こんな時、ハンカチのひとつも渡してやれればよかったんだが
「昨日もチラッと言ったけど、私が生まれたのは今から1584年前。ちょうど、見えてるけどさ――」
そう指差しするのは、夜空――というか星の世界――に青く浮かび上がるエルリーゼ。
「レスタイン大陸東側のとある街。そこでパン屋を営んでいた父さんと母さんの間に、クラウリアは生まれたの」
「……そういえば、クラウリアの出自は聞いたことがなかったな」
レスタイン大陸の生まれというところまでは割と有名な話。けれど、虹剣を手にする以前に関しては記録が残っていなかったとのことで。
「風化した、ってことなんだろうね。ともあれ、そんな生まれだった私は荒事とは無縁のままに育った。だからさ、私が抱いた最初の夢は『大きくなったら看板娘になって、父さんと母さんのお店を世界一にするの!』だったね。若かったっていうよりも幼かったんだなぁ、とは思う。けど、あの頃は本当に幸せだったって、胸を張って言えるのも事実かな。……そんな私に起きた最初の転機は、7歳の時。故郷が魔獣に――異常種に率いられた剛鬼の大群に襲われたの」
異常種に率いられた魔獣の大群が生息域の外に出て人里を襲う。言われて思い浮かんだのは、カイナ村の村長さんから聞いた話。あの時は大鬼だったとのことだが、それでも生きた心地がしなかったと、村長さんは言っていた。
そして剛鬼というのは大鬼よりも数段強い。しかもそんなのが大群で。悪い冗談としか思えない出来事だ。
「幸い、だったのかはさて置くとして。私の故郷って、結構規模の大きい街だったの。だから、虹追い人もそれなりの数が揃ってて、領主様が抱える兵団だって、精鋭揃いだって聞いてた」
「それは、剛鬼の大群を相手取れるだけの戦力だったのか?」
「無理。さすがに相手が悪すぎたから。もちろん、ことがことだからね。各地からも多数の援軍が駆け付ける手はずになってたよ。そこで領主様が立てた作戦は、守りに入るのではなく、正面から打って出るというもの。散らすことができなくても、少しでも浮足立たせることができれば。勢いを止めることができたなら。その隙に援軍と挟撃をかけるのが狙いだった」
「……上手くいけば、街への被害はゼロに抑えられそうな話だな」
「うん。父さんから聞いた話でも、領主様は住民を大事にしてたそうだし、その時だって陣頭指揮を取ってたみたい。けど……」
上手くいかなかった、というわけか……
ここで「けど……」と口にする意味くらいはわかる。
「運が悪かった。あるいは、間が悪かったんだろうね。数日前までの大雨で川が増水しててさ、山から流れてきた流木が橋を破壊しちゃったの。それも複数の場所で。この流れから見えてると思うけどさ――」
「そのせいで、援軍が間に合わなかった、と?」
「そういうこと」
「……最悪じゃねぇかよ」
「同感。一時は剛鬼の群れをひるませたけど、すぐに勢いを取り戻されてしまって。そうなれば地力の差は明らかで。しかも肝心の援軍も間に合わないとなれば……。結果、部隊は壊滅。残る剛鬼はそのまま街の中になだれ込んできちゃってさ」
当然ながら、街に残っていたのは戦う力を持たない人たちばかり。そうなれば……
「私はさ、父さん母さんと一緒に領主様の館に避難してたの。けど、気が付いた時には瓦礫の下敷きになってた」
「そうか……」
クーラが話しているのは過去に起きたこと。すでに終わってしまった出来事で。俺は相槌を打つしかできなくて。
「私には怪我らしい怪我も無かったんだけど、それは父さんと母さんがかばってくれたから。ふたりで、私に覆いかぶさるようにしてね。けどさ……」
声に揺らぎが混じり始めて、
「虹追い人でもなく、心色を持ってるわけでもない。そんな父さん母さんが瓦礫に押し潰されたりしたらどうなるか、予想は簡単だよね?」
「……ああ」
すぐに浮かんだのはひとつきりで、それ以外はまったく想像できなかった結果。それは――
「アズ君?」
少し驚いたように、俺の名を呼んでくる。俺がクーラの手を握ったからだろう。
「悪い。こんなことしかできなくてさ……」
特に考えがあってやったわけじゃない。仮にあったとしても、少しでも気休めになればと、せいぜいそんなところだろう。
「違うよ」
けれどクーラは静かに首を振る。
「君は、『こんなことしかできない』んじゃない。『そうすることができる』んだよ。……前々から思ってたけどさ……私、君のそういう……すぐに自分を卑下するところだけは嫌いだよ」
「……そう言われてもな」
「ヤンチャしてた頃への後悔がそうさせてるんだろうけどさ……。それでも、嫌いなものは嫌い」
「……そうかよ」
「うん。だから、いつかは自分に胸を張れるようになってほしい。その時を見届けさせ……っとと、話を戻すよ」
それでもクーラは手を離すことはなくて。
「……それっきり、父さんは何も言ってくれなかった。……母さんは、泣き出しそうになる私を必死で励ましてくれてたけど、だんだんとその言葉も弱くなっていって。……何よりもキツかったのは、抱きしめてくれてる身体がどんどん冷たくなってたこと。……それと、私が大好きだった、父さんと母さんの身体に染み付いてたはずのパンのいい匂いが全然しなくて、代わりに鉄さび臭さが鼻をついてたことだった」
その状態を明言はしなくても、意味は理解できる。声の揺らぎも強くなって、俺の手を握り返す力も増していた。
「……その後、各地からの援軍が到着してくれて、剛鬼の群れは討伐され、私は助かった……ううん、死なずには済んだわけだけど」
言い直す。その辛さはきっと、今の俺で理解できるようなものではないんだろう。
「……無口だったけど、その行動はいつだって優しかった父さんも。……豪快でいつも笑ってた母さんも。……父さんの弟子で、私にも親切にしてくれた双子のお兄さんたちも。……いつもは憎まれ口ばかり叩くくせに、私が落ち込んでるときに限って優しくしてくれた近所の男の子も。……花が咲いたら、一緒に冠を作ろうねって約束してた花屋の女の子も。……裁縫好きで、私のためにいつも可愛い服とか帽子を作ってくれてたお隣のお婆ちゃんも。……みーんな、その日を境に居なくなっちゃったの」
普段の明るい様子からは結びつかないような過去。ウザいと感じたら切り捨てていいという前置きの意味を理解できた気がする。
その時を思い出したからなんだろう。その頬を流れるものもあって、
「……悪いな。こんな時、ハンカチのひとつも渡してやれればよかったんだが」
そして、俺に言えたのはそれくらい。ズボンのポケットには常備していたはずなんだが、あいにくと衣服は全部、ボロボロの血みどろ。使い物にはならないだろう。
「……アズ君って、ハンカチ持ち歩く人なんだ?ちょっと以外かも」
「……割と最近のことなんだけどな。シアンさんにそう勧められたんだよ」
「……けど、使ったことってあったっけ?露店で買い食いした時なんかも、服でぬぐってたよね?」
「……一度も無かったな」
仕事の最中には泥を浴びるなんてこともあったけど、そんな時は背負い袋に入れてあるタオルの方がまだ出番はあったというのが現実。
「それじゃダメでしょ……」
それでも、初めて役に立ったのかもしれない。呆れという形ではあっても、少しだけクーラの声が軽くなった気がしたから。




