素直じゃない婚約破棄の結末
「ロザリア、お前との婚約は破棄させてもらう! 俺はこの娘が気に入ったのだ」
うら若い令嬢を腕にくっつけてロザリアの前までやって来ると、王太子トラウスは声高らかにそう叫んだ。心なしか得意げに鼻を高くしている。
エスコートを断られた時点でトラウスが何か企んでいることは予想していたが、これにはロザリアも意表を突かれた。
(今度は何をなさるのかと思ったら、トラウス様も困ったお人ね)
トラウスの突拍子もない行動には慣れたつもりだったが、こうして驚かされると自分もまだまだ未熟者だと思う。
どうだ参ったかとでも言いたげにロザリアを見下ろすトラウスから視線をずらし、彼の腕にぴたりとしがみつく少女に目をやる。
彼女はロザリアには目もくれず、王太子を見上げて「殿下、嬉しいです」と頬を染めていた。なかなかの図太さだ。
昼食会の招待客らはこの珍事に何を言ったらよいかと顔を見合わせ、それから王太子とロザリアを交互に見つめた。
ロザリアは王太子の婚約者に内定して2年経つ、誰が見ても非の打ちどころがない公爵令嬢である。
だから会場に控えていたトラウスの側近は「何てことを……」と頭痛を耐えるように額に手を当てているし、招待客の一人であるトラウスの友人はやれやれと天を仰いでいるのだ。
婚約破棄を告げられた当の本人はというと、内心はやや荒れ模様だがそれを表には一切出さず、美しい相貌に驚きも焦りも映さない。
それがトラウスを苛立たせるのだとわかっているがこういう性格なのだ。そう簡単には変えられない。
ざわめきが治まるのを待ってから、ロザリアはおもむろに口を開いた。
「トラウス様、その方はどちらの方ですか?」
「ロザリア様、私は……」
「あなたには聞いていないわ」
名乗ろうとした少女をぴしゃりと遮り、ロザリアはトラウスに答えを促した。
トラウスはロザリアの威圧感に若干たじろぎながら、しどろもどろに答える。
「ええと、西方領地の男爵家の娘だ」
「……子爵家ですわ、殿下」
少女が遠慮がちに訂正を入れた。
「そうか、名前はアンナだったか?」
「ヘンリエッタです」
薔薇色に色づいていたヘンリエッタの顔から、瞬く間に輝きが失われていった。名前すら覚えられていない事実を目の当たりにしたのだから仕方ない。
ロザリアは気づかれぬよう小さくため息をついた。
(本当に困ったお方だこと。気に入ったというからには名前ぐらい覚えておいてほしいものだわ)
ロザリアが変な方向に怒りと呆れを抱いた一方で、ヘンリエッタはというと舞い上がっていた気持ちは早くも萎みつつあった。
突然トラウスに手を握られ「お前が俺の運命の人だ」と愛を囁かれれば、当然どこかで見染められたのだと思うもの。それが実際には名前も覚えられていなかったなんて。
私もゆくゆくは王太子妃ね、などと浮かれた自分が馬鹿みたいではないか。
一気に表情を曇らせたヘンリエッタの心情を概ね正しく読み取りながら、ロザリアはトラウスに正論をぶつけた。
「トラウス様、その方が子爵家の娘でも男爵家の娘でも構いませんが、わたくし以上に役立つ者でなければこの地位は譲れません。その方の実家は王家にとって有用ですか?」
「それは、その……」
トラウスは口ごもった。知らないのだから答えようがない。
「当人の資質も肝要です。王太子妃に相応しい、隣国の王族たちと渡り合っていく度胸と知識をお持ちですか?」
「ううん、どうだろうな……」
ヘンリエッタを庇うでも反論するでもなく煮え切らない態度のトラウスに、業を煮やしたヘンリエッタが詰め寄る。
「殿下、私を運命の人とおっしゃったのは嘘なのですか? 愛してくださっているのならそんなことどうでもよいではありませんか」
「えっ!? いや、君のことは気に入っているぞ、うん」
目を泳がせて答えたトラウスを、ヘンリエッタが猜疑心たっぷりに見る。
「それならば私のどこをお気に召したのか教えてくださいませ」
「あーそうだな、何も考えてなさそうなところが……」
