
なんだ?
目を開けると誰かが自分を抱えている。そして状況もわからぬうちにその何者かによって空中で方向をかえられ、わけもわからぬところへ着地していた。
「あ、兄貴?」
間の抜けたようなピョンの声。驚き見つめているジューミーと蒼兄。
そっと下された場所はどういうわけか、今までいたはずの鉱山の穴底だ。
「ったく、しゃーねーな、おめえさんはよ」
あきれたように、その誰かが後ろでいう。うなじにかかる息が酒臭い。
草歩がゆっくり振り返ると、そのには見慣れた長い白髭。赤い顔をしてあきれたように笑うトー伯斎の姿があった。




