【髪】
帰って来たねーちゃんを見て驚いた。
「髪!」
おかえりよりも先に叫んだ俺に、ねーちゃんはふん、と顔を背ける。今朝は見えなかったねーちゃんの耳が、すっかり見えていた。
「暑いし。ちょっと切ってきた」
確かにここのところ毎日夏だ。まだ梅雨だけどもう夏だ。髪を切りたくなる気持ちもわかる。でも、でも。
「ねーちゃん、髪伸ばしてたんじゃなかったっけ?」
そうなのだ。ねーちゃんは宣言してた。願懸けするから髪伸ばす、って。あれはいつのことだったかと思い出そうとしてたら、ねーちゃんが不機嫌そうにかばんを投げる。そしてがたがたと部屋の中を物色し始めた。なにしてるんだろう。
「ねーちゃん、何探してる?」
「あんたさあ、持ってたよね、バリカン」
「あー、あるけど」
バリカン。正式名称は何だっけ。金属製の髪切り器。ひげ剃りの髪用みたいな。電動のやつを俺は持ってる。見栄えのいいモヒカンを保つためにはこまめなメンテナンスが必要なのだ。あ、モヒカン? 正式名称は、ええと。ニワトリのトサカみたいな髪形な。俺の。
「ねーちゃん、バリカンで何すんだよ?」
渡す前に確認しないと。ねーちゃんはいつも突拍子もないことをしでかすから。
そして俺の判断は正しかった。生まれてこの方ずっとねーちゃんの弟をしてるだけのことはある。
ねーちゃんは真顔で俺に答える。
「髪切るに決まってんでしょーが」
ちょいキレ気味の姉ちゃんに、俺は咄嗟に自分の頭を両手でかばう。
「俺はモヒカンやめねーからな」
最近は俺のスタイルに文句言わなくなってたのに。だいたい、モヒカンかアフロかどっちがいいか尋ねたら、モヒカンって言ったのねーちゃんじゃんか。それを今更……、と。心の中で文句を垂れ流していたら、ねーちゃんは呆れたようにため息をつく。
「あんたじゃないから。私のを切るの」
「は? 十分短くなってんだろ」
夏の暑さも一瞬遠ざかるみたいな、涼やかな襟足。すっきりとした輪郭と、首筋のラインがあらわになって、ねーちゃんのくるくる変わる表情も、いつもよりもよく見える。今は絶賛メンチ切ってるけど。俺に。
「足りないの! これじゃだめだったの、せっかく切ったのに……」
ねーちゃんはぐはあと血を吐きそうな顔をして言う。その表情も、よく見えた。
「もう、忘れなきゃって。あの人のこと。だから、あの人のこと好きな間、伸ばしてた髪、切ったのに……」
ねーちゃんの言葉に、俺はあー、って。ため息をつく。
なんだねーちゃん。まだ引きずってたのか。失恋した相手のこと。最近はすっかり落ち着いた様子だったのに。まだ、吹っ切れてなかったんだなあ。
そうだったな。ねーちゃんの願懸け。それは、恋が叶いますように、だったんだよな。
あの人とうまくいきますように。長くつながれますように。
その願いを込めて、髪の毛、伸ばしてたんだよな。
ねーちゃんは目を伏せて呟く。
「あの人がさ、もしかしたら髪の毛長い子の方が好きかもしれなかったから、伸ばしてた」
「もしかしたら、って聞いてたわけじゃねーのかよ」
「そんなの! 聞けるわけないよ。それにあの人、すごくやさしいから、そんなこと聞いたら、今の長さ好きですよとか、言ったに決まってる」
ねーちゃんはあいつのことを思い出してちょっと涙ぐんだ。想像上の会話で泣けるって、まだ相当、未練あるなこれ。
「私がロングでもショートでも褒めてくれたと思う」
「モヒカンでも」
ぼそっと合いの手を入れたら、すかさずねーちゃんににらまれた。はいはい、黙ってますよ。
