1・将棋大好き少年、天野草歩の願い
「あ〜〜、負けたっ」
天沼草歩はおでこをパチンと叩いてタブレットをベッドに投げ出すと、自分も後ろに倒れ込んだ。天井を見上げて対局を振り返る。
最後は一気に長い手順を詰まされてしまった。くそう、他に逃れ方があっただろうか。
小学3年生の草歩は、今将棋にハマっていた。
やっていたのはスマホでもパソコンでも出来る対戦アプリの『将鬼ウォーズ』だ。強い人がたくさんいるけれど、自分の級に合わせて相手が決まるからいつも熱戦になって面白い。
動画サイトには元奨励会の人や、最近はプロ棋士までこのアプリでの対戦の動画を上げている。
「こっちが有利だと思っていたのにな。相手が角を捨ててから、簡単に詰まされてしまうとは思わなかった」
将棋を知らない人に説明しておくと、将棋は自分の『王』の駒をとられたら負けで、王が次に必ず取られてしまう状態になるのを『詰み』という。
さっき草歩は、自分にはわからないような長い順序で、抵抗もできないまま一気に詰まされてしまっていた。
もしかしたら、と草歩は思う。負けると悔しいので、いつも思ってしまうことでもある。
「相手は『鬼神』を使っていたんじゃないだろうか?」
『鬼神』というのは、『将鬼ウォーズ』で使うことの出来る、「次にどうしたらよいか」を教えてくれるサービスだ。草歩が将棋を始めた時にはもうAIの方が人間よりも強かったが、『鬼神』はAIを使ってどれが最善かを教えてくれるのだ。
「いやいや、そんな風に思ってちゃだめだよな」
草歩は放り投げてしまったタブレットを手に持って、さっきの対局を検討してゆく。『検討』と言うのは、自分が戦った戦いをもう一度振り返って、どこが悪かったか、とか、ここでは相手は何を考えていたのかな、とか、次に生かせるように見直す作業だ。
結構面倒くさいし、負けた時は考えたくもなかったりするけれど、これをやらないとなかなか強くはなれない。
指した相手とそれをやることを『感想戦』といって、プロも必ずやる大事な工程だ。強い人は感想戦も長いと聞く。
「うん、ここまでは自分が有利だよな。飛車も成り込んでいるし、と金も作って。どうすればよかったんだろう?」
『将鬼ウォーズ』では、検討にもAIを使うことができるので、それを使って草歩は色々と検討し、なんとなく反省点もわかったのでアプリを閉じる。
「やっぱりもっと詰将棋をやらないと、最後で負けちゃうんだよな」
『詰将棋』というのはさっき説明した『王』を『詰ませる』ための問題のことだ。相手の王と、その周りに自分や相手の駒が並んで図になっている。自分の持ち駒も決まっていて、必ず『王手』という、相手の王に「次にとりますよ」という指し方をして行く。
当然相手の王は逃げるので、また『王手』を続けて、相手がどうやっても『詰み』になるような順番を考えるのだ。
短い手順のは簡単だけど、長くなると考えないといけないことが多すぎて難しい。
草歩は起き上がると、タブレットからお気に入りのページを開く。
そこには大好きな藤井聡太さんの記事がまとめられている。
藤井聡太さんは、この『詰将棋』がすごく得意だ。詰将棋の選手権ではプロも参加している中、12歳で初優勝して5連覇しているのだ。
「きっとさっきの人も、詰将棋が得意だったんだろう」
草歩は考えを改める。
父さんがいつも言ってるじゃないか、強い相手と戦ったら、ちゃんとそこから学ぶことって。
父さんは詳しく話さないし、今はすっかり将棋を指さないが、昔はずいぶん強かったらしい。母さんにも聞いたけど、教えてはくれなかった。どういうわけか今はやめている。
草歩が将棋を初めたのを知って、父さんは草歩とだけは時々さしてくれるようになった。
そこで指し手については何も言わないけれど、必ず、「挨拶と検討をすること。反則と待ったをしないこと」だけはしっかり言われる。
『待った』とは今指した手を、やっぱりなし、とすることで、ものすごくやりたくなる。だって自分が思ってもいなかったことをされて、それで一気に不利になってしまうことがたくさんあるからだ。
一度指したら絶対に変えられないから、たくさん考えないといけない。それでも全部考えるなんてむりだけれど。
藤井聡太さんが強いのは、たくさん考えて、後悔しないようにしているからだろうな、と草歩は思う。
ページから、みたいサイトへ飛ぶ。
そこには「藤井竜王対渡辺名人」の記事。
今年(2021年)の1月9日からの「王将戦」の紹介だ。
将棋界にはタイトル、といって、特別な称号の大会が「名人」「竜王」「王位」「王座」「棋王」「王将」「棋聖」「叡王」と8つある。そのうちの『王将戦』で、今の王将の渡辺明名人に藤井聡太竜王が挑戦するのだ。
渡辺名人が名人・棋王・王将の3つ。
藤井竜王が竜王・王位・棋聖・叡王の4つとそれぞれ複数のタイトルを持っている。
両方合わせると7つのタイトルホルダーという、今の将棋界の本当の最強同士がぶつかる戦いなのだ。
「楽しみだなあ」
草歩はニヤニヤしながらタブレットをみつめ、よし、もう一局指そう!と「将鬼ウォーズ」を立ち上げた。
* * *
「草歩!」
母さんの声が聞こえる。
「草歩!」
父さんの声が聞こえる。
二人とも泣きそうな声だ。目が開かなくて、顔は見えない。
何があった?
体も動かない、真っ暗な空間で草歩はおもいだす。
そうだ、事故だ。
父さん母さんと三人で外出中、横断歩道を渡りはじめた僕たちのところに、トラックが突っ込んできた。
父さんと母さんの声が小さくなっていく。体がどんどん冷たくなっていって、寒くてたまらない。そして、なんだか意識がはっきりしなくなってきた。
僕、死んじゃうの?
闇の中で草歩は思う。
いやだ。いやだよ。
必死に足掻こうとするが、ピクリとも体が動かない。
いやだよ、僕、もっと将棋が指したいんだ。もっともっと頑張って、もっと強くなって。
そしていつか、藤井聡太さんと指したいんだ。
消えゆく意識の中、草歩は願う。
「神様、もっと将棋が指したい!」
「その願い、聞き入れてやろう」
目の前の闇が闇よりも濃い真っ白な世界に飲み込まれ意識を失う瞬間に、確かに草歩はその声を聞いた。