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28・残された者たちのその後

 それから幾日かが過ぎた。


 トー伯斎はくさい師匠は一日中お酒を飲んで、でも陽気に歌をうたうのではなく、うつむいて時々思い出したようにため息をついてまた酒を飲んでいた。食べ物も食べず、ふっと姿を消したと思うと山の花に囲まれた場所で座り込み、そのまま1日動かないこともあった。


 ピョンはいままで以上に働いていた。


 チェスナに教えてもらった掃除、洗濯、食事のしたく、洗い物、薪割り、買い物、お酒の管理なと、草歩のやることがないくらいに朝から晩で体を動かし続けていた。


 草歩が話しかけると笑顔で返事をするけれど、話の内容は支離滅裂しりめつれつで、ただ反射的に答えているだけだった。辛さを見せまいとしているのか、考えないようにしているのか、つねに笑顔で答えてくれるのだが、その目が落ちくぼほほがやつれているのが痛々しかった。


 時々やることが本当になくなってしまうと、ピョンはその場に立ちつくし、ほうけたように虚空こくうを見つめてそのうちに、目から滝のような涙を流してミュウミュウないて、そのあとまた、必死に働きだすのだった。


 1日に二度も三度もみがかれて食器は木の表面がガサガサになり、草原くさはらは掃きすぎて所々土が剥き出しになってしまっている。それがピョンの心を表してるようだった。


 草歩は何も手がつかなかったし、何も考えられなかった。

 何よりも『皇棋こうぎ』のことが考えられないでいた。


 『あいつ』に勝つには皇棋に強くなるしかない、と頭ではわかっているし、たとえ師匠が相手にしてくれなくても『詰皇棋』の本を解くことで力をつけられると思って本を開くのだが、図面を見ても一つも頭に入ってこない。


 コマの動く範囲を一つ一つチェックして、考えようとするのだが脳がスカスカになってしまったようにコマと動きの意味が繋がらない。一手考えてその次の手を考えることも困難で、気づけば1時間もただ、コマの配置を眺めて時間が過ぎている。


 考えたくないのだ、と、草歩にはわかっている。

 自分の心が今、『皇棋』について考えるのを拒否している。


 そしてそれは『あいつ』のせいだろう。


 ピョンが前に言っていた言葉の意味も、何となくわかってきてしまっていた。


 「ミーたちはみんな諦め切って、このままでも仕方ないと受け入れてしまっていたんですミ」

 と言う言葉。


 それはきっと、嫌になったり投げ出したり諦めたりくじけたりといった単純な弱さが作った感情じゃないんだろう。もっともっと深い絶望。考えるのを拒絶せざるをえないような悪夢。


 チェスナのことを考え、絶対に助けたい、そのためには『あいつ』を倒すしかない。と結論に至るたびに思い知らされる現実。


 一体どうやって『あいつ』に勝つ?

 そもそも『あいつ』に勝てることがありうるのか?


 心が、頭が、理性的な計算が、衝動的な感情が答える。


 無理だ。

 勝てっこない。


 『神に最善手を聞ける』相手に勝てる人間はいない。


 『皇棋』では絶対に勝てないし、レベルも無理だったら戦うことも馬鹿馬鹿しい。今の草歩だったら本当にデコピン一発で倒されてしまうだろう。


 じゃあレベルを上げる?

 『あいつ』に勝つくらい『皇棋』に強くなる?


 そしてそこでまた考えは堂々巡りになる。


 あんな負けたことのない奴に『皇棋』で勝つ、だって?

 『皇棋』に勝ち続けているおそらく世界一レベルが高い相手のレベルを超える、だって?


 無理だ。

 僕には無理だ。


 この世界の人たちはきっとこういう葛藤かっとうと挑戦の連続の結果、『あいつ』に逆らうことを考えられなくなってしまったんだろう。


 誰か一人でも勝つことができれば、挑むことはいさましい『挑戦』だが、全てが負けにつながるのであればそれはもはや考えのたりない『無謀』でしかない。


 勇者はいつかただの愚か者の称号へとかわる。


 そうして悔しさが、お腹の中で出口を失ってぐるぐると回る激情が、やがて『あいつ』に向かうことをやめ、弱い『自分』に向かい出すのだ。


 『あいつ』に勝てない自分や周りの弱さを責めることで現実から目をそむけ、いつしか全てを受け入れてゆく。


 くそ。くそ。


 草歩は座っている地面の草を叩き、こんな風に怒っても何にもならないと自分に腹を立てるが、『詰皇棋』の本を開く気にならない自分にもまた腹を立ててそのままゴロゴロと転がって腕で目をおおう。


 涙が出て気持ちが晴れてくれればと思うがそう簡単ではない。


 なにしろ今もチェスナは苦しんでいるに違いないのだ。泣いて忘れられるような単純な話じゃない。


 チェスナが最初に『あいつ』の話が出たときに見せた顔の意味も、今はよくわかる。


 家族が今も苦しんでいるという現状に、『皇棋』が強くなることで立ち向かおうとしていたチェスナの強さが本当によくわかる。


 絶望を乗り越えて希望を見出して、不可能だと自分で自分を縛り付ける声と戦い、前を向いて1日1日を生きることの何と難しいことか。


 チェスナは勝てると信じて戦ったのだろうか?


