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失恋姉弟  作者: 加納安
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【休憩】

 誰もいないはずの場所だった。

 ビルの各フロアに設置されている休憩所。飲み物の自動販売機といくつかのベンチ。

 四階の機械室のフロアには、こんなもの必要なさそうなのに。精査することを放棄して、全部のフロアに同じように、休憩所をつくったんだろうなあ、なんて。通りすがりに考える。


「うわ、さいあく」


 最初は空耳だと思った。フロアを満たしているのは、微かな機械音。微か、なのに長くそこにいると、耳障りにしかならない不快な音の詰まった場所。

 だけどやっぱり声だったと思って。俺はそちらに顔を向ける。

 薄暗い休憩所の、自動販売機の前に蠢くものがいた。……いや、女の人がひとり。ここの社員っぽい。何か飲み物を買ったようで、手には黒い缶がある。休憩なのかな。仕事の合間の、息抜きの楽しい時間。

 なのに首をうなだれて。

 なのに肩を落として。

 まるで手にした缶と同じ色の気持ちなんじゃないかって。見てる俺にも伝わるぐらい。彼女は落ち込んでいた。


 もしかしたら、買い間違えたのか。

 それだけのことで、そんなに?


 呆れる気持ちが俺の足を動かした。

 そばに行ってもすぐに気づかないぐらい。彼女はじっと手にした缶を見ている。黒くて暗い冷たい塊。

 俺はそれを許可なく彼女の手から奪う。

 ハッとこちらを見た彼女の目は、奪った缶と同じ色をしていた。闇の色。

 俺は睨まれていることに気づかないふりをして、自動販売機に硬貨を滑らせる。すべてのボタンが一気に光った。これでどれでも選び放題。


「どれ飲む?」


 声をかけたら、彼女のまつ毛が上下する。

 俺の行動の意味をすぐには理解しきれなくて、戸惑ってるみたいだ。

 だけど、すぐに、彼女は頭を振る。俺を拒否する言葉をこぼす。


「いいです、そんな……」


 彼女の「いい」は、「けっこうです」の、「いい」だ。「けっこう」は「いい」ってことなのに。そこに込められた感情は、「不要」……って。それを一瞬で読み取って、俺は眉を寄せる。


「でも。これ、いらないんだろ?」


 彼女から奪った黒い缶を見せると、彼女の目が揺らぐ。


「いらないなら、いいだろ」


 問えば。彼女は言葉に詰まる。さっき、さいあく、って呟いてたの、やっぱり聞き間違いじゃなかったんだな。


「いらないのに、横取りされるのは嫌なんだ?」


 俺の言葉に反応して、彼女の頬にわずかに朱が差した。強張っていた表情が緩んで、そしてようやくその手が動く。細い指先が光るボタンに届いて、ごとん、と、商品の落ちる音がした。

 拾い上げた缶は熱い。まだ開いてもいないのに。甘ったるいにおいがしてきそうなパッケージ。

 それを彼女に渡したら、今度は確実に。彼女の表情が変わる。


「ありがとう、ございます」


 たどたどしいお礼の言葉に添えられる、やわらかな笑み。

 俺は落ちた釣銭を回収し、そして彼女に背を向けた。


 休憩所を出て廊下を曲がって。手にした黒い缶を自分の頬に押し当てる。冷たくて気持ちがいい。

 ああ、でも。どうしよう、コレ。

 勢いで持って来たけど。俺、飲めないんだよな。砂糖もミルクも入れないと。

 まあいいか。家、持って帰ったら。ねーちゃんが飲むだろ。


 *


「で、持って帰ったんだ?」


「だって、缶コーヒー一本であんな絶望してるの見たら、ほっとけないだろ。だから、ねーちゃん飲んで」


 真っ黒な缶を渡したら、ねーちゃんはにやにや笑う。何だよ、その表情。


「あんたさあ、そんなことしたら惚れられるよ? 私なら惚れてたね」


「えっ」


 俺が驚くのは主語がねーちゃんのほう。そんなことで惚れてくれるなら、簡単なことだけど。結局、ねーちゃんにとってはそもそも俺は惚れる対象外なので、どうにもならないのが悔しい。

 そんな俺の動揺を、ねーちゃんはその女子が主語だと思っているようで、引き続きにまにましている。


「今ごろ、消えてなくなりたいって思ってるかも」


「え、なんで」


 あれか、通りすがりの人に施しを受けて、プライドが傷ついて、悔しくて堪らなくて消えたくなるってことか?

 首をかしげる俺に、ねーちゃんは言う。


「私、好きな人にそんなことされたら、嬉しいし、恥ずかしいし、ときめいちゃって、心臓どうなってんのってなるし、床転がりたくなるし、壁に頭打ちつけたくなるし、もういっそ消えてなくなりたいって思うよ、あ、脳みそが蒸発しそうな感じ? 頭ぐるぐるなりすぎて、幸せで」


 まるで自分がそれを経験したみたいに、ねーちゃんはうっとり幸せそうな顔だった。手に持った缶を頬に押し当てて、にたにたしている。

 あー、ねーちゃんと間接ほっぺをしてしまった。俺はそっちの方がドキドキする。


「まあ、でもそれってさあ。俺に対してちょっとでも好意があればの話だろ? ナイナイ、大丈夫」


 俺がハハッと乾いた笑いを漏らせば、ねーちゃんは改めて俺のことをじっと見て、はあーって、生温かいため息を吐いた。


「まあ、見た目がそれだから大丈夫か、こわもてだもんね、あんた」


「だろ?」


 付き合いが長い相手には、見た目関係なく接してもらえるけど。そうでない相手には、だいたい引かれるもんなあ。

 だから大丈夫。惚れられることもないし、彼女が消えるようなこともない。買い間違えた飲み物が美味しく交換できてラッキーだった、それだけのこと。


 そう俺はまとめたけど。

 缶を開くねーちゃんの頬には、まだちょっと笑みが残ってる。


「あ、怖いからモテるのか、こわもて、ふふふ」


 え、こわもてって、そんな意味だったっけ?