俺はねーちゃんがモヒカンでも好きだけど。髪形なんかどうでもいいけど。
黙ったついでに口の中に本音を閉じ込める。
ねーちゃんはぎりりと、悔しそうに歯噛みする。
「だいたい、惚れさせる好印象な見た目が必要なら、ロングヘア―にナチュラルメイクでゆるふわな感じで女子アナっぽい美人が着てそうなオフィスカジュアルとか無難に選んでたら間違いないんだよ」
ねーちゃんは相変わらず偏見がひどい。どこ情報だそれ。
「間違っても私が本当に好きなメイクとか服装とかじゃだめなんだよ。そんな個性、恋愛には不要なんだよ。っていうかそんなのは職場に不適合なんだもん。一か月のうち三分の二は仕事なんだよ、自分の好きよりもそっちに合わせないと生きづらい」
でもそれってねーちゃん。つまりは「偽物」の自分で恋愛しようとしてないか。「本当」の自分を見せないと、「偽物」を好きになった相手だってかわいそうじゃないのか。
俺は、そう思う。
「だからほら、バリカン。どこ?」
ぐわっと顔を上げたねーちゃんは、まだ、バリカンのことを忘れてなかった。
「髪、切って。あの人を想った日々をね、忘れたかったの。自分の体から切り離して。すっきり忘れようと思ったの。でも、よく考えたらさ。髪って一か月で一センチしか伸びないのね。ってことは、地肌から、このへんまで? ここ、私があの人を好きだった日が詰まってんのね。ね、切る必要があったのは、毛先じゃなくて根元だったの。ってことに、気づいちゃったの。……だからバリカン。もう根元からぜんぶいっちゃわないと。私、あの人のこと忘れられない」
「出家すんのかよ」
弟がモヒカンで姉がスキンヘッドって。一応ご近所さんとの付き合いもあるんだからな。
まあもう俺がこうなのは、ご近所さん、見慣れて何も突っ込まなくなったけど。
とにかく、ねーちゃんは今のままで十分。十分なんだから。
「あのな。そんなこと言ってたらな。爪だって皮膚だって、体の細胞だって。ねーちゃんから切り離せない部分にだって。想い出、詰まってるだろ」
俺の言葉に、ねーちゃんがハッとしたように目の前に両手を広げた。
「爪! だよね、爪も切らなきゃ……、ああ、切ってもだめか。……剥ぐ?」
「剥ぐな!」
どうしてこう極端なんだねーちゃんは。俺はゆっくり、ねーちゃんを諭す。
「切り離したり、忘れたりしなくていいから。自然に育って、ねーちゃんから旅立つまで。一緒に過ごせばいーじゃんか」
今はつらくて悲しくて。忘れてしまいたいかもしれないけど。もうちょっとしたらそのことだって、懐かしく思えるかもしれない。いや、やっぱり忘れてしまいたいかもだけど。そのときには時間が助けてくれる。大丈夫。
「いっぱい食べて、いっぱい寝て。ちゃんと働いて、しっかり遊んで。毎日楽しく過ごしてたら、新陳代謝も高まって、古い細胞も入れ替わるだろ。悲しい想い出は新しい記憶に入れ替わる」
ねーちゃんは、俺の話を理解したのか、していないのか。わからないけど。
ふ、と。息を吐いて、それから自分の手を、自分の頭に当てて、よしよしとなでた。
「切ってもいい長さまで伸びたら。忘れられるかなあ……」
短く切って残った髪は、ねーちゃんがあいつを好きだった時間が詰まってる。
できることなら俺だって、よく頑張ったって、ねーちゃんの髪をなでてやりたいけど。それは俺の、役目じゃない。
とりあえず、髪を切ることを諦めたようなので一安心。
でも、まあ。バリカンは一応、ねーちゃんに見つからない場所に隠しておこう。