【原因】
ねーちゃんが挙動不審なのは通常営業。
リビングのソファーでスマホの画面を見ながら、ぐへへと笑いをこぼしつつ。にやにやしながら、壁に頭を打ちつけたり。はたまたソファーから床に移動して、ごろごろ転がったりもしている。
たぶん、何かあったんだろうな。あいつと。何か、いいことが。
俺しか見てないからいいけどな。
他の人が見たら奇行でしかないからな。
まあでも、ねーちゃんが明日もこの調子のままで仕事に行ったら、職場の人に迷惑かけるよな。
ちょっとやばいことを自覚させた方がいいのでは。
べつに、俺が個人的に。ねーちゃんがあいつと何かあったのか、聞き出したいわけではない。断じてない。断じてないけど、聞かずにいたら、俺の方が今晩眠れなくて明日仕事に行って、職場の人に迷惑をかけてしまいそうだから。
だから聞いておこうと覚悟を決める。
「ねーちゃん、何見てんの?」
ソファーのそばを通り過ぎるふりをして、不意打ちでねーちゃんのスマホをのぞく。
ねーちゃんはぐへへの顔のまま俺を見て、ようやく慌てて、スマホを隠す。だが遅い。
俺の動体視力を舐めんな。
ねーちゃんが眺めていたのは、やっぱりあいつとのメッセージのやり取りの画面だった。
一瞬のぞいた画面に見えた言葉に、俺は首をかしげる。
「海ですね、って何のこと?」
たったその一言。それをねーちゃんは見て、にやにやしていた。わからん。
だけど俺が尋ねたら、ねーちゃんは顔を真っ赤にして怒っていた。
「勝手に読まないでよ! そういうの最悪だからね! もう!」
「ごめん」
ねーちゃんは顔真っ赤である。怒ってる。でも、口元が緩んでる。
これはあれだ。ほんとは誰かに話したかったんだ。自分の幸せを。
わかったわかった、聞いてやる。聞きたくないけど聞いてやる。大丈夫、覚悟はとっくにできている。ねーちゃんが、俺以外のやつと幸せになるなんてことは、それこそ随分昔に、わかってるんだ。
「で、海ですね、って何?」
だから俺はもう一度尋ねた。真っ赤なねーちゃんの顔が、赤いまま溶ける。にこお……って、幸せそうな笑み。
「これはあれだよ、私が海だよね、って前に話したんだよ。それをね、覚えてくれててね」
それからねーちゃんは、自分の言ったセリフに、きゃーって語尾に付け足して、スマホをぎゅっと抱きしめる。ああ、そんなに力入れたら、ケース割れるんじゃね? 画面ヒビ入るんじゃね? バッテリー膨張してパーンってなるんじゃね? ってぐらい抱きしめてる。
「で、送ってくれたわけですよ、えへへへへ」
「あ、そ」
なんだ、ただそれだけのこと?
ねーちゃんの話を覚えてて、一言、返してくれた、それだけのことで?