「何も考えてなさそうですって!?」
ヘンリエッタが目を吊り上げてトラウスの腕を振り払った。
もはや招待客の間にはヘンリエッタに対する同情が生まれていた。殿下、怒られろ。
怒り心頭の令嬢にトラウスが慌てて言い繕う。
「いや、言葉が悪かった。君といると何も考えなくてもよくて楽そうだと言いたかったんだ」
「言い換えてもおっしゃっていることは同じではありませんか! ……ロザリア様、申し訳ございませんでした。私には過ぎた夢でしたわ」
ヘンリエッタはロザリアに頭を下げると、トラウスの言い訳を聞く前にそそくさと会場を後にした。トラウスはヘンリエッタに手を伸ばした状態で固まっている。
側近がうおっほん! とわざとらしい咳払いをした。これ以上間抜けな姿を晒さないでくれという側近の願いが伝わり、腕を下ろしたトラウスにロザリアが言う。
「わたくしは当家の誇りと王家の威信に懸け、おいそれとこの座を降りるわけには参りません。婚約を破棄なさりたいのでしたら、わたくしより教養に優れ、知識に富み、各国の使節官たちと対等に渡り合える者をお探しなさいませ」
「そんな女がほいほいいてたまるか!」
トラウスはロザリアを睨んでから、肩を怒らせて会場から出て行った。
主催者がいなくなってしまい、ざわめきと戸惑いが辺りを包む。
招待客はトラウスと同年代の若い客で占められている。この中では王太子の従姉妹であるロザリアが最も格上になるだろう。
ロザリアは周囲を見回して、何食わぬ顔でのたまった。
「皆さま、殿下の余興はいかがでしたか? とってもお楽しみいただけましたでしょう?」
「余興……そうですわよね、素晴らしい余興でしたわ」
ロザリアの取り巻きの一人が迎合すると、余興か、そうだよな、と空気を読んだざわめきが大きくなっていく。
本心では信じていないに決まっているが、ロザリアがそうだと言えばそうなのだ。誰も未来の王太子妃に対して嘘を糾弾しようとは思わない。
「トラウス様はいなくなってしまいましたけれど、引き続きご歓談くださいませ」
この件はもはやこれまで、という圧を込めた笑みで、会場の話題を強制的に変えてしまう。
次第に落ち着いた空気が戻り始め、ロザリアは涼しい顔の裏で胸を撫で下ろした。
トラウスに振り回されるのに慣れすぎて、大分機転を利かせるのが上手くなってきた気がする。いや、機転というには無理やりすぎたか。
もう少し上手く治める方法はなかったかしらと会話に興じつつ考えていたところで、先程とは別の取り巻きが声を潜めてヘンリエッタを非難し始めた。
「ロザリア様、余興とはいえあのご令嬢は少し本気になさっていた様子ではありませんでしたか? ロザリア様がいらっしゃるというのに、身の程知らずですわよね」
余興と認めている手前、トラウスを批難するわけにはいかないからその矛先はヘンリエッタのみに向かう。
おおかたロザリアに媚びようとしているのだろうがと推測しつつ、穏やかに己の支持者を諫める。
「責めを負うべきはヘンリエッタ嬢をエスコートしてきた殿方ではなくて? 彼女はまだ保護者が必要な年齢ですもの。それに、社交界デビューしたばかりの頃は誰しも夢を抱くものでしょう」
「それは……まあ、そうですわね」
ビクリと体を跳ねさせてこそこそ会場を出て行く男を視界の隅に入れながら優しく微笑むと、ばつが悪そうに令嬢が口ごもった。
ロザリアだって本音を言えばヘンリエッタに憤りが全くないと言うと嘘になる。しかしそれより問題なのはトラウスだ。あまりにも王太子としての自覚が欠けている。
王太子妃としての求心力は必要だが、トラウスが舐められるのも困る。
また煩がられながらお小言を言わないといけないかしらと、ロザリアはその光景を想像して吐息した。
「失礼しますよ」
「来たか。ほらお前の分だ」
王太子の居室に呼ばれた友人ラダルは、トラウスにグラスを渡され捧げ持つように受け取った。
これから王太子の癇癪に巻き込まれるのだから、良い酒を楽しむぐらいは許されるはずだ。