 もしかしたら、これ以上自分だけが家族の苦しみの外で生きることに疲れて、自分もそこに飛び込もうとしたのではないだろうか。


 戦うことを先延ばしにすることはいくらでもできてしまうから。

 そうしていつか『戦うことを恐れてしまう』ことが怖くなって。


 わからない。


 今の草歩はマイナスの気持ちに囚われているからそう思うのかもしれなかった。


 わからない、わからないけど。


 チェスナの、いつもみたいにトー伯斎はくさい師匠のしポイントを鬱陶うっとうしいくらいに熱く語る声が聞きたかった。


 みんなで食事をし、『皇棋』をし、時にゲンコツをくらいながら笑い合っていたかった。


 本当に。


 ただチェスナにここにいて欲しかった。




 そのまま半分眠るようにして、草歩は夢を見た。


 「ちぇっ、また負けた。もうやめようかな、将棋」


 草歩はリビングで『将鬼ウォーズ』を指していた。自分が有利だと思っていたのに逆転負けしたのが悔しくて、思わずそんなことを呟く。


 父さんがそれを見て笑っている。

 「負けて悔しいからやめるんなら、この先何にもできないぞ」


 「何っ!?そんなことわかんないじゃないか。僕なら何だってできるさ!」


 草歩は父さんが言いたいことも何となく察したのだけれど、あえてムキになって言い返した。


 「いいや、出来ないな。だって、草歩がもしこれから、例えば野球でもサッカーでもゲームでもいいさ、始めるだろう?そうしたら必ず負けるんだぜ?」


 片眉を上げて笑って言う父さんが、何故だか今は無性に腹が立つ。


 「わかんないじゃないか!隠されたすんごい才能があるかもしれないだろ?」


 「うーん、まあそうしておこうか。でも今度は草歩、相手が弱くて必ず勝つからつまらない、やめようって言うだろうな」


 「勝ってやめる?そんなのないよ、絶対」


 「ふふ。将棋は勝ち負けがあるからおもしろいけど、負けたからつまらない、勝ったからおもしろいわけじゃないだろ?勝つか負けるかわからないから面白いんだ。違うか?」


 「うっ。でもさ、ずっとずっと必ず負けてたらつまらないよ」

 「そうだなあ、どう言ったらいいかなあ」


 父さんは顎をさすって考えている。髭が濃いので、夕方になるといつもジョリジョリになっている。


 「勝つか負けるかわからないからおもしろいっていうか、勝つために頑張るのが面白いんだよな、本当は。だから、負け続けても、その負けが原因で二度とできなくなる、というような状況じゃなければ、何度でも戦えば、その度に楽しいんじゃないかな」


 「そんなことないよ。負けると悔しいもの」


 「そのときは、忘れればいいさ」


 「え?」

 「負けたことを忘れちゃえばいいさ」


 何だか深いことを言っているような、誤魔化ごまかされてるだけなんじゃないかというような気分だ。


 父さんの目は優しいけれど、そこには何かよくわからない重さがある。


 「羽生善治さんの言葉にな、『将棋は負けを分析すると自己否定じこひていにつながる。勝負の原因が全て自分にあるからだ、だから自分は負けたときはちょっと反省点を調べたら、あとはなるべく忘れるようにしている』、ってのがある。


 つまり、負けたことや必ず勝たなきゃいけないって思いは、『将棋』の盤面とは何の関係もないんだよ。みんなそのときできる最高のことをするために日々頑張ってるわけで、負けたからってそれが否定されるわけじゃないのさ。


 だから負けて悔しいからやめるのは、やめた方がいい。


 負けて、もうこれ以上は状況がゆるさないとか、もっと他の原因で、そこから追い出されるとかじゃなかったらな」


 と、急に父さんは目を逸らして立ち上がる。

 唖然あぜんとして見送る草歩に、


 「クソしてくる」


 と言い残し、母さんに「あなたやめてください!きったないわねえもう!」と怒られながら歩いてゆく父さんの背を見て、最後の言葉の意味を探る草歩。


 将棋をやめなきゃいけない状況?


 草歩は自分の耳に水が入ってきておどろいて、体を起こすと振り払った。手で触ると自分の目から水が伝っている。


 泣いていたのか。涙がこぼれて耳に入ったんだ。

 草歩は涙を拭き取って止めようとするが、全然とまってくれない。


 何だろう、どうしたんだろう。


 拭いても拭いても溢れる涙に戸惑とまどっていた心が、やがて体に追いついて、苦しい胸の内を吐き出すようにいつの間にか顔をクシャクシャに歪め、鼻水も垂らして真っ赤に頬を染め、しゃくり上げながら草歩は泣いていた。


 父さんと母さんに会いたい。


 こんな苦しい世界にいたくない。


 チェスナを助けたい。

 自分には力がない。


 父さんに会いたい。

 友達に会いたい。

 母さんに会いたい。


 これ以上苦しいことを考えたくない。


 もういやだ。

 こんなところに一人でいるのは。


 つらい。


 声こそ出さなかったけれど、大きく息を吸って吐いて、ぐちゃぐちゃに混乱した気持ちが落ちつくまで、草歩は泣き続けた。

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