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56・月下美人

 今まで見たこともないくらい綺麗だ。


 草歩は束の間、自分は夢を見ているのではないかと思った。


 勝負における極限の集中状態から解放された神経と周囲の戦場いくさばの興奮が、神秘的な月明かりによって呪法のように混ざり合い、心の奥底からの願望をまなこの裏に描き出したのではないか、と。


 それくらい現実離れしていた。

 それくらい、草歩の中にあるチェスナのイメージからかけ離れていた。


 鎧をつけて大柄でたくましい手足をして、豪快に笑い激しく怒る。人一倍繊細で思いやりはあるが、仕草や態度はガサツで単純、自分を兄弟子と呼ばせるだけあって「かわいらしい」と思うところはあっても女性的な美しさなどひとかけらも感じたことはなかったのだが。


 ドレスから覗く胸元から鎖骨、肩のラインは、衣装の豊かな胸とお腹のくびれを際立たせるデザインと合わさると優雅さが強調され、広い肩幅もむしろ気高い印象を強めている。首筋などは鍛え上げられ浮き上がった胸鎖乳突筋きょうさにゅうとつきんが無駄のない彫刻のように美しく、こうしてみると顔が小さくバランスのよい、とても見事な体型をしている。


 純白なシルクと対比するようにチェスナの紅い毛並みが映え、艶々と月明かりに柔らかそうに輝いて手触りの滑らかさを想起させる。ゴージャスなベルベットと言おうか、しっとりとした深いスエードと言おうか。ふわふわの産毛に包まれた赤い猫耳を優雅に、やや斜めに立てている。白い手袋をはめた手の指元のリング、風に緩やかにひるがえるドレスの裾から覗く、引き締まった足首につけた金のアンクレット。背後に浮かぶ月光に浮き上がった胸と腰の大きな完璧なプロポーションの輪郭。


 草歩はなんだか胸がドキドキするので焦った。


 どういったらいいか、時々母さんと出かけるデパートの一階にある化粧品売り場。その香水の入り混じった匂いやうっとりした表情の、綺麗な女性のポスターを見ると感じる、同い年の女の子を好きだと思う感覚とは全く異なる外国の匂いのする美女のイメージ。


 この異世界に来て初めて見た美人が、まさかチェスナだったとは。


 遠くてよくは見えないけれど、顔には化粧もしている。その表情が今までのあっけらかんとしたチェスナと違い、魂の抜けたような無気力さの奥に深い憂いを含んでいる。


 オレンジパールのアイシャドウを塗ったトロリとしたまぶた 、ゴールドの口紅を塗った締まりのない半開きの口元。ぼんやりと悲しそうなのに、どうしようもなくなまめかしい。


 胸のドキドキの奥に見知らぬ扇情せんじょうが沸き起こる。なんだろう、この気持ちは。

 草歩は信じられなくて何度も目を擦り、ピョンやジューミー、蒼兄を見回すと、彼らも同じように信じられないといった顔で見上げている。


 「ほお、べっぴんさんだな」

 ジューミーが腑抜けた声で言った。


 「あ、あれがチェスナさんケーンかい?」

 蒼兄も声が上ずっている。生唾を飲んで草歩の方をみようともしない。


 「チェスナ、さんミ?」

 ピョンはアングリ口を開けて、よだれまで垂らしている。確かにそれくらい驚きだ。あんまりにも美人すぎる。


 その美しさに目を奪われて、根本的なことを見逃してしまっていた。


 「ピョン、チェスナ?だよね、あれ。一体、なんであそこに?それになんであんな格好?」


 草歩はとりあえず思ったことを口にした。この場のだれも答えを持っていないとわかっていたが、このまま見惚みほれている訳にもいかない。


 と、チェスナが人形のように腕を上げる。その動き自体、チェスナのものと思えない。大仰おおぎょうなタメとしなりをつけた舞台芝居のような蠱惑こわく的な動きで一本立てた指を天空に突き上げる。


 途端、チェスナのドレスと髪が大きくなびいた。かと思うとその後ろから、指差した月に向かって巨大な羽をもった生き物の影が羽ばたきながら姿を現す。


 逆光にその大きな体を月を覆うようにのけぞらせ、長い首と尻尾をうねらせる。爪を持った翼竜の翼、とげと見まごう逆立つ鱗。太い足と鋭い爪を持った腕。


 真っ青な目を爛々(らんらん)と輝かせ、鼻から人を焼き殺すような激しい蒸気の息を吐きながら宙に浮かぶの

は、銀色の鱗を持つドラゴンだった。


 「な、なんだ?」

 草歩が驚き見つめる空に飛ぶドラゴン。その後ろにもう一匹、金色のドラゴンも現れる。


 「あ!!!」

 ピョンが叫ぶ。声には緊張と警戒、怒りが混じっている。


 「ああっ!!」


 草歩も気づいた。最初に現れた銀色のドラゴン。その長く揺れる首に隠されて、誰かが背の上に立っている。そして、その姿には見覚えがある。一度目に焼き付けば、けして消えない悪夢のように、草歩の心に焼印のようにはっきりとした痛みを伴って刻みつけられた姿。


 やがてドラゴンが空中に安定し、その首をゆっくりと下ろすと全身が見えてくる。


 間違いない。間違いようがない。烏帽子えぼしを外し、淡黄色の長い袖に飾り帯のついた着物と、足元も隠れる猩々しょうじょうひの長袴という白拍子のような着物を着ていても。白い顔に頬紅をさし、紫檀したんを唇と目尻に乗せて、後ろで束ねた銀髪の左右のビンを太く肩に垂らして洒落込んでいても。


 その身の発するひりついた、焼けた金属のようなオーラはこの距離でも確かに感じることができる。本能がおしえる警戒の匂い。


 『あいつ』だ。


 だが、なぜここに?

 草歩が考える間もなく、ジューミーが叫んだ。


 「おおおおおおおおおおおああああああああああああっっっっっっ!!!!!」


 そして身を包むつなよりも太い鉄鎖の封印を最も簡単に、飴細工のように引きちぎる。ジューミーという岩が溶岩として発火していた。火よりも熱い怒りの灼熱が空気を震わす。ここから数百メートルはあるであろう崖の淵、天空のドラゴンに向かって跳ぼうというのか、ボゴン、と地面を揺らしながら踏み込んだ足元の石はひび割れ、沈み、長耳族の持つ太い脚、ジューミーの肉体の中でも最大の筋肉がモリモリと、水を入れ束ねたゴムチューブを絞り上げたかのように膨れあがった。ほとんどその大木のような胴体ほどの太さに。


 たしかにジューミーなら届くだろう。そう思わせた。


 だが。


 『ひれ伏せ、ケダモノ』


 届くはずのないこの距離で、バカにしたような『あいつ』の呟きが確かに草歩の耳にも聞こえ、命令を受けたジューミーは子供に指で抑えつけられるハムスターのようにわずかの抵抗もできず両手両足を地面につけた。


 「ぐうううううっ」


 体を震わせるジューミーの顔は、爆発寸前のダイナマイトを飲み込まされたような張り裂けそうな苦痛に満ちている。


 白い扇子をパッと広げ、『あいつ』は薄笑いを浮かべた口元を隠す。扇子にかかれた金色の月のが、夜空に煌めいた。

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