トラウスはラダルのグラスに酒を注ぐと、自分の酒を一気に煽った。腹立たしそうに手酌しようとしたので、今度はラダルが酒を注ぐ。
トラウスはそれもあっという間に飲み干した。空になったグラスを音を立てて置くと、ぐちぐちとぼやき始める。
「どこかにロザリアに見劣りしない女はいないのか? お前には妹がいただろう。妹はどうだ」
「まあ貴族令嬢なりに教養は身につけていますが、ロザリア様に比べたらとてもとても。なんたってロザリア様は周辺国の言語に不自由しないどころか文化にまで精通されていらっしゃる。小耳に挟んだ話によると、経済や数学や天文学にもお詳しいらしいではないですか。どこを探したってそんなご令嬢はいませんよ」
「そんなことはわかってるんだ」
その事実こそが憎らしいと言いたげなトラウスに、ラダルは呆れ混じりに問いかける。
「殿下は一体何がご不満なんですか? ロザリア様は教養の高さもさることながら、とてもお美しい方ではありませんか。これ以上高望みしたら罰が当たりますよ」
「……それが問題なんだ」
「何が問題なんです?」
「あいつの顔が好みにドンピシャすぎるのがよくない」
「……はい?」
ラダルは聞き間違いかと耳を疑った。
「あのアーモンドのような涼やかな目と、桃色に染まる頬、形のよい唇……この世にあいつ以上の女がいると思うか?」
「えーっと……私は今のろけられているんでしょうか」
「ばか言うな、のろけなものか! ロザリアがいるとどんな女を見ても無味無臭にしか感じない。年頃の女は全員同じような顔に見えるんだ。考えてみろ、女を見ても喜びを感じられないのがどれほど苦痛か。俺は女が大好きだというのに……」
「……」
「俺は大勢の女を愛したいんだ。それがロザリアがいるだけでその他大勢が霞んでしまう。あいつが王妃になりでもしたら、俺の後宮を女で満たしたところで食指が動かないのが目に見えてる。それでは俺の博愛主義が発揮できん」
「……さようですか」
やっぱりのろけじゃねーかとラダルは心の中で突っ込んだ。
昼食会が終わり会場を後にしたロザリアは、その足で王太子の部屋に向かった。
2年も婚約者の座にいるので通い慣れた道である。騎士もロザリアの顔を知っているので、心得た様子で室内に声をかけた。
「トラウス殿下、ロザリア様がお越しです」
「お帰りいただけ」
「失礼します」
中から聞こえた言葉を無視して、ロザリアは扉を開けた。
ラダルは既に立ち上がりロザリアに席を明け渡している。
ロザリアはトラウスの正面の椅子に遠慮なく座った。
「トラウス様、真昼間からお酒を嗜まれるのはほどほどになさいませと申し上げたはずです」
「うるさいな、用件は何だ」
「もちろん先程のことですわ。婚約破棄となればわたくしも立場上反対せざるをえませんが、側妃であれば周囲の説得も容易いでしょう。わたくしが息子を産んでからであれば、側妃を娶るのも文句はございません」
「それではお前と側妃をずっと比較し続けることになるじゃないか!」
「何か問題がありますか?」
「大有りだ、意味がない」
「……何だか話が噛み合っていない気がいたしますが」
ロザリアが後ろに立っているトラウスの友人を振り返ると、ラダルは「私視点ではばっちり噛み合っています」と片目を瞑った。
首を傾げながらロザリアはトラウスに向き直る。
「トラウス様がわたくしのような可愛げのない女ではなく、愛らしい女性を好まれることは存じております。けれどわたくし、女だからといって見下されるのは嫌なのです。だから努力しておりますし、努力の結果である今の自分は嫌いではございません。トラウス様の好まれる人間になれないことは申し訳なく思っております」
「いや……別に好みじゃないわけじゃ……ただ、」
「何とおっしゃいました? もっとはっきりとおっしゃってくださいませ」
「お前が眩しすぎるのがいけない」
「……今日はこうして深緑のドレスを着ていますけれど」
ロザリアは自分の服を見下ろした。