 *

 *

 *


 ビルの各フロアに設置されている休憩所。飲み物の自動販売機といくつかのベンチ。人が集うのは窓から射し込む光が心地いい三階か、ベンチだけでなくテーブルもある五階か。外部の人との軽い打ち合わせにも使われる、玄関横も人気。ビル内完全禁煙になってからは、喫煙場所に出られる一階にも人が流れている。


 私が使うのはそのどれでもなく、もっぱら、四階。フロア自体が機械室と倉庫と空き部屋になっているため、ほとんど人の出入りがないのがとてもすてき。あと、照明もだいたい落とされていて薄暗いのがいい。窓はあるけど隣の建物に遮られて灰色の壁しか見えないし。機械室からずっと何かが震える音が漏れていて、好き。


 私は自分の体の調子をけっこう、自分でわかっているつもり。今はメンタル不調な時。波が下降気味。こういうときは明るい休憩所に行って、誰かとにこにこお喋りするのもしんどいんだ。ひとりになりたい。


 消えてなくなりたいなあ、って。ときどき思う。

 そしてその言葉は、けっこう危険。

 だってネットの検索窓に入れたら、かなり本気の相談窓口をすすめられる。つまりはそれぐらい、この意識を持つこと自体、危ういんだよね。


 あぶないことをあぶないとわかっている自分は大丈夫、と思っている人こそ、きっと何かのきっかけでぐらりと。揺れて、落ちて、それで本当に消えちゃったりするのかもしれない。

 こんなこと考えるの嫌なのに。不調な私は考えずにはいられない。


 硬貨を入れた自販機が、がたんと缶を吐き出す。

 少ししゃがんでそれを引き上げ、私は顔をしかめた。


「うわ、さいあく」


 もしかしたら自販機の商品の入れ間違い?

 ううん、そんなことない。どうせ、私の押し間違い。

 飲みたくない飲み物が私の手の中にある。

 冷たく黒い苦い汁。


 私が飲みたかったのは、温かくて甘い汁なのに。

 もう一本買おうか、ああでもこれどうしよう、と考えていたら。

 ひょい、と。隣に缶が移動した。というか、奪われた。


 驚いて顔を横に向ける。いつの間にか、すぐ隣に人がいた。びっくりである。

 スーツ着てる。メガネしてる。でも変な髪形。


 何でこの人勝手に私の缶横取りしてんの。

 睨みつけたら、彼は数枚、硬貨を自販機に滑らせた。


「どれ飲む?」


 そしてその言葉が、自分に向けられていると、私が気づくのに間があって。

 目を瞬かせるばかりの私に、彼はもう一度、声をかける。


「好きなの押せば?」


 自販機のすべての商品が、押して押してとランプを光らせ私に催促する。

 それでもまだ動けない私に、彼は黒い缶を示して言う。


「これ、俺が貰うから。間違って買ったんだろ。交換しよ」


 私はようやく、彼の意図を知る。つまりは私の不注意の尻ぬぐいを、彼はしてくれるということだ。


 でも。知らない人なのに。

 この場所にいるってことは、社内の人ってことだよね。

 交渉に応じてもいいんだろうか。

 お言葉に甘えても大丈夫?

 ううん、むしろ。この程度のことで、こんなに悩む方がおかしい?


 頭の中をぐるぐると戸惑いが巡る。

 すると彼はにいっと、その形のいい唇を少し歪めた。


「同じの押す?」


「えっ」


 彼の指先は本当に、私がさっき押し間違えた黒い缶のボタンに添えられる。

 私は慌てて、本当に飲みたかった、甘くてあたたかい飲み物のボタンを押した。


 ごとん、と落ちてきた缶を、彼が引き出して私の手に押し付ける。

 熱い。


「ありがとう、ございます」


「ん」


 彼は事もなげにそう言って、ちゃりちゃりと数枚の硬貨を拾うと、その場からいなくなる。

 私はまたひとり。


 ふうっと、ため息。それから、休憩所の硬い椅子に腰掛けた。

 いつもより熱く感じた缶を開けて、中身をすする。


「甘い……」


 口からこぼれたひとりごとに、肩の力が抜ける。

 これが飲みたかったくせに。おいしいと思う前に。

 味よりも何よりも、私に広がるのはさっきの彼のことばかり。


 あの人はいったい、誰だったんだろう。


 わいた疑問は私を支配して。さっきまで私のほとんどを埋め尽くしていた、消えたい、なんて感情は。

 今はもうすっかり、消えてしまっていた。


 *

 *

 *


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