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失恋姉弟  作者: 加納安
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【イイコト】

 家に帰るなりため息ついて、手洗いうがいもそこそこに、ソファーに正座して座面に突っ伏して、亀である。

 ねーちゃん、何か仕事で嫌なことでもあったんだろうか。


「なんかあった?」


 放っておこうかと思ったけど。あまりにも、「心配して」オーラが出ていたので、俺は負けてねーちゃんに尋ねる。

 すると、ねーちゃんはのろのろと頭だけ動かして、答えた。


「最近何かイイコトありました? って、聞かれたんだけどね。あの人に」


 なんだあいつの話かと、心配して損したな、と思う。けど、だったら大して心配しなくていいから安堵もする。弟心は複雑だ。

 こちらを向いたねーちゃんの目は死んでいる。うっすら開いてはいるけど、どこを見ているかわからない。

 ねーちゃんの独白は続く。


「ちゃんと答えられなかったんだよ。結局あわあわなって、へらへら笑って、終わっちゃった」


 イイコト、かあ。俺は何かあったかなあ、最近。

 思い出そうとしてたら、ねーちゃんの声が荒ぶった。


「だいたいあんたのせいだよ。イイコト、って思い出そうとしたらさあ、思い浮かんだの、あんたなんだもん」


 思いがけない告白に俺は驚く。ねーちゃんが俺のことを思い出してくれたことに、びっくりだ。

 しかし、イイコト、の話のはずなのに。ねーちゃんの声色はぞぞぞと低い。


「今朝、あんたさあ。ベスト、さあ」


 ここでねーちゃんの言うベスト、とは。ワイシャツとネクタイの上に着る袖のないニットのことである。ジャケットの下に着たら暖かいあの衣類のことである。チョッキとも呼ぶけど呼んだら懐かしい気持ちになるから、ここではベストと呼ぶ。


「前後逆に着てたし。それだけならまだしも、表裏も逆に着てたし。もう、アレ思い出しちゃって、ダメだったんだよ」


 確かに今朝。ねーちゃんも俺も仕事へ行く支度をして、忙しい朝のひととき。俺は寝ぼけていたのと珍しく慌てていたのとで、ベストを前後逆に着た。襟ぐりがVじゃないからわかりづらいんだって。そして表裏も逆だった。ニットの表裏、色一緒だからよく間違える。

 さすがに上下は間違えなかったことを褒めて欲しい。それにちゃんと、タグ見て自分で気づいて着替え直したから問題ない。

 ねーちゃんがコーヒー吹いて、忙しい朝が更に忙しくなったのは、……あ、俺のせい?


 ねーちゃんは自分で話しながら、今朝のことを思い出したようで、亀の形のままプルプル震えている。思い出し笑いに侵食されて、ねーちゃんのセリフもずっとビブラート。


「最近イイコトありました? って尋ねられて。真っ先に思い出したのがあんたの今朝のアホな姿でさあ。でも、そんな話できないでしょ、めちゃくちゃおかしかったけど。だいたいあれ、イイコト? イイコトっていうより、オカシカッタことだよね。違うよね」


 イイコトもオカシカッタもオモシロイも一緒じゃね? って思うけどな。

 べつにすりゃいいじゃねーか、いや、俺の話でねーちゃんがあいつと笑うのはなんか悔しいか、いや、っていうかやっぱ、だめだな。

 震えるねーちゃんを眺めてたら、頭の中で答えがぐるぐる変化する。

 うん。しなくて正解。弟の話なんか、そういうとき、しなくていい。


 俺も友達につっこまれたことあるもんな。お前、ねーちゃんの話ばっかしてっぞーって。びびった。

 無自覚で二十四時間ねーちゃんのこと考えてるの、バレたみたいでほんと、焦った。


 だからねーちゃんも俺の話をしないほうがいいんじゃないかな。二十四時間はさすがに俺のこと考えてはないだろうけど。


「じゃあ、他には? 最近イイコトありましたか? の、答え。ほんとは、言いたいことあったんじゃねーの?」


 俺の話はともかく。ねーちゃんがこういうふうに落ち込むときは。本当に言いたいことが言えなかったとき。俺はそれを知っているから、改めてねーちゃんに問うてみる。ねーちゃんにイイコトがあったなら、俺だって聞きたい。