前にもトラウスから「お前はチカチカと眩しすぎて目に痛い。もっと暗い色のドレスを着よ」と言われたことを結構気にしていたので、今回は地味なドレスを着てきたのである。
「これ以上暗い色となると喪服しかございません」
「そうだ、黒でいい。ついでに顔も隠してしまえ」
ロザリアはトラウスの発言に少なからずショックを受けた。まさか顔も見たくないほど嫌われているとは……。
「殿下、誤解を招くような言い方はいかがなものかと」
見かねたラダルが進言する。
「ああ違うんだ。俺はロザリアの顔を見ると落ち着かなくてだな」
「見ていると落ち着かないほど好ましくない顔だと……?」
「違う! つまりその……」
「つまり?」
ロザリアが続きを待つ。ラダルがさあ言えと拳を握る。
「……今度は仮面でも着けてくるんだな!」
ラダルはパタリと拳を下ろした。
ロザリアが硬い表情で立ち上がる。
「……今日はこれで失礼いたします。くれぐれも馬鹿な真似はなさいませんよう」
感情のない声で挨拶して、ロザリアは去った。
頭を抱えるトラウスにラダルが言う。
「殿下、阿呆ですね」
「うるさい……」
ロザリアは王妃に呼ばれて王宮を訪れていた。
その帰り、煌びやかな集団が前方に見えたため隅によける。隣国の第三王子とその部下たちだ。来訪時にロザリアも王族として挨拶を受けた。
身分的にはあちらが上なので、王子たちが通り過ぎるのを待つ。
王子は近くまで来るとロザリアに気さくに声をかけた。
「ロザリア姫、またお会いできて嬉しいです」
「勿体ないお言葉でございます」
「そんな堅苦しい挨拶は止めてください」
王子は爽やかに笑う。トラウスとはまた違う種類の眉目秀麗な青年である。
(トラウス様はお顔の彫りが深いし眉がきりりと上がっているから強い印象を与えるけれど、王子はいつも笑っていて優しげに見えるから、その違いかしら)
半ば無意識にトラウスと比較して分析まで終える。
(トラウス様もたまにはこうして笑ってくださればよろしいのに……)
笑顔とはそれだけで人に好印象を抱かせる魔法である。ロザリアは計算して使っているし、恐らく目の前の第三王子も同じだ。
その武器を使わずになんだかんだで信頼のおける部下や友人を増やしているトラウスのほうが凄い気はするが、いかんせん不器用すぎる。そして短絡思考すぎる。
(……いけない、上の空だったわ)
第三王子がロザリアに話しかけてくれた良い機会なのに、いつもの癖でうっかりトラウスのことばかり考えていた。
王子は何やら熱心に話していたが適当に相槌を打ってしまっていたので、さりげなく話題を探る。
「申し訳ありません、ええと、つまり……?」
「こんなことを突然言っては困惑されるのも無理はありませんね。あなたを僕の国に迎えたいと申し上げたのです」
「……は?」
そんな話をしていらしたの!? とロザリアは仰天した。反応を表に出さないようにするのも一苦労だ。
「トラウス殿下のあなたに対する無礼な行いは僕の耳にも入っています。あなたは美しく聡明な女性だ。殿下の尻拭いをするだけがあなたの人生ではないはず。彼よりも僕のほうが姫を幸せにできます」
王子は真摯な眼差しでロザリアを見つめている。
間違いなくトラウスよりも賢明で堅実で、余計な事件を巻き起こしたりもしない。
誰が見ても第三王子を選ぶべきだと判断するだろう。
美しい王子の求婚に揺らがない女がいるとしたら、それはきっと既に愛する人がいる者だ。
「わたくしの殿下を侮辱なさらないで」
硬い声でロザリアは拒絶した。
予想外の反応に王子は目を白黒させる。
「ろ、ロザリア姫?」
「わたくしはトラウス殿下の妻となる人間です。トラウス殿下のなさることに驚き、頭を抱える日々を愛しているのです。わたくしがそれを望んでいるのです」
「……まさかとは思うが、あなたは彼を愛しているのですか?」
「はい」
ロザリアははっきりと首肯した。
絶句する第三王子に丁寧な挨拶をすると、ロザリアはその場を後にした。
トラウスが王宮を歩いているとき、その声は聞こえた。
(ロザリア? と、第三王子か?)
