6・『皇棋』はチェスに似ている?そして目にするこの国の陰!
ケーキを食べ終わって皿をカウンターへ片付ける。
そしてなんだか申しわけないので、他のテーブルの開いた皿の片付けと拭き掃除を申し出た。おばさんは大喜びして抱きしめんばかりにしていたが、あの力で締め付けられたらと思って草歩はそそくさと手伝いを始める。
実は他にも狙いがあった。
もっと近くで『皇棋』を見て、もっとよく考えたかったのだ。
お皿やコップを片付け、フキンでテーブルを拭きながら隣で『宣誓』でなく普通の盤で勝負している人たちに目をやる。
怖い顔をした蜥蜴みたいな二人が、楽しそうにコマを動かしている。実際のコマを使うということは『宣誓』でないからきっと遊びみたいなものなのだろう。
やっぱり持ち駒を使う気配はない。
草歩は頭を巡らせる。
この『皇棋』というゲームは将棋に見た目こそ似ているが、持ち駒がないという点ではチェスに近いのかもしれない。
チェスの終局には将棋と違って、「引き分け」という選択肢が明確な戦術として存在する。
それは試合が進むにつれてお互いのコマが盤上からどんどん減っていき、相手の「キング」、将棋でいう「王」を「チェックメイト」、つまり「詰ませる」ことができなくなってしまうケースがあるからだ。
ということはつまり、この『皇棋』においても、引き分けは多々存在するはずだ。
将棋ではほとんどない。
例外として、お互いの玉が相手の陣地に入り込む、『相入玉』という形でたまに存在するのと、途中で両方が作戦的に動けなくなって、同じ手を指し続ける『千日手』という引き分けがあるくらいだ。ほとんど引き分けがないため『相入玉』『千日手』の公式戦は必ず指し直しになり、チェスのように引き分けという戦績にはならないのだ。
それに『能力』。
この『能力』が『皇棋』の戦略の鍵だ。
あまりにじっと見ていたのでこちらをじろりと睨んできた蜥蜴人たちに愛想笑いをしてイソイソとそこから離れながら、それに、と草歩は考える。
将棋に持ち駒があって、チェスに持ち駒がないのは、コマの働きの違いから来ていると言われている。
チェスのコマは将棋のコマよりも強い。
「ポーン」という「歩」に似たコマこそほとんど同じ動きだけれど、例えば「角」と同じ動きの「ビショップ」が2つ、「飛車」と同じ動きの「ルーク」も2つあるのだ。将棋の最強のコマが2倍あるだけでも強さがわかるだろう。
それに「桂馬」に似ている「ナイト」というコマは、桂馬と同じく2つあるのだが、なんと「ナイト」は自分の周囲8マス、桂馬が2つ前のコマの左右にしかいけないところを、上下左右それぞれにジャンプできる。動きも特徴的だしバックもできるし、二つのコマを一度で狙う、フォークという動きもすごく強い。
「キング」は王と同じ。
しかし、チェスにはなんと言っても最強のコマがある。
それが「クイーン」。なんと、「飛車」と「角」を合わせた、上下左右、斜めにどこでも行けると言うとんでもなく強いコマだ。
そのコマの強さと8×8という盤の狭さが、持ち駒を使わない戦い方のバランスをとっている。
一方将棋はチェスに比べて一つ一つのコマの力が弱い。それに盤面も広いので、今度は持ち駒を使うことでバランスが取れるのだ。
『皇棋』はそのバランスが崩れている。
持ち駒がない状態で将棋と同じルールというのは、本来相手を詰ませるのが難しいはずだ。
そしてそのバランスをとっているのが『能力』なのだろう。
席を立った獣人たちのテーブルのビールジョッキを片付けながら、残された『皇棋』盤を見る。
見ると初期配置から手順がかなり短く終わった試合のようだ。
やっぱり。
そう、この『皇棋』は相手の知らない情報や、相手の不意をつく、『能力』による攻撃が一気に勝敗を左右する展開が多いはずだ。
そこに必要なのは、将棋に似た『皇棋』そのものの強さと、自分の『能力』を知り尽くし、敵の『能力』を正しく認識するいわば設定把握の力。
つまり、本来「完全情報ゲーム」、お互いの指し手や持ち手が完全にオープンになってプレイヤーに共有されるところから戦略が始まるはずである「将棋」というボードゲームのルールを変更し、お互いに伏せられた『能力』を持っている、「不完全情報ゲーム」かつ「不完備情報ゲーム」に変更したのがこの『皇棋』というゲームだ。
プレーヤーは盤面だけではなく、お互いの隠されたカードについて常に警戒しながら戦う必要のあるゲームなのだ。
草歩は、「将棋」と「カードゲーム」が混ざったようなゲームだ、という結論を出した。
「カードゲーム」も将棋にハマる前は友達と結構やっていたのでそこに戸惑うことはなかった。
でも、まだいくつか確認しておかなきゃいけないことがある。
カウンターにジョッキを下げた草歩を、おじさんが笑顔で迎えて受け取る。
「坊主、すまないな」
「おじさん、もう少し聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「この『皇棋』の『能力』は、変えることはできるの?例えば強くなってレベルが上がったりしたら」
おじさんは首を振る。
「いいや、そんな話は聞いたことがないな。『能力』は個人の願望や本能を象徴するものらしい。だから坊主もその『能力』とは一生付き合うことになるな」
そうか。それはだいじな情報だ。能力が変わらない、と言うことは、お互いがどんな能力を持っているかはいずれ知っている状態の相手が多くなる。『宣誓決闘』を重ねるほど草歩の能力を知るプレイヤーは多くなり、自然とその情報は周りに出回ることになる。
強いプレイヤーであればあるほど『能力』は周りに知られているはずだ。
つまり、能力を知らないもの同士という前提の、奇襲攻撃のきく「不完備情報ゲーム」から、次第に全ての手札がオープンになっている「完全情報ゲーム」に近づいていくのかも。ただ将棋と違い、お互いに『能力』が異なるという『不均衡ゲーム』ではあるけれど。
(補足『不均衡ゲーム』:「将棋」のようなお互いの戦力がおなじであることが前提の「均衡ゲーム」と違い、「大富豪」のようなお互いの戦力が異なっていることが前提となっているゲームのこと。戦力差を如何にひっくり返すか、自分に有利な点で戦えるか、がポイントとなってくる)
「ただな、どんな能力も使い方次第だ。俺の『時鎖減殺』だって、最終盤の相手が時間がない時に発動すれば恐ろしく強力な武器になる。実際昔はそれで結構勝ってたしな。俺が『皇棋』をやめたのは」
と、おじさんは苦いものを噛んだような渋面を作って言う。
「坊主、『皇棋』が好きなのはわかるが、悪いことは言わねえ、戦う相手を選ぶこった。相手が信用できないなら、『宣誓』はするもんじゃないぞ」
いつになく真剣な様子のおじさんに草歩が戸惑っていると、
「もたもたするんじゃねえ」
耳にさわる黒板を引っ掻いたみたいな金切り声がして、草歩は振り返る。
するとそこには、宝石のたくさんついたターバンを巻いた豚みたいな顔の獣人いた。そしてその豚男のために、首輪をつけたウサギ耳の小さな子供が店のドアを開けていたのだが、豚男は乱暴にそのウサギ耳の子を蹴飛ばした。
「何を!」
草歩はそれに腹を立て助けようと向かおうとする。しかし、おじさんが草歩の肩を押さえた。
その手には重い力が込められており、微かに震えていた。