「そんなの、言えないよ」


 ねーちゃんが頬を赤らめる。え、そんな照れるようなイイコトが、ねーちゃんに起きてたのか。ちょっと俺も赤くなる。

 しかしねーちゃんは俺が勝手に胸をときめかせたことには気づかない。こっちを向いて、ちょっと困った顔で。答えを教えてくれた。


「今、あなたと話してることがいちばん、イイコトだよ」


 どきり、としたのは一瞬。すぐに俺の頭は判断を下す。


 ここでねーちゃんの言うあなた、とは。ねーちゃんが絶賛片想い中の相手のことである。俺のことじゃあ、ない。あなた、と呼びかけられてドキドキしてもムダである。ねーちゃんの目に生気が宿ったのは、あいつのことを思い出したからだ。目の前にいる俺を想って、ではない。


 一方、ねーちゃんは自分の言葉に恥ずかしさが爆発したのだろう。声にならない声を上げながら、ソファーの座面に頭を打ちつけてバウンドする。

 やめてスプリングいかれる。


「とか! そんなの! 言えるわけ! ないー!」


「そうだなー」


 ねーちゃんの頭の中は二十四時間あいつのことばかり。俺のことなんか時間で表せない単位ぐらいにしか考えてない。四捨五入したらゼロになる、そういう存在。


「だいたい最近のイイコトランキング、上から順番に、話ができたとかメッセージがきたとか挨拶したとかなんかもうそんなのばっかりだからね、ソート降順も昇順も時期で絞っても登場人物で絞ってもほぼ同じ項目しか出てこないからね! ああー! 私、そればっかりでなんか恥ずかしすぎる」


 ねーちゃんは反省している。反省したところで、次回があってもあんまり役に立たない反省会。


「もっとさあ、すてきな映画を見ましたとかさあ、どこそこのアレが美味しかったですとかさあ、話を聞いてくれた相手にも幸せをおすそ分けできるようなネタを仕入れとくべきなんだよね。せっかくの質問に対して、ちっともふくらまない答えしか出せないって、凹むわー」


「っていうかでも、そのためになんか用意しとくのは、違うだろー」


 別に、あいつも。ねーちゃんからそういう話題が聞きたいわけじゃない気がする。

 そりゃ、まあ。映画とか食べ物とか。話ふられたら、いいですねって、言ってくれるだろうけど。なんか。違うよなあ。

 それこそ、アホな弟の話でよかったのかもしれない。飾らないねーちゃんの日常のひとかけらを知りたかったのかもしれない。


 ねーちゃんは、イイコトだと気づいてないかもしれないけど。俺には毎日、どーでもいいような、だけどイイコトの、話。してくれてるのにな。

 朝起きたら窓の外に虹が出てた、とか。通勤途中にネコがいた、とか。対向車のフロントガラスに反射した青空がすごくきれいだった、とか。

 あいつにもそういうの話してみたら? って思うけど。きっとできないんだろうなあ。


「なにより凹むのは、じゃあ、あなたは何かイイコトありましたか、って。聞けなかったことだよね。私、いわゆる会話のキャッチボールができないんだよ。投げられた球受け止めたら握りつぶして手のひらで粉塵にしてる気がする。なにも返せない。キャッキャウフフと投げ返したいのに」


 でも、ねーちゃんのことだから、ウフフと投げ返しても大暴投もしくは急所に当てて致命傷、かなあ。存在が危険球。

 と、思ったけど。そんなこと言ったらまた怒るだろうから、俺は言葉を飲み込んだ。

 代わりに、じゃあ、と。ねーちゃんの理想の受け答えを想像してみる。


 いちばんイイコトは、あなたとこうしていることです。

 ねえ、あなたは? イイコト何かありましたか?


 ねーちゃんがもしもそう尋ねたら。あいつ、何て答えたんだろう。その先を予想するのは、やだな、だめだな。それはもうねーちゃんにとってはイイコトかもしれないけど俺にはヤナコトだな。それ。


「ねえ、あんたは? 何かイイコト、あった?」


 俺に鬱憤を吐き出してスッキリしたねーちゃんが、亀から回復して伸びをしつつ聞いてきた。

 俺は横柄に会話を切り上げる。


「べつにー」


 ねーちゃんには言わないけど。本当は、イイコトあったよ。

 今朝の間抜けな失敗を。ねーちゃんが笑ってくれたこと。朝からねーちゃんの笑顔が見れたこと。

 俺にとってのイイコトは、ねーちゃんがいる限り、きっと永久機関。


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