声の主に当たりをつけ、トラウスは声のほうへ歩みを進めるか迷った。ロザリアには会いたくない。
どうしようかと思っていると自分の名前が出てきてますます出て行きにくくなる。
盗み聞きしている状態に後ろめたさがないでもないが、誰に聞かれるとも知れない場所で話しているほうが悪いと開き直り、立ち聞きを続ける。
(王子はロザリアを口説くつもりか? いい性格をしてやがる……)
一国に喧嘩を売る行為を堂々とするとは舐められたものだ。
しかし確かにロザリアにとって第三王子のほうが優良物件に見えるのは間違いない。トラウスが彼女にしてきた行いを顧みれば、ロザリアさえ承諾すれば実現の可能性は大いにある。
(くそっ……そいつは俺の女だ。手を出すな!)
自分の行動を棚に上げて憤る。
怒りに任せ物陰から姿を現そうとしたときだった。
「わたくしの殿下を侮辱なさらないで」
ロザリアの言葉に足が止まった。
散々迷惑をかけてきた自覚はある。まさかトラウスを庇うとは思わない。
しかも、
(ロザリアが俺を愛しているだと……?)
馬鹿だろう!? と叫びたくなったのは誰に対してだろう。ロザリアか、それとも自分自身に対してか。
彼女が去った後も、トラウスはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
ロザリアは公爵家の邸宅で兄を相手に愚痴を零していた。
「最近のトラウス様は大人しくてつまらないわ」
「良いことじゃないか」
「そう、良いことなんだけれどね。困ったことに、わたくしは殿下に振り回されるのも嫌いではないの」
「損な性格をした妹だな」
「まったくよ」
ロザリアは肩をすくめ、メイドが持ってきた焼き菓子を頬張る。
そこへ父が疲れた様子で帰ってきた。
「ロザリア、お前が第三王子に求婚されたという話が王宮で噂になっているようだ」
「何ですって?」
ロザリアは驚き立ち上がった。
「誰もいなかったはずなのに」
「誰かがいたのだよ。お前から報告を受けてすぐに陛下にはご報告申し上げたから、問題にはならんはずだが」
「問題ならあるわ」
そう返すと、メイドに外出着と馬車の準備を命じる。
「トラウス様のお耳にどう届くかわからないわ。噂というのは得てして捻じ曲げられて広がるものだもの。殿下にお会いして直接お話ししてきます」
メイドが持って来た外套を羽織り、ロザリアは慌ただしく邸宅を出た。
馬車で王宮前に乗り付け、トラウスの部屋へ直行する。
いつも通り騎士の取り次ぎ後、どうせ追い返されるから無視して入る……予定だったが、「通せ」と声が聞こえて驚く。
ロザリアは扇を準備して中に入るとまずは挨拶をした。
「突然の訪問をお許しください」
「お前の来訪はいつも突然だろう。今日はどうした?」
常になく穏やかな口調のトラウスに戸惑いながら、ロザリアは用件を述べる。
「わたくしが彼の国の第三王子に求婚されたという噂についてです。確かに事実ではありますが、わたくしはその場でお断り申し上げました」
「ああ、知っている」
特に怒った様子のないトラウスに安堵の息を吐く。これが原因で国同士の関係が拗れでもすれば、ロザリアの責任も問われかねないところだ。
安心すると、今度はどこまで噂が回っているのか気になり始めた。
(わたくしがトラウス様をお慕いしていることまで知られていたら生きていけないわ……)
トラウスが己を疎ましく思っているのは知っているから、あくまで対等な立場を維持するために決して表に出さないようにしているのに。
まさかトラウスがその場にいたとは思わず、ロザリアは恐る恐る尋ねる。
「トラウス様が噂でお聞きになったのは、わたくしが求婚をお断りしたというところまででしょうか?」
「……ああ」
一拍置いてトラウスが頷く。何やら間があったのが気になるが、深入りすると要らぬことまで話すことになりそうなので、ロザリアも黙して頷いた。
「それならようございました」
「……ところで、何だそれは」
トラウスが指差すのはロザリアの持つ扇である。
ロザリアは礼をして顔を上げてからずっと扇で顔の大半を隠していた。
「さすがに仮面を着けるわけには参りませんので、これでご容赦を」
「そんなものは必要ない。下ろせ」
