【無意識な日常の】
夜のリビング。
ねーちゃんが風呂上がりに、難しい顔をして言う。
「あのさあ、私さあ、コンディショナー、してた? 頭」
リンス、トリートメント、コンディショナー。
各社様々な呼び方があるけど、シャンプー後に浴室で髪に使用する、髪の毛をトゥルンとさせる効果のある液体。
そして、してた? とねーちゃんに、当たり前のように聞かれても、困る。
「それを俺が知ってると思ってんの? 本気で?」
ねーちゃんの話は、本気と冗談の境目がわからないことが多々ある。
俺が聞き返したら、ねーちゃんはマジで「きょとん」な表情を浮かべた。
「あんた、私のことだいたい知ってるから、知ってるかと」
「いや、知らねーから」
俺は即答する。
ねーちゃんが風呂で何してるか知ってたら大問題だろう。いや、ふつうに入浴してんだろ、っていうのは予想できる。
っていうか、ときどき部屋まで、風呂場の音が聞こえてくるときは、なんとなく聞かないふりをして、テレビの音量を上げたりしてみる。なんか聞いちゃいけない気がして。
聞き耳なんか立ててない。それは変態すぎるだろう。弟、つーか、俺。
「自分のことだろ。さっきのことだろ。思い出せよ」
俺が淡々と言い放てば、ねーちゃんは首をかしげる。
「思い出そうとしてるけどさあ。シャンプーして、洗顔して、体を洗った記憶はあるんだけど。コンディショナーの部分だけすっぽり消えてるんだよね」
「じゃあ、してねーんじゃねーの?」
適当に返事をする俺に、ねーちゃんはちょっとムキになって声を荒げた。
「でも、毎日毎日同じ手順でお風呂入ってんのにさ、急に抜ける? 忘れる? おかしくない? 私の頭おかしくない?」
ねーちゃんの頭がおかしいことは知ってるけど。それを言っても今さらなので、ぐっと言葉を飲み込む。
それ以上に、俺が思い当たること。
ねーちゃんがコンディショナーしたかどうかが、わからなくなる原因。
それって、どうせまた風呂入りながら、あいつのことでも考えてたからじゃないのか。頭の外あわあわにしながら、あいつのことで頭ん中ふわふわにしてんだろう。
きっとそうに違いない。
ねーちゃんがぼんやりするのも、ぜんぶあいつのせいなのだ。
「あいつのことばっか考えてるから、忘れるんだよ」
飲み込み切れなかった言葉を漏らしたら、ねーちゃんは思った以上に慌てていた。
「ちょっと、やめてよ。お風呂で全裸であの人のこと私が考えてるとか、考えないでよ、やだー、汚れる!」
この場合汚れるのはどっちだ。ねーちゃんか? あいつか?
もしも全裸のねーちゃんが、俺のことを考えていたら、と想像するだけでとても悪いことをしている気持ちになるので、そこはもう、追及しないことにする。
ねーちゃん自身も、自分の態度があまりにもワザとくさくて白々しいことに自覚があったようで。
すぐさま、言い訳を並べた。
「でもでも、あの人のこと考えるのはいつものことなんだよ。それでも、いつもはちゃんとコンディショナーもしてるんだよ。ってことは、やっぱ、今日も私、ちゃんとコンディショナーできてるんじゃないかな」
そして、話題をコンディショナーに戻して、ねーちゃんは自分の髪に指をすべらせる。
「じゃあ、できてるんじゃねーの?」
毎日繰り返すことって、いちいち、意識せずに行動してるものだから。流れるような動作でコンディショナーをしてしまったせいで、ねーちゃんの記憶から飛んじゃってるだけな確率が高そうだ。
もうこれでこの話はおしまい、と、俺は思ったが。
ねーちゃんの中ではまだ、終わっていなかった。
「ああー、わかんない。ちょっとあんたさあ、私の髪比べてみてよ」
「は?」
「いつもと違うか触ったらわかんない? 私は自分じゃわからない」
俺もマジでそのとき、「きょとん」な表情だったと思う。けど、ねーちゃんはおかまいなしに、俺に近づき、頭をぐいぐいしてきた。
ねーちゃん、俺に髪触られるのとか、平気なんだなあ。
だよな、姉弟だもんな。平気じゃない俺が、ちょっとおかしいんだよな。いや、だいぶおかしいんだよな。
しぶしぶ、こわごわ。……いや、これはねーちゃんの髪の手触りじゃなくて、俺の気持ちな。
何の後ろめたい気持ちもないですよと、どこかの誰かに言い訳しながら。
俺はねーちゃんの髪をなでた。
……なんか思ったよりしっとりしてる。ちゃんとこれドライヤーしないとだめだろ。
コンディショナーしてるかどうかは、どうなんだろ。わからない。わからない。やっぱそれどころじゃない。
っていうかどんぐらい、なでてていいんだろう。俺の手の摩擦で髪乾くまででもいーのかこれ?
考えながら手を動かしていたら、ねーちゃんが上目遣いに俺を見る。
「どう? コンディショナー味あった?」
「いやあ、手触りは悪くない、けど……、ごめ、わかんね」
俺が正直な気持ちを吐露すると、ねーちゃんはわかりやすく頬をふくらます。
「もう、役立たず」
「え、俺、怒られるとこ?」
八つ当たりなのかなんなのか、ねーちゃんは理不尽だ。
けど、俺はとりあえず、ドライヤーを持ってきて、ねーちゃんに渡す。
「どっちにしろ、ちゃんと乾かさないと、明日ばっさばさになるんじゃね?」
ねーちゃんはハッとしたような顔をして、そして受け取ったドライヤーに顔をしかめる。
「まあそうだねえ。ドライヤーってめんどくさいよねえ」
なんだかちらりと、こちらを見た気がしたけど。俺は目をそらしておく。
ねーちゃんのめんどくさいことイコール、弟に押しつけよう、という魂胆が、なんか伝わってきたから。
お断りである。ねーちゃんの髪乾かすのとか、一回でも俺が手伝ったりしたら。これから毎日、俺がねーちゃんの髪を乾かす当番になるかもしれない。
毎日、毎日。ねーちゃんの髪を、自分の指でとかしながら、ドライヤーしてやるとかさ。
あー、無理。俺絶対いろいろ無理。
必死に煩悩とお別れしようとする俺の前で、ねーちゃんは温風を頭に当てる。
ねーちゃんの髪がふわふわ揺れる。コンディショナーの効果、出てんのかな? やっぱりわからない。
「でもさあこれで、私がコンディショナーしてなかったとして。明日の朝、いつもと変わりなかったらさあ。これまで毎日してたこと、意味なくない? なんかそれも悔しいなあ」
「あ? 何言ってんのか聞こえねーし」
ドライヤーの音に紛れてほとんどねーちゃんの声は聞こえない。
「あの人にも気づかれちゃったら、どうしよう」
でも、それは聞こえてしまった。ねーちゃんの、ちょっと嬉しそうな声。
気づかれたって、気づかれなくたって、ねーちゃんの心をふわふわさせるあいつの態度。
俺はそれを聞き流し、そっと、自分の手を握る。
手のひらに残るねーちゃんの髪の感触が、少しでも長くここに留まってくれるように。
コンディショナー。しててもしてなくても、俺はねーちゃんの髪、好きだって。
言ってしまいそうになったけど、ドライヤーが止まったから。俺ももう、黙ることにした。




