57・『あいつ』と草歩
炭鉱にはトード・チョウ一家と奴隷が争う喧騒が響いているし、ここから穴の上までは人影がなんとか視認出来るほどの遠さで、ドラゴンはさらにの上空に飛んでいる。
しかし扇子の奥で、虫を潰したほどにも退屈しのぎにならんというように乾いて笑う『あいつ』の声が、確かに草歩の耳に聞こえてくる。
『クックック、そこで這いつくばっていろ、ケダモノの野良兎よ。しかしまさかお前が負けるとはな?』
コールタールよりも粘度の高い、心にへばりつくような闇の瞳で『あいつ』はジューミーを見ていたが、スッとその目線を草歩に移した。
見られるだけで魂が暗黒に汚染されそうで寒気が走り、草歩は思わず竦み上がった心臓の上をこぶしで押さえる。ただ見られただけなのに、なんて迫力だ。超高精度のライフルの銃口に狙いを定められたような無慈悲で容赦ない殺意。文字通り『あいつ』の指先ひとつで僕の命はないだろう。
『面白いと思ってはいたが、コドモ。まさかこんな騒ぎを起こすほどの才を秘めているとはな』
冷たい刃物でうなじを撫でられるかのごとき悪寒と恐怖が草歩を襲い、全身に鳥肌がたち筋肉がすくみ上がる。しっとりとした紫色の、ラベンダーやスミレのフレグランスパウダーを思わせる甘く香る声なのに、その紫は同時に毒蛇の舌だ。
「ぼ、僕に話しているのか!?」
草歩は恐れていることを気づかれないように声を張る。
それに、この距離で答えても聞こえるとはとても思えないのだ。なのに『あいつ』の声は嫌にはっきり耳元に響いてくる。
まるでASMRをイヤホンで聞いている見たいだ。
『叫ばずともいい。つぶやきでも俺には聞くことができる。『能力』でな』
鬱陶しそうにひらひらと扇子をふる『あいつ』。
「の、能力?」
『クックック、そうだ。本当にそんなことも知らんとはな?もしかしたらとは思っていたが、どうやら本物らしい』
「な、何をいっている?」
『あいつ』の声に喜びの響きが混じり、しかしそれが良からぬことでしかあり得ないことを知っている草歩はたじろぎながらも尋ねる。
そもそも、なぜ『あいつ』はわざわざ僕に話しかけてくるんだ?ここには何をしにきた?奴隷の解放運動がこんなにも早く伝わる物なのか?
上空に浮かぶ二匹のドラゴンは、この場をおさめるには十分すぎる戦力だろう。
『ふん、まあいい。『皇棋指南役』には様々な力が与えられている、とだけ言っておこうか?『厩戸の見識』や『詔』、『民との対話』。どれもこの国を治めるためにかつての『皇王』が神と約定をむすんで獲得した特別な能力さ。今は『対話』の力を使っているだけだ。俺の言葉は俺が望んだ相手にしか聞こえないし、認識できる距離であれば音の性質を無視して会話できる』
そうなのか。確かにここは異世界だから、『皇棋』の能力以外にも何か不思議な力があってもおかしくはないか。
でもなんだって、こいつはさっきから妙に丁寧に僕に話してくるんだ?
そしてその行き着く先に、深い深い奈落があるのが予感され、背筋の震えが止まらない。
『『見識』は大勢の相手の声を同時に聞くことが出来てな。そして意識を向けさえすれば、どこまで遠くても、大勢の複雑な話でも捉えることができる。この力で、コドモ。お前がここで思わぬ企みを成功させたことを知って駆けつけたのよ。ずっと目をつけていたのでな』
『あいつ』が口の端をいやらしく歪め目を細める。
草歩はゴクリと唾を飲もうとするが、いつの間にか口がカラカラに乾いている。
「僕に目をつけていた、だって?」
だってたったの一回会っただけだぞ?皇棋学校でチェスナと戦っているのを見ていたときだけれど、周りには僕くらいの生徒も大勢いたし、目立つような何かをした覚えもない。
一体どうして?
『まあ、普段は聞く必要もない声が聞こえて厄介でもあるんだがな。こうして面白い呟きを逃すことがないのだから本当に便利なものよなあ』
『あいつ』に見据えられて、草歩は目を逸せない。光が暗黒惑星から逃れることが出来ないように、圧倒的な負の磁力は人を引き付けて離さない。望もうが望むまいが。
『あのとき、そこにいる赤猫だけでも退屈しのぎには十分だったのに、今まで想像したこともない『暇つぶし』のタネを見つけられて、俺がどれほど喜んだかお前にはわかるまいなあ、コドモよ。勝ち続け、己の好きなように世界を蹂躙するのも愉快ではあるが、それも続けば単調になる。世の中が憂いてくすんで、よっぽど一息に全てを消し潰してやろうかとも思うが、そのあとの退屈を考えればそれも出来ぬでなあ』
『あいつ』はまるで、自分は哀れまれるべき存在であるかのように苦悩を語り、そして世に倦んだような切なげな吐息を吐いた。
「ふざけるな!!何が暇つぶしだ!!」
その傲慢極まりない態度に草歩はやり場のない腹のそこからの怒りを込めて叫んだ。
「みんながお前のせいでどれだけ苦しんでいるかも知らないで!!」
『知っているさ』
刃のように草歩の喉元に確かに『あいつ』の言葉がささり、ぐっと草歩はのけぞる。
『いったろう?俺には『見識』がある。誰がどこでどうやって泣いているかなんて、全部知っているさ。
だがどんなに退屈かわかるか?皆同じように悩み、同じように苦しみ、それでもまじめに生きてゆく人間と、他人を利用して少しでも楽になろうとする人間に別れ、苦しみの本質からは目を背けて醜い争いを繰り返す。
そこにはなんの面白みもない。ただ流れていくだけだ。天気がよければ美しく輝く浜辺の砂粒よりも価値のないゴミのような不平不満や欲望が、自分たちは一つの努力もせずにただ何かが変わらないかと望むだけの胸の悪くなるような願望が、毎日のように聞こえてくるんだぞ?
退屈以外のなにがある?結局『民』は『民』でしかないのさ。叩き潰しても踏み潰しても湧いて出る羽虫と同じ。己の遺伝子を残すことにしか興味のない動物、そして群れて安寧を他者に依存するだけネズミ一匹よりもたちが悪い』
何をいっている?『あいつ』は何をいっている?
本当の邪悪。極限的な自己優越意識。この世界の人間たちを、心のそこからバカにしているんだ。人間とも思っていない。
『だからこそ。そこにいるジューミーやチェスナは貴重で美しい宝石さ。まがい物のビー玉に混じった掛け値なしのダイアモンドやルビー。そして』
といって『あいつ』は扇子で草歩を示す。
『コドモ、お前もな』
隠しきれない愉悦と期待が、その声を上ずらせ震わせている。クリスマスプレゼントを枕元に発見したコドモが、開けて自分の望んだものだったときにベッドの上で飛び上がり叫び続ける様が頭に浮かぶ。
「だから、一体何をいっている!?」
『お前はこういったろう?それが『見識』で聞こえたのさ』
『あいつ』の目が見たこともない不気味な弧を描き笑いのような物を作る。その瞳の輝きが一際増して闇の濃度が跳ね上がる。
『「まるで『棋神』みたいだ」と』
草歩はハッと息を飲んだ。心臓にクイを打ち込まれたような痛みが走る。
『そうだよな。コドモ』