そう言ってもロザリアが躊躇っているのを見て、トラウスはつかつかとロザリアに歩み寄り腕を取る。
「俺が言ったことは忘れろ。……いや、これでは身勝手すぎるな。俺が言ったことは全て嘘だ。お前に顔を隠してほしいなんて思っていない」
「それでは、どうしてあのようなことをおっしゃったのですか?」
「……お前が眩しすぎたんだ。いつも俺の目にはロザリアだけきらきらと光って見える」
トラウスは眩しそうに目を細めている。今もトラウスにはロザリアが鮮やかに輝いて見えるのだ。
「お前が顔を隠したところで煌きは消えない。それに気づくのが遅すぎた」
ロザリアさえいなければ、他の女たちにも色彩は戻ると信じようとしていた。……自分だけがロザリアを愛しているだなんて、プライドが許さなかった。
つまらない見栄を張って、どれだけロザリアを傷つけてきたか知れない。
それなのにロザリアが自分を慕ってくれているのだとわかれば、もう自分の気持ちに素直になるほかない。
「お前のような女は他にいない。それを認めたくなくてお前には酷いことを何度も言った。すまない」
「……わたくしの勘違いでなければ、つまり、その、愛の告白をされているように聞こえるのですが……」
いつも明朗に話すロザリアが、顔を赤くしてたどたどしく話すのを見て、トラウスの中に猛烈に愛しいという想いが込み上げてくる。
ロザリアの美しく潤む目を見つめ、トラウスは精一杯の誠意を込めて告げる。
「ロザリア、愛している。お前の美しい顔も、強気に光る目も、くるくるとよく回る頭も、生意気な言葉も好きなんだ」
トラウスは腰を屈めてロザリアの右手を掬い上げた。
口付けようとしたとき、その人差し指に指輪が嵌められているのに気がついた。トラウスには見覚えがない。渡した覚えがないのだから当然だ。
自分の知らない指輪をしていることに身勝手な苛立ちを覚える。
「今度俺が指輪を送るからそれは外せ」
「これは王太子の婚約者が代々受け継いでいる指輪ですわ。無茶をおっしゃらないで」
「うるさい」
指先にそっと口付ける。今となっては薄桃色の爪さえも愛おしい。
上目遣いにロザリアの顔を見ると、落ち着かない様子で視線をあちこち彷徨わせている。口では強気なことを言っているが、動揺しているのは一目瞭然だ。
トラウスはくすりと微笑んだ。屈んでいた姿勢を戻し、ロザリアの唇に己の唇をゆっくりと合わせる……
……はずが、もふっとしたものに顔が当たった。見れば扇で遮られている。
扇の上にロザリアの目だけが覗いていた。
その目はにんまりと悪い笑みを浮かべている。
「……何だこれは」
トラウスはむっと声を低くした。
「お手が早すぎますわよ」
「今いい雰囲気だったろうが!」
「謝って済むと思われたら困りますもの。行動で誠意をお示しくださいませ」
「お前……可愛げのないやつめ……!」
「あら、それがお好きなんでしょう?」
「ぐっ……」
トラウスは言葉に詰まると、そっぽを向いて呟いた。
「お前だって俺のことが好きなくせに」
「な、なんで知って……!」
ロザリアの顔が驚愕に染まった。
「やっぱり噂を聞いていらしたのですね!?」
「いや、直接聞いていた。あの場にいたから」
「な、な、なんてこと……」
ロザリアはふらりとよろめいた。トラウスがとっさに抱き寄せる。
ロザリアは真っ赤な顔のまま至近距離でトラウスを睨んだ。
「いい気にならないでくださいませ!」
「おい、なんでいい気になったらいけないんだよ……」
トラウスが呆れた声で言う。
ロザリアも自分で言いながら理不尽すぎると思うのだが、恥ずかしいやら微妙に悔しいやらで素直になれない。結局のところ似た者同士の2人なのである。
そこのところはトラウスのほうが察しが良かった。
「よーしわかった、俺たちは歩み寄りが大事だ。素直になろう、な」
「そうですわね。ええ、それが大事です」
お互いに弱みを握られたくないと思っていては一向に距離は縮まらない。
「さあトラウス様、お先にどうぞ」
「お前なあ……卑怯だぞ?」
「トラウス様に言われたくありません」
「…………ロザリア、俺は一生お前だけを愛すと誓うよ」
「……わたくしもです、トラウス様」
けれど、お互いに弱みを握られたようなこの状況も、案外悪くはないかもしれない。