そう。それだけのことで。まわりの誰から見たって、それがなんで特別なのか、わからないような言葉なのに。
それだけの、ことで。
あいつの送った数文字のメッセージは、ねーちゃんをこんなにも幸せにする。
「これは永久保存だね。毎日眺めたいぐらいだよね」
ねーちゃんが幸せなのはいいことだけど、俺は小さく舌打ちをする。
俺はあいつに敵わない。俺の願いは叶わない。
ほんと、かなわない。
「じゃあさ。これまでに言われて一番うれしかったのって、何?」
どうせなら全部聞き出して、惚気られてショックを受けてしまいたい。そしたらいろいろ諦められるかもしれないし。俺はいつだって自分の拗れた感情が、消えてなくなることに期待している。
だけど尋ねた俺に、ねーちゃんは困った顔をする。
「一番? そんなの選べないよ」
そして、また、へらへら溶けた顔になる。
「だって全部うれしいし。……まあ、どうしても、って言うなら、そうだねえ、三十位ぐらいからランキング形式で発表してみる?」
ある意味すげえな。そんなにあんのか。
ねーちゃんは、じゃあねじゃあねと呟きながら、スマホを操作する。
そこまで言うんだから相当に、乙女心をぐわんぐわんさせるような、甘いセリフを送られてるんだな。
ねーちゃんを口説くのなんか、簡単だ。
いいところをめちゃくちゃ褒めたらすぐ喜ぶだろうし。
いつもさり気ない気遣いができてすてきですね、とか。
おいしそうに食事されるから見ていて楽しいです、とか。
そのさらりとした髪に指を這わせてみたいです、とか。……いや、これは気持ち悪い? でも好きな相手からならいいよな。
でも待てよ、そもそもねーちゃんのことだから、相手に好きって伝わってないかもしれないな。
絶対自分から好きとか言わないだろうしな。
俺の目から見たらバレバレだけどな。
ねーちゃんが、今誰に恋をしているかなんて。
想像して軽く苛立つ俺を気にすることもなく、ねーちゃんは画面を眺めてにやにやしている。
そして。
「やっぱむり。これ、あんたに教えるのもったいないわー」
と、引っ張るだけ引っ張って、手のひら返し。
結局、抜粋の発表もしてくれなかった。
「あ、そ」
俺は残念なような、どこかほっとしたような。そんな気持ちになる。
「だいたいさあ。おはようも、うれしいし。おつかれさまも、うれしいし。おやすみなさいも、了解ですも、しみるよね」
ねーちゃんの挙げる言葉は日常すぎてびっくりだ。口説かれてないな。かすってもないな。それでもうれしいってどういう症状だ。
「っていうかさ、あの人からのメッセージだとさ、句読点までかわいく見えるんだけど。何なんだろうねこれね、えへへ」
もうなんでもいいんじゃないかな。言葉の内容なんて。
好きな人の存在を感じられるだけで、ねーちゃんの恋する脳みそは幸せを生む。
ねーちゃんの言葉を聞き流すふりをして、俺は心の中ではうなずきまくってる。ねーちゃんのおはようも、おつかれさまも、おやすみなさいも、了解ですも、うれしいもんな。
幸せそうに転がってるねーちゃんを観察するのすら幸せだと思う俺も、相当幸せな脳みそ。
「にやにやするの気がすんだらさ、飯にすっぞ」
「ごはん! 食べる食べるー」
ねーちゃんはがばりとソファーから立ち上がり、スマホをうやうやしくクッションの上に置くと、いそいそとキッチンに向かう。
カウンターには彩りよく盛られた今日のメニュー。ねーちゃんがそれを見て声を弾ませる。
「やった、コロッケだ、食べたかったんだよねー」
そうだ。知ってる。ねーちゃんがこの間、呟いてたの聞いてたから。
家で作るコロッケっておいしいよねー、でもめんどくさいよねー、平日作るのは手間だよねー、あれは休日の料理だよねーって。
つまりは、次の休みの日にあんたコロッケ作ってよ、って俺にそれとなく命令していると思ってたんだけど。
まさか忘れてんのか。それともあれは俺にだけ聞こえたテレパシー的なやつか。ねーちゃんの思考が俺の脳にだだ漏れか!
「ねーちゃん、食べたいって言ってただろ」
「言った? 言ったかも? あははー」
ねーちゃんは機嫌よく笑って、食器を用意する。
「あんたほんと記憶力いいよねー」
それはねーちゃんにとっては、何気ない一言。だけど俺はぐっと言葉に詰まる。
そうだよ。覚えてる。ねーちゃんの言葉は、よく、覚えてる。
他の誰かの会話は忘れても。ねーちゃんの言葉は特別なんだ。
「大好き」
呟いたねーちゃんの言葉の主語がコロッケでも、あいつでも。
幸せの原因が自分じゃなくたって、ねーちゃんが笑顔ならそれでいい。